Lovely London

1996年から2000年まで過ごしたロンドンでの出来事を記録したものです。
2014年のパリとロンドン旅行も記載中

父他界、そして葬式(2000/2/3~12)

2000-02-03 | 事件

 2000年2月2日、たまたま自宅に電話したところ、兄から父が危篤であることを知らされた。

 そして、翌3日の17:20ヒースロー発の便に家族5人が乗り込んだ。関西空港に着いたのは翌4日(金)の15:00。福井の実家に急ぐ。
病院に着いて父に会う。12月末に帰った時とは随分容態が悪化している。視点が天井を向いたままだし、ほとんどしゃべれない。肺炎を併発していて息がつらそうえだった。まだまだこちらの言うことは理解できる と母は言っていたが本当にそうだろうか?
 翌5日(土)、11:00に担当医に父の状況を聞く。肺炎を併発しているので危険な状態であるとのこと。でも今日はつらそうではない。看護婦さんの問いかけにも反応する。日曜、月曜と何度か見舞いに行くが、病状は少しよくなったり、悪くなったり。

 ついにその日、2月8日(火)、朝7:00に母から大谷家に父の状態があまり良くない旨の連絡があった。8時前に弟の和彦に病院に行って状況を見て来るように指示。8:30和彦から血圧が計れないくらい悪化しているとの連絡あり。ます義姉に電話して、兄が今日静岡に出張に行かないように連絡。女房と2人で8:50に大谷家を出て病院に向かう。9:15病院に着く。すでに二人部屋のもう一人は別の部屋に移されていた。父の呼吸が荒い。大きくゆっくりつらそうに吸う。目はもう閉じたまま。義姉に連絡して、金沢にいる兄にすぐ戻るように依頼。担当医や看護婦さんがベッドの回りに集まってくる。母、和彦、私、女房の見守る中、呼吸が止まる。しばらくして心電図の波形も真っ直ぐになる。9時30分だった。

8日(火)
 病院の電話から関係各位への連絡。一旦黒川家に戻って座敷の掃除。仏様が寝る布団の準備。遺体は病状を確認するために、解剖に回され、家に着くのが14:00となった。同時に葬儀屋さんが来て父の着替えやドライアイス入れ、祭壇の設定を行い、今後の打ち合わせ。いとこの山下武男さん中心となって段取りする。
 15:00頃にはしぎっさんのおじさん(寺島直次さん)が足が悪いにもかかわらず父の横に語りかけるように座っている。絶やしてはいけないロウソクや線香にも気を配っている。17:00にお寺の住職さんがお経をあげに来る。私は一旦大谷家に戻り、子供たちを連れて再び黒川家へ。近所の人や近い親戚の人がお悔やみに訪れる。
 外は大荒れ、吹雪となっている。夜は隣の部屋に炬燵を持ち込んで寝ずの番。夜中の3時に秋田の叔母さん家族4人が車を飛ばして到着。一杯飲んで4:00に炬燵を囲んで雑魚寝。

