日本史の勉強をしたことがある人なら一度は耳にした言葉ではないか、”闘茶”。
鎌倉時代後半から、南北朝、室町時代半ばにかけて流行した茶寄合で、何種類かのお茶を飲み、本茶とされる栂尾産の茶かどうかを当てる遊び。
何回もお茶を飲むので、十服茶、五十服茶などの別名もある。闘茶は人々の結びつきを強め、庶民とまではいかないが町衆に茶が広がるきっかけとなった。
栂尾茶が本茶とされた理由は、高山寺の明恵上人が、栄西禅師から贈られた茶の実を京都の栂尾に栽培し、それがよいお茶であるということで大切にされたから。それ以外のお茶は茶にあらずということで“非茶”と呼んだ。やがて栂尾茶は宇治にも移植され、現在の宇治茶のもとにもなった。今も京都の高山寺近くには、その発祥の土地があり、お茶が植えられているそうです。私は見たことがありませんが、先生は実際ご覧になり、”小さくて、え、これが?”という印象だったそうです。私も機会あれば見てみたいと思います。
現在、この闘茶に似たものとして、茶カブキという点前がある。簡単に説明すると、まず2種のお茶を飲み、味を覚える。その後、更に飲んでいない1種のお茶を足して、3種を飲み比べ、それぞれがどれかを当てるものである。私もやったことがあるが、興味深く、実際お茶の味ってこんなに違うものかと思ったものでした。(違う味と分かるものを先生が選んだのだと思いますが)
さて、闘茶は二階建ての会所で行われることが多く、そこを喫茶亭と呼んでいた。またそこの主人を亭主と呼び、後に茶会の主人を亭主と呼ぶのはここから始まったという。我々がよく使う喫茶店の名称もここからきているのでしょうね。
鎌倉時代後半から、南北朝、室町時代半ばにかけて流行した茶寄合で、何種類かのお茶を飲み、本茶とされる栂尾産の茶かどうかを当てる遊び。
何回もお茶を飲むので、十服茶、五十服茶などの別名もある。闘茶は人々の結びつきを強め、庶民とまではいかないが町衆に茶が広がるきっかけとなった。
栂尾茶が本茶とされた理由は、高山寺の明恵上人が、栄西禅師から贈られた茶の実を京都の栂尾に栽培し、それがよいお茶であるということで大切にされたから。それ以外のお茶は茶にあらずということで“非茶”と呼んだ。やがて栂尾茶は宇治にも移植され、現在の宇治茶のもとにもなった。今も京都の高山寺近くには、その発祥の土地があり、お茶が植えられているそうです。私は見たことがありませんが、先生は実際ご覧になり、”小さくて、え、これが?”という印象だったそうです。私も機会あれば見てみたいと思います。
現在、この闘茶に似たものとして、茶カブキという点前がある。簡単に説明すると、まず2種のお茶を飲み、味を覚える。その後、更に飲んでいない1種のお茶を足して、3種を飲み比べ、それぞれがどれかを当てるものである。私もやったことがあるが、興味深く、実際お茶の味ってこんなに違うものかと思ったものでした。(違う味と分かるものを先生が選んだのだと思いますが)
さて、闘茶は二階建ての会所で行われることが多く、そこを喫茶亭と呼んでいた。またそこの主人を亭主と呼び、後に茶会の主人を亭主と呼ぶのはここから始まったという。我々がよく使う喫茶店の名称もここからきているのでしょうね。
茶カブキのお稽古は一度だけやったことがあります。本当に興味深いお稽古でしたし、同じお茶で、同じお詰めなのに「え?こんなに違った?」とびっくりした覚えがあります。
「闘茶」と確か日本史では習った覚えがありますがこんなに風雅なお遊びだとは思いませんでした…字面が怖かったので、どんな賭け事かと(実際賭け事だったのかもしれませんが)思っていたのですが。
喫茶亭の名前はこの時代からあったのですね。
今の時代にも繋がる言葉を見つけると、何となく嬉しいです。お茶の掛け軸に良く使われる「喫茶去」を思い出しました。
現在のお点前としてある茶カブキは七事式のひとつで遊びではなく禅の思想から生まれた神聖なものですが、つい楽しんでしまう気持ちが先行してしまいます。。。
闘茶って勇ましい名称ですよね。お茶の名前を当てる為に競ったという意味なんでしょうが。おっしゃる通り、賭け事として楽しんだということもあると思います。楽しいからこそ広まったんでしょうし。
闘茶のことを知った時、私は利き酒が頭に浮かびました。昔から日本人は味覚に対して敏感だったんだなあと思います。
「喫茶去」、私も今と昔の繋がりを見つけるとうれしいです。また教えて下さいね。