2000年2月2日、たまたま自宅に電話したところ、兄から父が危篤であることを知らされた。
そして、翌3日の17:20ヒースロー発の便に家族5人が乗り込んだ。関西空港に着いたのは翌4日(金)の15:00。福井の実家に急ぐ。
病院に着いて父に会う。12月末に帰った時とは随分容態が悪化している。視点が天井を向いたままだし、ほとんどしゃべれない。肺炎を併発していて息がつらそうえだった。まだまだこちらの言うことは理解できる と母は言っていたが本当にそうだろうか?
翌5日(土)、11:00に担当医に父の状況を聞く。肺炎を併発しているので危険な状態であるとのこと。でも今日はつらそうではない。看護婦さんの問いかけにも反応する。日曜、月曜と何度か見舞いに行くが、病状は少しよくなったり、悪くなったり。
ついにその日、2月8日(火)、朝7:00に母から大谷家に父の状態があまり良くない旨の連絡があった。8時前に弟の和彦に病院に行って状況を見て来るように指示。8:30和彦から血圧が計れないくらい悪化しているとの連絡あり。ます義姉に電話して、兄が今日静岡に出張に行かないように連絡。女房と2人で8:50に大谷家を出て病院に向かう。9:15病院に着く。すでに二人部屋のもう一人は別の部屋に移されていた。父の呼吸が荒い。大きくゆっくりつらそうに吸う。目はもう閉じたまま。義姉に連絡して、金沢にいる兄にすぐ戻るように依頼。担当医や看護婦さんがベッドの回りに集まってくる。母、和彦、私、女房の見守る中、呼吸が止まる。しばらくして心電図の波形も真っ直ぐになる。9時30分だった。
8日(火)
病院の電話から関係各位への連絡。一旦黒川家に戻って座敷の掃除。仏様が寝る布団の準備。遺体は病状を確認するために、解剖に回され、家に着くのが14:00となった。同時に葬儀屋さんが来て父の着替えやドライアイス入れ、祭壇の設定を行い、今後の打ち合わせ。いとこの山下武男さん中心となって段取りする。
15:00頃にはしぎっさんのおじさん(寺島直次さん)が足が悪いにもかかわらず父の横に語りかけるように座っている。絶やしてはいけないロウソクや線香にも気を配っている。17:00にお寺の住職さんがお経をあげに来る。私は一旦大谷家に戻り、子供たちを連れて再び黒川家へ。近所の人や近い親戚の人がお悔やみに訪れる。
外は大荒れ、吹雪となっている。夜は隣の部屋に炬燵を持ち込んで寝ずの番。夜中の3時に秋田の叔母さん家族4人が車を飛ばして到着。一杯飲んで4:00に炬燵を囲んで雑魚寝。
9日(水)お通夜
朝、8時近所の男衆が集まって来て、今夜のお通夜があることを近所に知らせるための方法(蝋燭と沈香と金壱千成を配る)について打ち合わせ。あわせてお仏壇の仏具を磨く作業を実施。お昼に裕美と子供3人が来る。子供達は一旦大谷家に戻る。
14:00に湯灌の準備、約1時間かけて父はゆっくりとお風呂に入り体を清められる。その後納棺。
16:00に棺桶は家を出て燈明寺へ移る。このお寺中ががとても寒い。特に入り口が入っていると北風が入り混んでくる。皆が座る床はコンクリートの上に薄いシートが覆われているだけ。靴下だけで歩くと足が凍える。急いで10台ほどあるストーブに灯油を入れ火を付ける。仏様には冷たい方が良いのだろうが。祭壇の真ん中の台上に棺桶が乗せられ回りは菊の花で覆われる。その上に微かに笑っている父の遺影が飾られる。最近は写真は後ろから光が当たるスライド式なのだ。祭壇の右横には果物やお菓子などの供物がずらりと並ぶ。家に帰り喪服に着替えて寺に戻る。
お通夜は18:30から始まるが、18:00頃からぽつぽつと人が集まり、焼香をする人が増えてくる。親戚を入れて100人以上は集まっただろうか。お通夜のお経が始まり、皆の焼香が始まる。お経が終わるとお通夜も終わりだ。
引き続き別の間では、父が入っていた寺の檀家寄り合い(私はおこさまと呼んでいた)の飲み会が始まる。本堂では親戚一同がおかずと赤飯(なぜかこんな時に赤飯をと思うが、これがしきたり)を食べ初めている。親戚は母方と死んだ父方に分かれた。母方はどの方も知っているが、父方の親戚は田の谷の山下家の2人のいとこ意外に知らない。ここで初めて、父は5番目の子供で、父と年が25才も違う義姉がおり、その子供(つまり私といとこ同士)が父と同じ年だったということ、その兄弟(私のいとこ)が何人もいて、今回初めて挨拶をした。
その夜は祭壇のある畳の部分をカーテンで仕切って炬燵を持ち込んでここでも雑魚寝。夜遅くまでなんやかんやと話し込んでいました。
10日(木)葬儀式
一旦家に戻り食事をし、着替えた後、10時の葬儀に望む。近所の方々はお通夜に来て頂いたので、葬儀式は、近所の組織(老人会、おこさまなど)代表の方と、兄や義姉、私、弟の会社関係、それに加えて親戚一同が主な参列者となる。そのため昨日遅くまでかかって焼香順や電報の紹介順を決めたのだ。
