1月の淡交タイムズ、巻頭はお家元による”稽古始め”の記事でした。清々しく、気の引き締まる思いがしましたので、一部ご紹介させて頂きます。
***引用***
・・・初釜式の式場となる「咄々斎」の席名は、昨年三百五十年の御遠忌をさせて頂いた元伯宗旦居士の斎号によるものです。この茶室は宗家の中でも特別な場所であり、六歳の六月六日に行われる「稽古始め」は、利休御祖堂にてお許しを得た後、咄々斎において当代の庵主に初めての稽古をつけていただく習わしです。また、床柱は、八代の家元又玄斎宗匠によって大徳寺に寄進された松の木が後に咄々斎に据えられたもの。この茶室で稽古する際、床柱の前に座れるのは家元に限られており、丁度背に当たる部分が歴代の家元方の背中で擦れて黒ずんで見えます。それが、「代々柱」と呼ばれる由縁です。
さて、初釜式の式場には、嘉例に則り正親町天皇の御宸翰を掛けさせていただきます。常に変わらぬ弥栄を寿ぐ御歌が掛けられた席で心静かに濃茶を練らせていただくことは、私にとりまして、お客様方へのもてなしであるだけでなく、歴代家元はじめ先達方の前で今年初めての”亭主の稽古”をさせていただいているのだと思っております。
稽古とは、「古事記」の中に”古を稽え(かんがえ)今を照らす”(稽古照今)とあるよう、古から続いてきた様々な事柄を学ぶことで、今が見えてくるという教えです。・・・・
**********
代々の継承者が六歳の六月六日にお稽古を始めるとは知りませんでした。この六を続けることには何か意味があるのでしょうか。気になるところです。
黒ずんだ代々柱はまだ拝見したことがありませんが、想像すると茶道の伝統を感じて、心熱くなります。
古事記にあるという”稽古照今”という言葉には、感動しました。
確かにお稽古を始めた時はその形や順番に潜む意味は全くわからなかった。けれど、年数を重ね、最近見えるものが増えてきました。そして、茶道を通じて、それ以外の違ったことも見えてきました。
数年前に放映された野際陽子さんと江角マキコさんの嫁姑のドラマ、伝統と格式を守る姑と、現代っ子で効率的、割り切り型の嫁が描かれていました。「形なんかどうだっていいじゃないですか。心がこもってなきゃ意味がないですよ。」という嫁の言葉に対し、「形の中に心がこもるのです。(その行事を)形式にのっとってすることが大事です。」という姑の言葉が印象に残っています。
先人の積み重ね、伝え続けてきた形には、目に見えない深い意味と知恵にあふれているのでしょう。なんだか今はわからなくても、形を守る、形をまねてみると、先には開眼の時が待っているのかもしれません。
現代は、教育の世界でも、会社でも、目先の利益や実績、スピード感が重視されがちですが、積み重ねて基礎を築くこと、長い時間をかけて完成し見えてくるものがある、実はそういうものの方が学ぶべきことも多く、大事だということを子供たちにももっと教えてもいいし、大人も気付くべきではないでしょうか。今を照らすには、長い目で色々なことを学ぶ必要があること、また常に学び続ける必要があることを今実感しています。そして、日本には今を照らす助けとなる文化や伝統、習慣がたくさんあることを幸せに思います。
今年は、初釜の後、先日、皆で花月のお稽古をしました。明日は2回目ですが、今年初めての相伝稽古があります。先生はもちろんですが、神様を前に、これまでお茶の文化を伝えてきた人々の思いを前に、今年初めての亭主のお稽古をさせて頂いているのだと心にとめて臨もうと思いました。お茶のお稽古でも、普段の生活でも、今が益々照らされていくことを願って。
***引用***
・・・初釜式の式場となる「咄々斎」の席名は、昨年三百五十年の御遠忌をさせて頂いた元伯宗旦居士の斎号によるものです。この茶室は宗家の中でも特別な場所であり、六歳の六月六日に行われる「稽古始め」は、利休御祖堂にてお許しを得た後、咄々斎において当代の庵主に初めての稽古をつけていただく習わしです。また、床柱は、八代の家元又玄斎宗匠によって大徳寺に寄進された松の木が後に咄々斎に据えられたもの。この茶室で稽古する際、床柱の前に座れるのは家元に限られており、丁度背に当たる部分が歴代の家元方の背中で擦れて黒ずんで見えます。それが、「代々柱」と呼ばれる由縁です。