9日(水)お通夜
 朝、8時近所の男衆が集まって来て、今夜のお通夜があることを近所に知らせるための方法(蝋燭と沈香と金壱千成を配る)について打ち合わせ。あわせてお仏壇の仏具を磨く作業を実施。お昼に裕美と子供3人が来る。子供達は一旦大谷家に戻る。
 14:00に湯灌の準備、約1時間かけて父はゆっくりとお風呂に入り体を清められる。その後納棺。
 16:00に棺桶は家を出て燈明寺へ移る。このお寺中ががとても寒い。特に入り口が入っていると北風が入り混んでくる。皆が座る床はコンクリートの上に薄いシートが覆われているだけ。靴下だけで歩くと足が凍える。急いで10台ほどあるストーブに灯油を入れ火を付ける。仏様には冷たい方が良いのだろうが。祭壇の真ん中の台上に棺桶が乗せられ回りは菊の花で覆われる。その上に微かに笑っている父の遺影が飾られる。最近は写真は後ろから光が当たるスライド式なのだ。祭壇の右横には果物やお菓子などの供物がずらりと並ぶ。家に帰り喪服に着替えて寺に戻る。
 お通夜は18:30から始まるが、18:00頃からぽつぽつと人が集まり、焼香をする人が増えてくる。親戚を入れて100人以上は集まっただろうか。お通夜のお経が始まり、皆の焼香が始まる。お経が終わるとお通夜も終わりだ。
 引き続き別の間では、父が入っていた寺の檀家寄り合い(私はおこさまと呼んでいた)の飲み会が始まる。本堂では親戚一同がおかずと赤飯(なぜかこんな時に赤飯をと思うが、これがしきたり)を食べ初めている。親戚は母方と死んだ父方に分かれた。母方はどの方も知っているが、父方の親戚は田の谷の山下家の2人のいとこ意外に知らない。ここで初めて、父は5番目の子供で、父と年が25才も違う義姉がおり、その子供(つまり私といとこ同士)が父と同じ年だったということ、その兄弟(私のいとこ)が何人もいて、今回初めて挨拶をした。
 その夜は祭壇のある畳の部分をカーテンで仕切って炬燵を持ち込んでここでも雑魚寝。夜遅くまでなんやかんやと話し込んでいました。

10日(木)葬儀式
 一旦家に戻り食事をし、着替えた後、10時の葬儀に望む。近所の方々はお通夜に来て頂いたので、葬儀式は、近所の組織(老人会、おこさまなど)代表の方と、兄や義姉、私、弟の会社関係、それに加えて親戚一同が主な参列者となる。そのため昨日遅くまでかかって焼香順や電報の紹介順を決めたのだ。
 10:00から灯明寺と太聴寺の2人の住職があげるお経の中、紹介された名前順にお焼香を行う。お焼香は約30分ほどで終わった。次に喪主である兄からの挨拶。私はなぜがこの時だけは涙が溢れ出てきて仕方がなかった。
 11:00に出棺。遺影を持つ母と位牌を持つ雄斗に続いて息子3人に運ばれた父の棺桶は霊柩車に乗った。福井市斎場は西安吾に昨年新しくなった施設で、大型バスを借りて親戚一同は霊柩車の後に続いた。斎場では再度お経があげられ、父の最後の亡骸にひとりひとり合掌と花を添えた。屍の入った棺桶は電動リフトにのせられて焼き場へ。11:50、点火ボタンを喪主が押す。
 約1時間20分で焼けて骨だけになる。遺骨を拾う私と和彦と朋美、尋代、雄斗それにめんどうを見る者が居なくなった皓介、敦史、加奈子が斎場に残った。コーヒと飲みながら待つこと1時間強。子供達は尋代と屋外で雪だるまを作っている間に、骨を拾う。父は骨太だったためか思ったよりも多くの骨が残っていた。これを3つの箱に足の先の骨から順番に入れて行く。入れ終わって車で家に向かう途中、子供達は骨をミターイと連発。この時、母や兄たちと親族一同はお茶屋さんで七日法事を行っていた。皆が再度集まるのも大変なので葬儀式の後に初七日を行ってしまうのだ。2時に家に帰るとちょうど七日法事が終わった所で荷物運びのためお茶屋さんに車で迎えに行く。その後遅い昼食。
 15:00、息を付く暇もなく燈明寺に行って納骨式。納骨といっても黒川家の墓に入れるのではなく、総墓といわれる寺の墓に骨を納める儀式だ。親戚一同が座敷でお茶を頂いたあと、お経をあげてもらい、お焼香する。持ち帰っきた3つのうちの1つの骨箱のなかの骨をまた別の容器に移し換える。子供達はここで初めて骨を見ることができた。その容器を持って、ゆりかご保育園の前の大きな墓に納める。座敷に戻って再度お茶と一服。ご縁さんやごしんさん(奥さん)と世間話をする。人は病気では死ねない、ご縁があって死ねるのだ とおっしゃっていた。
家に帰って今度は、近所(向こう3件両隣り)に対するご苦労さん会の七日法事。家族の者がお酒を持ちながら接待する。良く知っている人もいるし、初めて見る人もいる。これが終わったのが19:00。ここでやっと家族だけでのご苦労さん会になった。しかしハードな2日間だった。

