茶の湯 徒然日記

茶の湯との出会いと軌跡、お稽古のこと

富山の薬売り

2007-04-08 23:17:10 | 日本マメ知識
 小さい頃、富山の薬売りの話を聞いた。母の育った家では毎年重い荷物を背負った薬屋さんがやってきて、薬を広げて数を勘定し、帳面に記して、新しい薬を補充したそうだ。そして、紙風船を膨らませてお土産にくれたという。

 昨年北陸を訪れた際、何気なく手にした機関紙。ずっと埋もれていたが整理していたら、富山の薬売りについての詳細な記事あり。薬売りの発祥は富山藩主の心意気。昔の母の話を思い出し、他の人にも知らせたくなった。長めではありますが以下に纏めたので、感想などお聞かせ頂ければ幸いです。
 留守宅が増え、防犯などの観点からも都会では根付かない気がしますが、馴染みの薬売りさんがやってくるというのもいいなあと感じた記事でした。

 富山に売薬業を根付かせたのは、富山藩二代目藩主・前田正甫(まさとし)。家庭配置薬の父として今も富山城址公園の北側に銅像がそびえている。

 富山の薬売りの起源にはいくつかの説がある。

 元禄3年(1690)、江戸城で参勤交代で登城した岩代三春藩(現福島県)の大名が腹痛を訴え、その場にいた正甫が、印籠から「反魂丹(はんごんたん)」を取り出し進めるとすぐに回復。それをみた各地の大名たちに頼まれて全国に広めることになった。

 立山信仰衆徒は室町時代末期より全国へ布教活動を始めた。御礼にと薬(熊胆)を信者に配り、安土桃山時代から明治になると、「檀那帳」に訪問先や薬や配布物を記し、翌年、初穂料を受け取った。この仕組みからも現在に伝わる配置売薬システム起源は立山信仰衆徒ではないかと言われる。

 北陸史23の謎(能坂利雄著)によると、八尾町の八幡社神官宅で、山伏修験道場・明叶寺に関する古文書がごっそりと発見された。そこには正甫が宝永7年(1710)に修験売薬御指留(停止)を記した一文が明記されていた。正徳元年以前から修験が売薬を行っており、正甫が修験者の行脚を利用して「反魂丹」を商業経済のルートに乗せたことが明らかとなった。

 「反魂丹」は、中国から北九州に渡来し、16世紀末には九州で盛行していたもので、富山発祥の薬ではない。正甫の家来、日比野小兵衛が藩命で長崎に赴いた際、備前の医師、万代常閑から腹薬「反魂丹」をもらった。正甫はこの特効性に驚き、万代常閑を招いて薬の作り方を伝授させた。

 江戸時代には20種類もの生薬を調合した「反魂丹」の由来は、
 昔ある武士が母親の病気回復を願って立山に登ったところ、阿弥陀如来が現れて薬を授かった。直ぐに母親に飲ませようと重い帰宅したが既に死んでいた。しかし、せめてもと母親の口にその薬を含ませたところ、母親が生き返ったのだ。「あの世で阿弥陀様にまだ来るのは早い、早くかえれ」と背中をたたかれて生き返った、とか。(商工とやまHPより)

 正甫はこの特効薬を富山の中心産業にしようと尽力し、持病を抱えた自分を含め、多くの人を救うために薬草を栽培して薬を作った。薬製造責任者は、富山城下の薬屋、松井屋源右衛門。諸国への販売責任者は、八重崎屋源六。さらに、学校を設立して、読み書きそろばんを教え、薬学の知識をもつ人材を育てた。そうして諸国の庄やの家を訪ねさせ、薬を配置するようにしたのだ。ちなみに、一般家庭への配置は明治から。

 江戸中期以降、全国に販路を広めた売薬商人は、行商先の国や地方別に仲間組みを結成。行商の人数、様々な取り決めを定め、お互いの利益の維持を図っていった。富山藩は売薬行の統制に努めるために「反魂丹役所」を置いた。幕末期には約2300人余りの売薬商人が誕生したという。

 明治期になると、売薬印紙税が課せられ、困難な時期を迎えたが、明治期半ば以降に再び発展。昭和初期には、売薬商人は約12000人にも達した。しかし、明治4年の廃藩置県で、「反魂丹役所」は消失。
 そこで、明治9年に薬屋が共同出資で製薬会社(広貫堂)を設立。同時に、銀行や電力会社も創設し、明治26年には売薬業者育成のために共立薬学校を創立した。これが、富山医科薬科大学(現 富山大学医薬学部)の前身だ。

 薬を預けておき、使った分だけ代金をもらう。使った薬は新しい薬と取り替える。売薬の「先用後利」システムは今で言うクレジット商法の魁だった。
 このシステムを支えるのが「懸場帳(かけばちょう)」。訪問年月日、配置薬の種類と数、売上金額、健康管理など、お得意様一軒ごとの顧客データは、売薬行商の保証かつ大切な財産となった。退職時にはこれが退職金に大変身。長年築いた信頼と顧客データは1冊あたり数百万円ほどで取引された。その手書きの「懸場帳」も今は携帯式情報端末機になり、バーコードを読み取って本社のデータベースで情報管理するシステムとなっている。

 大風呂敷に包んだ柳行李は5段がさねで重さは約20キロ。
一段目は「懸場帳」やそろばんのあどの携行用具。
二段目は進物品。
三段目は回収した古い薬。
四・五段目は新しく配置する薬。
これを背負って、20-30キロ歩くことから、やがて、船便を使ったり、馬の背に乗せ下行商したり、自転車、バイク、自動車へと移動手段は変わり、柳行李も、黒カバーで包む大型ケースからアルミケースへ変わっていったが、今でも柳行李を信頼の証として愛用する売薬さんもいらっしゃるらしい。