10:00から灯明寺と太聴寺の2人の住職があげるお経の中、紹介された名前順にお焼香を行う。お焼香は約30分ほどで終わった。次に喪主である兄からの挨拶。私はなぜがこの時だけは涙が溢れ出てきて仕方がなかった。
11:00に出棺。遺影を持つ母と位牌を持つ雄斗に続いて息子3人に運ばれた父の棺桶は霊柩車に乗った。福井市斎場は西安吾に昨年新しくなった施設で、大型バスを借りて親戚一同は霊柩車の後に続いた。斎場では再度お経があげられ、父の最後の亡骸にひとりひとり合掌と花を添えた。屍の入った棺桶は電動リフトにのせられて焼き場へ。11:50、点火ボタンを喪主が押す。
約1時間20分で焼けて骨だけになる。遺骨を拾う私と和彦と朋美、尋代、雄斗それにめんどうを見る者が居なくなった皓介、敦史、加奈子が斎場に残った。コーヒと飲みながら待つこと1時間強。子供達は尋代と屋外で雪だるまを作っている間に、骨を拾う。父は骨太だったためか思ったよりも多くの骨が残っていた。これを3つの箱に足の先の骨から順番に入れて行く。入れ終わって車で家に向かう途中、子供達は骨をミターイと連発。この時、母や兄たちと親族一同はお茶屋さんで七日法事を行っていた。皆が再度集まるのも大変なので葬儀式の後に初七日を行ってしまうのだ。2時に家に帰るとちょうど七日法事が終わった所で荷物運びのためお茶屋さんに車で迎えに行く。その後遅い昼食。
15:00、息を付く暇もなく燈明寺に行って納骨式。納骨といっても黒川家の墓に入れるのではなく、総墓といわれる寺の墓に骨を納める儀式だ。親戚一同が座敷でお茶を頂いたあと、お経をあげてもらい、お焼香する。持ち帰っきた3つのうちの1つの骨箱のなかの骨をまた別の容器に移し換える。子供達はここで初めて骨を見ることができた。その容器を持って、ゆりかご保育園の前の大きな墓に納める。座敷に戻って再度お茶と一服。ご縁さんやごしんさん(奥さん)と世間話をする。人は病気では死ねない、ご縁があって死ねるのだ とおっしゃっていた。
家に帰って今度は、近所(向こう3件両隣り)に対するご苦労さん会の七日法事。家族の者がお酒を持ちながら接待する。良く知っている人もいるし、初めて見る人もいる。これが終わったのが19:00。ここでやっと家族だけでのご苦労さん会になった。しかしハードな2日間だった。
我々家族5人は、11日一日ゆっくりとしてから、12日(土)朝6:22のサンダーバードで関空に向かい、その日の15:00にヒースローに着いた。
関空からのはるかの中 |
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8日、病院から戻ってきた |
しぎっさんのおじさんがずっと側に |
9日の朝、吹雪の割には雪は少なかった |
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仏具のお磨きもの |
うちの子供達が来た |
}湯灌の準備 | 見守る親族 |
}納棺されてしまった | |
これからお通夜 |
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10日の朝は晴れ |
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花輪が追加された |
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葬儀式を前に |
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お経が始まる |
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喪主の挨拶 |
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ほぼ11:00に出棺 |
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斎場にて11:40 |
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最後のお別れ |
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骨拾いメンバー |
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子供達は外で雪遊び |
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七日法事が終わって家に集まる |
16:00総墓に納骨 |
やっと家族だけの会食 |
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12日の朝 |
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