我々家族5人は、11日一日ゆっくりとしてから、12日(土)朝6:22のサンダーバードで関空に向かい、その日の15:00にヒースローに着いた。

 

 
関空からのはるかの中
 
8日、病院から戻ってきた

しぎっさんのおじさんがずっと側に
 
9日の朝、吹雪の割には雪は少なかった

仏具のお磨きもの

うちの子供達が来た
}湯灌の準備
見守る親族
}納棺されてしまった

これからお通夜


おこさま会によるお経

 
10日の朝は晴れ

花輪が追加された

葬儀式を前に

お経が始まる

喪主の挨拶

ほぼ11:00に出棺

斎場にて11:40

最後のお別れ

骨拾いメンバー

子供達は外で雪遊び

七日法事が終わって家に集まる
 16:00総墓に納骨

やっと家族だけの会食
 
12日の朝

ロンドンでの皆既日食(1999/8/11)

1999-08-11 | 事件

 99811日(水)は、ヨーロッパ一帯で日食が見ることができる日でした。特にイギリスのコンウォール地方では皆既日食がみれると、大勢の人が集まってまるでお祭り騒ぎです。ロンドンでも98%が隠れるとのことで、皆日食を心待ちにしていました。
 私もこの瞬間を是非家族とともに経験したいと、半日年休を取って、皓介と敦史が通っているオーリンサマースクールに出かけて行きました。
11時頃から段々と太陽がかけ始め、もうすぐその瞬間と言うときに、いきなり黒い雲がかかってきて、太陽を覆ってしまいました。でも時々薄くなった雲からは、肉眼ではっきりと太陽の形が見えました。実はその2時間前に、ボール紙に穴をあけたり、鏡を使って太陽の形を映し出すようしたり、色々な武器を用意したのに、この曇り空では何の役にも立ちませんでした。
 その瞬間はかなり暗くなり、急に寒く感じられました。
20分間の天体ショーを3人で楽しんだ後、私は家に戻りました。この時家のテレビで放映していた太陽の映像が一番感動的でした。

 


サマースクールで遊ぶ敦史


何人かの日本人もいる


段々欠け始めてきた


急に雲が立ちこめてきて・…


もうすぐかな


皆、特性めがねを使って


敦史、それは違うでしょ


日食の最中に二人はダンスを始める


これが一番感動的でした


電源関係配線し直し(1999/2/25)

1999-02-25 | 事件


 去年の暮れから、風呂を洗っている時、スポンジを持った手がビリッと来るのを感じていた。 しかも、シャワーのホースを持っているときだけ感じるようだ。特に壁と浴槽の接した部分が一番電気を感じる気がする。
 工具箱にテスターがあることを思いだし、いろんな所をチェックした。すると驚いたことに、浴槽の縁の部分は多い所で 165ボルトぐらいで、その縦線の上の方では195ボルトにもなった。さらに浴槽の回りだけではなく、反対側の壁の上の方 にまで数十ボルトの電圧があることがわかった。これはまさに深刻な漏電による電気浴室だ。 たぶん電流は大したことはないと思うが お風呂に入ってもしものことがあったら大変だ。
 さっそく東京Agencyの中村さんに電話して、Ramishの紹介の電気屋さんが来た。 調べて貰ったところ、浴槽の下や壁の回り、上の天井にも配電線は無いとのこと。つまりなぜ漏電するのかが全く分からない ということだ。Ramishの提案は、家じゅうの電気の配線を取り替えるか、浴室を(昨年末リニューアルしたのに)作り替えるか。 大家も電気のことは重要な事だということで、家中の電線を取り替えることになった。

