体は、一つの部分ではなく、
多くの部分から成っています。
足が、
「わたしは手ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、
「わたしは目ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。
もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、
体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分になってしまったら、
どこに体というものがあるでしょう。
だから、多くの部分があっても、
一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、
また、頭が足に向かって
「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、
体の中でほかよりも弱く見える部分が、
かえって必要なのです。
わたしたちは、体の中でほかよりも
恰好が悪いと思われる部分を覆って、
もっと恰好よくしようとし、
見苦しい部分を
もっと見栄えよくしようとします。
それで、体に分裂が起こらず、
各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
『コリントの信徒への手紙一』12章 26節
人類歴史が、神の創造目的を完成した世界に復帰していく
摂理歴史であるということが事実であるならば、
かくのごとくあらゆる法則の主人であられる神が、
このように長い復帰摂理の期間を、
何らの計画もなしに「無秩序」にこの歴史を
摂理なさるはずがない。
多くの部分から成っています。
足が、
「わたしは手ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、
「わたしは目ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。
もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、
体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分になってしまったら、
どこに体というものがあるでしょう。
だから、多くの部分があっても、
一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、
また、頭が足に向かって
「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、
体の中でほかよりも弱く見える部分が、
かえって必要なのです。
わたしたちは、体の中でほかよりも
恰好が悪いと思われる部分を覆って、
もっと恰好よくしようとし、
見苦しい部分を
もっと見栄えよくしようとします。
それで、体に分裂が起こらず、
各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
『コリントの信徒への手紙一』12章 26節
人類歴史が、神の創造目的を完成した世界に復帰していく
摂理歴史であるということが事実であるならば、
かくのごとくあらゆる法則の主人であられる神が、
このように長い復帰摂理の期間を、
何らの計画もなしに「無秩序」にこの歴史を
摂理なさるはずがない。