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手作りアクセサリーショップlu-x(るっくす)の店主ホイミのつぶやきブログ
  ~他ブログよりお引っ越ししてきました~

ぷち旅 高野山~卑弥呼を求めて編*4~周辺探索2~

2010年10月23日 | ぷち旅
こんにちわ~^0^

ぷち旅記録の続きでぇす~^^*

刈萱堂から金剛峯寺まで戻ってくると、曇ってた空から晴れ間が見え出しました。(雨予報はどこへやら。。)

先にご紹介した画像の金剛峯寺は暗~いので、もう一度撮影しなおします。



金剛峯寺から、今度はさっき行ったのとは反対側へ歩きます。

細い真っ直ぐな道。 散歩道にはイイかもしんない。
(アタシャ足がもう笑ってりゅけど・・・ゞ(_△_;〃ピクピク)


赤く染まりつつあるもみじ。


道を抜けると、お堂がずらりと立ち並んでいました。

手前から智泉廟(ちせんびょう)・東塔(とうとう)※三昧堂(さんまいどう)※三昧堂は、歌人西行が1150年頃やってきて30年にわたり修行をしたそうで、京都へ※勧進して高野山の運営を支えたそうです。(※勧進:人々に仏の道を説いて勧め、善導する。堂塔・仏像などの建立・修理のため、人々に寄付を募る。)

 東塔(手前)・三昧堂(奥)を過ぎると、


↑大会堂(だいえどう)・↓愛染堂(あいぜんどう)と続く。


不動堂

1198年 鎌倉時代の書院造り様式を採用し行勝上人が建立。(国宝指定)

そして、ひときわ派手な根本大塔(こんぽんだいとう)がある。

完成に70年もかけ、弘法大師~真然僧正(弘法大師の弟子)と二代で建立。
(ご覧の大塔は、1937年に再建されたものだそうです。)

根本大塔の朱色とはうって変わって真っ白な鐘桜。
何度も火災に遭って何度も建て替えられているのだとか。

立入禁止なので、突けません^^;(溜まった煩悩を払うのはいつの日か。。笑)
直径2.12mの鐘の音はどんなものなのでしょうねぇ~(o ̄∀ ̄)w
日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれています。

金堂(こんどう)

高野山開創当時は講堂と呼ばれていたそうですが、平安時代半ばから総本堂となったのだそうです。(1932年に7度目の再建) 薬師如来像を拝観できます。

御影堂(みえどう)

弘法大師の持仏堂。

准胝堂(じゅんでいどう)
弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊。

ここの准胝観音は、伽藍が建立された当時、食堂に安置せられていたと伝えられています。その後、天禄4年(973年)頃になって、この堂が建立され、移動されたということです。幾度も焼失し1883年に再建。

孔雀堂(くじゃくどう)

本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。
鎌倉時代の初めの夏、近畿地方に長い期間雨が降らず、干ばつが起こった時、朝廷の命令で、お坊さんが雨を降らすことを祈る「請雨経法」が行われていました。孔雀経法は、雨を降らせるのに効果てきめん!
延杲僧正の法力の偉大さに朝廷・後鳥羽院からのご褒美として孔雀堂を建立することを許されたのだそうです。

西塔(さいとう)

根本大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。現在の塔は1834年に再建。

御社(みやしろ)

山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守。社殿は三つあり、一宮は丹生(にう)明神、二宮は高野明神、三宮は十二王子・百二十伴神がまつられています。

山王院(さんのういん)

御社(みやしろ)の拝殿として建立され、両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物。地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、1594年の再建で重要文化財。

こちらにも鐘桜がありました。 


六角経蔵  (別名:荒川経蔵)

鳥羽法皇の菩提を弔うため、鳥羽法皇の皇后の美福門院が、一切経を納めるために建立された経蔵。(一切経は重要文化財として、霊宝館に有ります。)

経蔵の基壇(きだん)付近のところに把手がついており、回すことができるようになっていて、回転するようにできており、一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれます。

蓮池(はすいけ)

橋を渡ってみました。


小さな祠(ほこら)がまつられています。1771年頃、干ばつが度々起こり、民衆は苦しみました。そこで善女竜王(ぜんにょりゅうおう)像と仏舎利(ぶっしゃり)を蓮池の中島に小さな祠を建立しておまつりすると、たちまちに霊験が現れたとの事です。

はぅ。。(;´д`) 

ご紹介長いぞぅ~~( ̄▽ ̄;)ゞ

コレでもかなりハショったのにぃ~~ (o_ _)ノ彡☆バンバン