 2月13日から21日まで皓介の手術のために日本に帰国したので、その翌週にお願いした。 工事は2月25日から。昼間、私が会社にいる間に工事は進められた。Ramishの話ではコンセントやスイッチは床や天井 からパイプを通って伸びているので線だけを変えるのはそんなに手間ではない とのことだったけれども、実際はこれが 大変で、電線は壁の中を通っており、新たに線を引くにも壁を掘って穴を開けての作業が必要だった。
 このため何が 問題になるかと言うと、壁を掘削する時に出る土ほこりが家中に拡販されて、絨毯のみならず、戸棚やテーブルさては ベッドの布団から、コートまでほこりだらけになる始末。毎夜、家に帰っては最低の場所を雑巾で拭くことになった。 このほこりが絨毯にしみこんだらとても自分の力では綺麗にならないと思い、絨毯及び部屋中のクリーニングも 東京Agencyにお願いすることにした。
 結局遅れに遅れて、電気工事が終わったのが3月18日でクリーニングが19日。 女房子供が帰ってくる20日の前日にやっと形になった(結局完了ではない)状況で、ヤレヤレ。

 


個室に移動(1999/2/19)

1999-02-20 | 事件

2月20日(土):朝、大阪は雪。午前中一杯チラチラしていた。朝、個室に移動。皓介も半身を起こせるくらいに回復。もう大丈夫だ。

 
皓介担当の看護婦さん
 
 
 
体を拭いてもらう皓介
 
担当医の立澤先生
 婦長さんと  
麻酔担当の尾形先生
 もう冗談も言える皓介  
一足前に退院したアキちゃんが見舞いに
 
一人でロイヤルホストでステーキを
 
裕美は疲れて寝ています
 
小宮さんもお見舞いに来てくれました
 
背中を掻いてもらている皓介
 
別の看護婦さんも
 
術後はじめての食事

手術直後の皓介(1999/2/18)

1999-02-18 | 事件
2月18日(木):一日夫婦で付き添い。3時間おき位にNCUを訪ねる。前回と違い、皓介はしっかり話ができるくらい元気
2月19日(金):10:00に5階のHCH病棟に移動。隣にお爺さんが寝ているし、隣りがナースセンター なので落ち着かない。

皓介の2回目の手術(1999/2/12~21)

1999-02-12 | 事件


風邪で延び延びになっていた皓介の病気の治療のための2回目(左側頭部)の手術 のために、再度日本に一時帰国しました。

2月12日(金):21:00のANAで関西空港に向かって離陸
2月13日(土):20:00頃大阪市内へ、中津の借マンションで、皓介と裕美と一泊。
2月14日(日):私だけ福井に戻る。大谷家で車を借り、敦史と加奈子を連れて黒川家へ
2月15日(月):確定申告処理と買い物。夕方、子供2人と母親を連れて芦原温泉の九頭龍荘へ
2月16日(火):子供を保育園へ連れて行き、買い物と散髪。
2月17日(水):朝8:00の汽車で大阪へ。12時頃病院に到着。13:30から手術開始。17:30手術終わる。 NUC(集中治療室)へ行き立澤先生から手術の様子を聞く。麻酔がなかなか抜けないのが心配。
2月18日(木):一日夫婦で付き添い。3時間おき位にNCUを訪ねる。前回と違い、皓介は しっかり話ができるくらい元気
2月19日(金):10:00に5階のHCH病棟に移動。隣にお爺さんが寝ているし、隣りがナースセンター なので落ち着かない。
2月20日(土):朝、大阪は雪。午前中一杯チラチラしていた。朝、個室に移動。皓介も半身を 起こせるくらいに回復。もう大丈夫だ。
2月21日(日):午前中の飛行機で関西空港を発つ。もう15:30にはヒースロー空港。ANAは快適だった。

 

 
入院前の皓介、右に続いて今後は左だ!
 
