LiveInPeace☆9+25

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

洞部落フィールドワークに参加して

2010-02-15 | 催し
2/13、奈良県橿原市の洞(ほら)フィールドワークに参加した。
中身が濃かったので、印象に残ったことをいくつか書く。

でっち上げの「神武天皇陵」を見下ろす場所に、穢れた村があるのはけしからんということで、強制移転させられた村。

まず、近鉄畝傍御陵前駅から「神武天皇陵」へ向かう。
この道の通る町は、洞の移転先となった地区と同じ橿原市大久保町。ところが、元からあった家の中には、「自分たちは出身ではない」ことを示すため、「南大久保町」や「公苑町」という表札を掲げている家もあるそうだ。
いまだにそういう意識が残っていることにまず驚く。

「神武天皇陵」に到着。
「陵」の前の道路は、天皇が来る時は毎回舗装をやり直し、来ないと何年でも放ったらかしという。
ここでは、天皇中心主義が生きていることがはっきりと見える。
その他、皇族や宮内庁、右翼の滑稽としか言いようのない振る舞いを、いくつも教えてもらった。

いよいよ洞村の跡地へ。
「陵」の参道の途中から道をそれて、うっそうとした森に入り、畝傍山ふもとの急坂を登ったところがそこだ。
共同井戸の跡以外はほとんど痕跡が残ってないように見えるが、よく見ると普通の森にはあり得ないシュロやヤツデなどが生えている。洞村の家に生えていたものが、そのまま残され、成長しているのだ。
確かに、ここで人が生活していたことを示していた。

そしてこの森自体、うっそうとしているようには見えるが、洞村を立ち退かせた後、土を盛って、適当に木を植えただけなのだ。
根付かなかった木が、台風で根こそぎ転倒しても、放置されていた。

その後「おおくぼまちづくり館」で、洞村強制移転の詳しい歴史を聴いた。
その中では、この移転が「強引に追い出された」という単純な図式ではないことが説明された。
移転の話が持ち込まれた時、村としても、それを利用して生活環境を改善しようという前向きな意志もあった、とのことである。

では「強制」ではないのか、といえばそうではない。物理的な強制はなくとも、移転を受け入れざるをえない「空気」があり、他の道がない以上、やはり「強制」なのだった。
しかも、受け入れ先の大久保地区からは「墓は別の場所に移転させること」など、差別的な「13か条の覚書」を突き付けられての移転であった。

こういう複雑な両面を持つ歴史が語られる中、「力によって移転させられた一方的な被害者という捉え方だけでは、天皇制とは闘えない」という言葉が印象的だった。

案内していただいた、解放同盟大久保支部の辻本さんに感謝いたします。

by ウナイ


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
神武天皇陵に米軍基地を見る思いがした。 (ルーラー)
2010-02-16 21:27:18
フィールドワークの案内をしていただいた辻本さんに、私は「まるで米軍基地を見る思いがしました。住み慣れた土地を奪われ、返せと思う方もいらっしゃるのではないですか?」と思わず質問してしまいました。奪われた土地には、無残に痕跡を残さないように、土砂がかぶせられ、カモフラージュのための木々が植えられていました。辻本さんの「天皇のグラビア写真を見て、奥に隠されたどす黒いものを想像しています」という言葉が私の心に一番響き渡りました。辻本さん、ありがとうございました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。