LiveInPeace☆9+25

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

本多立太郎さんを追悼します。

2010-06-13 | 日々のニュース
本多さんは1914年小樽市に生まれる。成人式の時男性だけ裸にされ、兵隊検査を受ける。近眼のため第二種補充兵役として、札幌第25歩兵連隊に配属される。その後上京し、苦学生として、昼朝日新聞社で働き、夜早稲田大学へ通う。軍隊に2回招集され、中国、北千島、シベリアで7年半の軍隊生活を体験する。1937年5月父が「オメシキタ、スグカエレ、チチ」という電報もらい、出征。その出征風景を「自分にとって戦争とは別れ、死を意味し、札幌駅から軍用列車で25人出征したが、2人しか帰れなかった」と語り、思い出すのもつらいだろうと私は思った。本多さんは1936年2月26日の2・26事件にも遭遇し、「東京朝日新聞社へ通勤しようとしても、有楽町が封鎖され、行けなかったことに、恐怖と怒りを感じた。今日朝日新聞社阪神支局の記者が亡くなった事件を思うと、沈黙の群衆がいて声を上げないことが罪になるのではないかと思う。全く同じ道を進むのではないか」と警鐘を鳴らされていた。そして「私がシベリアから帰った時、もう戦争はやらないと思った。天皇制はなくなっていると思ったが、天皇はいた。戦争を命じた者が戦争責任を取るべきだ。日本列島の住民が追及しないから、平和主義者だったと言われている。人間天皇なら自分で責任とれよ」と厳しく天皇の戦争責任を追及する姿勢に心を打たれた。

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1 コメント

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Unknown (ヒデ)
2010-06-13 20:34:37
天皇批判がタブーであったときに天皇の戦争責任を公然と追及するという、その一点だけでどういう人であったかということがうかがい知れます。そういう気骨のある人が一人また一人と亡くなっていく時代にあって、新たな世代の気骨ある人々が登場する必要があると、強く思います。
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