ゲームに夢中、中津のマンションにて

道路を走るボート(1999/1/24)

1999-01-24 | 事件

  99年1月24日早朝、ロンドン市内を車で走っていると、急に対向車線に警備のPOLICEカーが向かって来る。何事かと思い車を停めると、巨大なボートがトレーラーに引かれながら移動している。5台ほどのボートだけどどのボートも立派で思わず見とれてしまう。どれだけ大きいかバスと比べてみると分かるでしょ。
 


皓介の手術のあと(1999/1/2)

1999-01-02 | 事件


11月17日に行った手術の跡です。痛々しい跡です。側でみると本当に大変な手術を行ったのだと実感します。 経過を見せるために12月31日大阪脳神経外科に行って来ました。縫った所のまだ一部血が滲んでおり、ガーゼと絆創膏を貼っています。まだ洗髪の許可が下りていません。 頭の皮膚がまだ薄いので治りが遅いと言われています。 右半分の頭蓋骨の外にあった薄い筋肉を、頭蓋骨の中に入れてしまったので、外のほうは血流 (血の巡り)が悪いためか、毛髪が抜けてまだら模様になっています。これも時期が来れば 毛も生えそろうと言うことです。 外出には傷を隠すためバンダナをかぶっています。

 


日本海に遊ぶ(1998/12/27)

1998-12-27 | 事件

日本にいる家族に会うために12月24日~1月6日まで帰国しました。 


 12月27日、12月としては、裏日本には珍しい小春日和の一日。車でドライブでもと思い、 鷹巣海水浴場へ。
 風がちょっとあったが、日差しが眩しく暖かい。最初車から降りるのを渋っていた皓介も、 この陽気に誘われて砂浜にやって来た。・B>gと砂と戯れる3人の子供達。波と追いかけごっこしたり、 貝を拾ったり、砂の段で転げ回ったり。疲れたとか歩きたくない言っていた皓介にもやっと明るさが戻ってきた感じだ。 青い海と青い空、こんな風景の中にいつまでも家族一緒になって楽しく遊んで居られたらいいのに

 


加奈子の怪我(1998/8/15)

1998-08-15 | 事件


  8月15日(土)、お昼の12:50頃、加奈子が怪我をしました。
見てびっくり、聞いてびっくりの怪我です。ジャングルジムから落ちて、暖房パネルの調整ネジの突起の部分2cmが、左後頭部に刺さってしまったのです。泣き声を聞いて駆けつけた裕美は尻餅をつき仰向けになっている加奈子を抱き上げようとしたけど、何処かが引っかかって出来なかったそうです。 もう一度頭を持ち上げてみると、血が滲み出てきたそうです。実は僕は外出していて、13:15頃家に返ってみると、山盛りのティッシュを後頭部に充てられて裕美の腕の中で眠っていました。もちろんティシュには血が滲んでいて、当惑している裕美から状況を聞いて、僕自身も事の恐ろしさに驚きました。調整ネジを見てみるとまだ赤に肉片が着いていました。こんな太く長い突起物が、頭にささったのですから、脳や神経を傷つけでもしていたら大ごとです。生命の危険もあり得るし、身体に障害を及ぼすかもしれないと最悪のケースが頭をよぎりました。
 裕美は行きつけの日本人が医師がいるロンドン医療センターに電話をかけ、2時に来るように言われたようですが、緊急患者扱いで一刻も早く処置してもらおうと、直ぐに車に乗り込み病院に向かいました。眠っていることについても脳に異常があるのではないかと心配です。名前を呼ぶと ボーっと目を開けますが直ぐに眠ってしまいます。

 13:50に病院に着き、受付の人に状況を説明し、13:55に医師に診てもらうことができました。その頃には加奈子も目を開けていて親の問いかけには応答できていました。レントゲンを撮るのだろうと思っていましたが、頭を強打したのでなければ必要ないし、CTでも使わなければ細かい傷は検査できないと言われました。加奈子をベッドに俯せに寝かせて、傷の具合を見ようとしましたが、なにせ頭ですから髪の毛で囲まれており(特に加奈子は多いので)傷口が見えてきません。看護婦さんがハサミでブサブサと髪の毛を切り、更に剃刀で剃ると傷口が露わになりました。直径4mm位の穴があいており、血がジワーッと湧き出ています。よく見ると穴の入り口が黒く見えます。先生がピンセットで摘まむと長い髪の毛が何本も出てきて痛々しくて見るに耐えません。裕美は既に気持ち悪くなって待合室に出ています