 売薬さんが行商にでるのは盆と暮れ。出稼ぎから帰り、収穫があるこの時期に現金収入が見込めるから。米や味噌、日常品は昔からこの慣習でやりとりされていたが、売薬行商は江戸時代以来、現在まで続いている。

 江戸時代後期、薬のおまけに売薬版画が登場した。売薬版画は、錦絵と呼ばれる富山版の浮世絵だ。名所絵、役者芝居絵、福絵、暦絵など多種多様な版画が制作され、無料で配布した。版画用紙は加賀国二俣産の和紙。薄手で粗野な仕上がり。幕末には八尾の和紙も手ごろになって使用されるようになった。
 明治後期には、紙風船が主流に。
 大正・昭和初期にはカルタやメンコなど。上得意様には、九谷焼の湯のみや盃、若狭塗りの箸など上等な進物を贈ったという。おまけ元祖である。

 「ズバリ」効く、「ソクコー」で治る、「スイセイ」のごとく癒える、「ケロリン」「ケロン」とする、七転び八起きで「スパニット」効く。一目で中身がわかるようにすべての業者で絵柄を統一。パッケージは今も昔のままだという。

<参考HP>
http://www.chuokai-toyama.or.jp/seiyaku/
http://www.cap.or.jp/wakan/
http://www.toyama-mpu.ac.jp/riw/mmmw/page2.html
http://www.lib.pref.toyama/gallery/collection/

 いかがでしたか。すごいぞ、富山!改めて訪問したくなりました。
 便利な世の中は様々な人の知恵と努力で成り立っている、感謝しなくては、自分も小さなことでも後の世代の為に行動しないとなあと思ったことでした。
何かをやりとげる人の心にはいつも深く強い思いがありますね。


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8 コメント

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昔むかし (弥々(SAKURA))
2007-04-09 00:02:13
こんばんわ。
私が小さい時には町に定斎屋さんと言う薬売りが着ましたよ。箪笥の還をガチャガチャ鳴らして来るのです。富山の薬屋さんも家に来たような記憶がありますね~?
羅宇屋さんとか金魚売りなど物売りが来て、よい下町の雰囲気が残っていて懐かしい町です。
お香の方にも返魂香と言うのがあります。
今月のSAKURAはお香に関するものが多くなりそうです。

お香会出来たらいいですね。
http://purple.ap.teacup.com/yaya/
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大和の売薬 (酒徒善人)
2007-04-09 21:34:51
“富山”も有名なのですが、“大和”の地場産業でもあるのです。
私は思い出の版木を持っています。
http://syutozennin.blog.ocn.ne.jp/e411y/2006/12/post_242a.html
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どうもありがとうございます (藍♪)
2007-04-10 00:17:55
富山県民として、感謝します♪

売薬さんは、今でもしっかり地元に根付いてますよ。。
うちの会社なんて売薬さんだけでも、3つぐらい
おいてありますよ(笑)

富山の駅には、ケロリンの桶のキーホルダーとかも
うってますよ~♪

是非、遊びに来てください♪
そのときは、色々とご案内させていただきますよ♪
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薬売り (りんず)
2007-04-11 01:04:09
母が富山出身なので、慣れ親しんでいました。
紙風船も懐かしい!
富山は食も美味しく、自然も豊か!
機会があれば是非足を運んでみて下さいまし~
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昔むかし (m-tamago)
2007-04-11 20:48:17
弥々さん、こんばんは。

定斎屋さん、富山の薬屋さん、羅宇屋さん、色々な物売りが家を訪問していたのですね。なごやかでいい雰囲気を感じます。

>お香の方にも返魂香と言うのがあります。
香の世界も深いですね。お勉強させて頂きます。

>お香会出来たらいいですね。
ハイ。楽しみにしています。
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大和の売薬 (m-tamago)
2007-04-11 21:01:35
酒徒善人さん、こんばんは。

売薬は大和の地場産業でもあるのですか!?
知りませんでした。
農閑期に売薬、そういうこともあったかもしれませんね。

思い出の版木、拝見しました。本当に宝物ですね。
実際に刷ったことはありますか。
私は版画が大好きです。味わいあっていいですよねー。
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いえいえそんな (m-tamago)
2007-04-11 21:04:56
藍♪さん、こんばんは。

そうそう藍♪さんのところよねーって思いながら書いていました。
今度行ったら売薬ゆかりの場所とか、前田正甫銅像を見たいと思います。是非ご案内お願いします。

>うちの会社なんて売薬さんだけでも、3つぐらい
おいてありますよ(笑)
それはすごい。安心ですね。

>富山の駅には、ケロリンの桶のキーホルダーとかも
うってますよ~♪
今度行ったら買います。

ここのところ忙しいのと、PCを見る時間をなるべく減らしたいのもあってmixi伺ってませんが、おゆるしを~。
返信する
薬売り (m-tamago)
2007-04-11 21:07:04
りんずさん、こんばんは。

りんずさんも御馴染みだったのですね。
私は話に聞いたことがあるだけで残念ながら自宅は救急箱があるのみです。入れ替えは自分で。(で、つかいたい時になかったりする。。。。)

>富山は食も美味しく、自然も豊か!
ゆっくり訪ねたい場所であります。

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