 傷口をふさぐために1針縫うことになり、麻酔の注射をし、J字の針を頭に刺しました。さすがにこれまで神妙にベッドの上でジッとしていた加奈子も身をよっじて痛がりました。ガーゼを絆創膏を充ててその上にとれないようにネットをかぶせて終了。

 先生のは「意識もしっかりしているので頭蓋骨までは達していないようで、もう少し下の方だったら動脈を切って鮮血が吹き出していたかもしれず危ないところでした。 頭を打ったためと傷のため少し腫れているがこれは徐々に退いていくでしょう。青い内出血になったり、吐き気や異常が起こった時は直ぐに連絡下さい。明日は消毒のためにまた来て下さい。」 とのことで、頭には異常はないだろうということなので少し一安心。丁重にお礼をいって自宅に戻りました。

 その日の夕方に予定していた独身者を呼んでのパーティも加奈子は少しメソメソしていましたが無事開催することが出来、次の日曜日には普段通りの加奈子に戻りました。下の写真は日曜日の様子です。
 抗生物質の薬をちゃんと飲まないので傷口から膿みが少し出てきて心配した時もありましたが、次の土曜日には無事抜糸することができました。

  この先端が頭にグサッ!

 
耳の後ろ、半分よりは左

 
関係ないけど太っています

 
もう大丈夫、グワシッ!

 
今年初めて庭にテーブルをだしました

 
トイザラスで買ってきたシャボン玉器具

 
モータ駆動で特大サイズ


また?とんだ失態、不運な事件!(1998/2/1)

1998-02-01 | 事件

9821日(日曜)、先週の水曜日は中国の正月でした。今日は中華街でライオンダンスなどの催し物があると英語のYanyan先生から聞いたので、これを見ようと敦史を連れてピカデリーサーカスへ出かけました。

 
 中華街に出かける前に

SOGOに立ち寄り、2週間前にかったORISの時計(なんと自動巻!)が1日10秒も早くなり、調整をお願いしました、その旨話したら、故障扱いで時計ごと別な物に交換してくれました(実はちょと気に入らなかったので、これ幸いにと)。ちょっと得した気分で中華街に向かいました。
  中華街の近くのレスタースクエアにはステージが作られており、その前は凄い人だかり。背の低い私はなかなか様子が見れません。ステージでは誰かが演説しているだけ、中国独特の華やかさが感じられません。中華街のメインストリートに向かいました。ここも凄い人。と言っても風船を売っている人がいるだけで、露天も無ければ、お祭りらしい雰囲気がない。2、3枚デジカメで撮影しただけで、寒いこともあって早々に退散することにしました。途中、すれ違う子供が皆手に持っている胴が紙の蛇腹製のドラゴンを£1で買いました。何処かでお昼をと思い中華街の店を覗きましたが、この人出ですから何処も入るのにも長蛇の列。中華街で食べるのをあきらめました。


  そこで近くにあるケンタッキーの店に入りました。これが不運の始まりです。チキンバラエティセットとチキンバーガを頼んで2階の空いている席に座り、その時、カメラバッグ(

RICHOのデジカメと28mm-85mmズーム付きのニコンのカメラ(20枚ほどスペインで撮った)を椅子の下に置きました。これが不注意な行動でした。チキンを2、3口食べてふと下を見ると、あれ?青い鞄が無くなっている。そうです、置き引きにあったのです。一瞬、頭の血がすーっと退いて行くのが分かりました。同時に目の前がくらくらして、1分以上その場に立ちすくんでいました。
  回りを見回しました。この中に盗人がいるかもしれない。でも盗んだら一目散にその場を離れるハズです。2階の窓から青い鞄を持っている人間がいないかあたりを見てみました。見つかる訳がない。敦史に、一人でここまま食べているように言って、店を出てあたりを走って探して見ました。特に人気の少ない路地などを。でも敦史を放っておく訳にも行かず、一旦店に戻りました。急にあのように鞄をおいてしまった自分の行動のあやまちを責める気持ちになり、しばらくうなだれていました。


  警察に行くことも考えましたが、何の手助けにもならないことは分かっているので止めました。ピカデリーに来たもう一つの目的である敦史の誕生日プレゼントを買うために、暗い気持ちでリージェントストリートを敦史と手を取りながら歩いて行きました。ディズニーショップやハンレーズでおもちゃを見ている間に、少しずつ滅入った気持ちが回復してきました。

  と言うことでデジタルカメラも無くなってしまいました。しばらくはは写真が載らない日が続くでしょう!

 【後日談】会社で各個人にも盗難保険が掛かっているということで、(1)警察への盗難届け、(2)保険会社へのクレーム を行えば、何かしらの保険金が下りる と言うことを聞いてちょっと一安心。警察への盗難届は過去2回行っているので慣れたもの。今日現在、(2)のクレームのための物品の価格調査(英国での)を行っています(なんと英国でのデジタルカメラの高いこと!)。


再び車上狙いにやられる!(1997/9/7)

1997-09-07 | 事件

9月7日(日)、今日は昼からの会社主催のテムズ川ボート下りに参加するためにKINSTONにあるBentall Center Car Parkに、11時30分頃に駐車した。
午後4時頃、川下りを楽しんで車に戻ってみると、なんとカーステレオが消えて去っている! 空になったステレオのBOXからは無惨にも配線がむき出しになっている。ガラスが割られていないのにどうやって盗んで行ったのかと思ったら、運転席の鍵の回りが悲惨なくらいめくられているではないか。
2度目とはいえ、ショックにしばし呆然と駐車場に立ち竦んでしまう。
気を取り直して、携帯電話で999してみると、Police Stationに来いとのこと。その場所を尋ねに駐車場出口の係員に聞いたとこと、「何があったのか?」と聞かれ事情聴取。「駐車場の責任で修理費を払ってくれるのか?」と聞いたら、「それはできない。警察に聞かれた時に連絡してもらえれば説明に応じるよ」と。Police Stationは自宅近くの所で良いという話だったので、とりあえず自宅に戻る。半分気が動転していて、帰り道をどうやって帰ってきたのかあまり覚えがない。

今年2月初めに家の前で盗まれて、5月下旬にやっと付けてもらったPioneerの最高級?のカーステレオがわずか3ヶ月使用でさよならしてしまうとは。
フロントパネルを外さなかったことと、誤動作が多いのでアラームを切っていたことと、運転席のドアが柱の陰になる所に駐車してしまったことが、運悪く重なってしまったことが原因なのか?
9月27日で任意保険が更新されるのに、これでは次年度の保険料が上がってしまう。
泥棒に対する怒りよりも、この運の悪さに自分自身を嘆いてしまう。しばらくブルーな日が続くだろう。

 


雨漏りで天井が落ちた! (1997/7/9)

1997-07-09 | 事件

7月9日(水)、信じられない話かもしれないが、洗濯機が置いてあるユーティリティルームの天井が落ちた。

前日の8日はロンドンでも珍しい土砂降りだった。一時、道路も水に浸かった程で、もちろん屋根からもボタボタと雨漏りが起こった。

実は、6月の初めから雨漏りが始まり、再三大家に修繕を求めていたのに、やっと修理にきたのは、9日の午前中。30分で修理が終わったとのこと。

会社へ裕美から電話があって、午前中にRamish(こいつが修繕屋で非常に対応が遅くて仕事も雑)が来て、屋根の修理をして帰ったが、午後、突然、屋根が落っこちたと、慌てかつ怒りのこもった口調で連絡して来た。

もう少し早く、屋根修理に来てくれればよかったのに。

これは一大事!と早めに会社から帰って、どんなに酷いことになっているのかと見てみると、それほど大したことはなく、1m四方の板が落ちていただけだった。でもこれが寝室だったらゾッとする。

早速、大家と不動産屋に電話して状況を説明したが、 Ramishは2日後に来て寸法を計っただけ。1ヶ月経った今でも天井に穴があいたままである。