さて、初釜式の式場には、嘉例に則り正親町天皇の御宸翰を掛けさせていただきます。常に変わらぬ弥栄を寿ぐ御歌が掛けられた席で心静かに濃茶を練らせていただくことは、私にとりまして、お客様方へのもてなしであるだけでなく、歴代家元はじめ先達方の前で今年初めての”亭主の稽古”をさせていただいているのだと思っております。
稽古とは、「古事記」の中に”古を稽え(かんがえ)今を照らす”(稽古照今)とあるよう、古から続いてきた様々な事柄を学ぶことで、今が見えてくるという教えです。・・・・
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代々の継承者が六歳の六月六日にお稽古を始めるとは知りませんでした。この六を続けることには何か意味があるのでしょうか。気になるところです。
黒ずんだ代々柱はまだ拝見したことがありませんが、想像すると茶道の伝統を感じて、心熱くなります。
古事記にあるという”稽古照今”という言葉には、感動しました。
確かにお稽古を始めた時はその形や順番に潜む意味は全くわからなかった。けれど、年数を重ね、最近見えるものが増えてきました。そして、茶道を通じて、それ以外の違ったことも見えてきました。
数年前に放映された野際陽子さんと江角マキコさんの嫁姑のドラマ、伝統と格式を守る姑と、現代っ子で効率的、割り切り型の嫁が描かれていました。「形なんかどうだっていいじゃないですか。心がこもってなきゃ意味がないですよ。」という嫁の言葉に対し、「形の中に心がこもるのです。(その行事を)形式にのっとってすることが大事です。」という姑の言葉が印象に残っています。
先人の積み重ね、伝え続けてきた形には、目に見えない深い意味と知恵にあふれているのでしょう。なんだか今はわからなくても、形を守る、形をまねてみると、先には開眼の時が待っているのかもしれません。
現代は、教育の世界でも、会社でも、目先の利益や実績、スピード感が重視されがちですが、積み重ねて基礎を築くこと、長い時間をかけて完成し見えてくるものがある、実はそういうものの方が学ぶべきことも多く、大事だということを子供たちにももっと教えてもいいし、大人も気付くべきではないでしょうか。今を照らすには、長い目で色々なことを学ぶ必要があること、また常に学び続ける必要があることを今実感しています。そして、日本には今を照らす助けとなる文化や伝統、習慣がたくさんあることを幸せに思います。
今年は、初釜の後、先日、皆で花月のお稽古をしました。明日は2回目ですが、今年初めての相伝稽古があります。先生はもちろんですが、神様を前に、これまでお茶の文化を伝えてきた人々の思いを前に、今年初めての亭主のお稽古をさせて頂いているのだと心にとめて臨もうと思いました。お茶のお稽古でも、普段の生活でも、今が益々照らされていくことを願って。
人それぞれで、早い人は1度で覚えてしまうかも。
しかし精神性はにわか稽古では習得できないものですよね。
長い稽古や学びによって少しずつ培われるものと思っています。
到達できないものでありながら、達成感を求めて続けて行くだろう、そしてそれが楽しみにも繋がっているような気がします。
今は情報があふれ 知識が優先され頭でっかちになってしまいがちですが、少しづつ 体得することが必要な気がします。
オン、オフ すぐリセットの今の世の中では 時代遅れと言われてしまいそうですが。
>到達できないものでありながら、達成感を求めて続けて行くだろう、そしてそれが楽しみにも繋がっているような気がします。
おっしゃる通りですね。本当に苦労したり寄り道の多いものの方が達成感もありますね。
そして、同じお点前でも都度出来栄えの違うこと、お茶会ごとに異なる出会いなど、全く同じということがないのも楽しみであります。
そうですね、おいしいお茶には、心、きれいな姿、型通りの練習。
情報や知識も大事ですが、何でも体験してこそと思います。実際の動きから知識は強化されるもの。バランスのとれた学びをしたいものです。
>すぐリセット
は、ゲームやネットだけで、実際は何でも連続していくものですもんね。それを理解できない小さい子供にゲームやネットを簡単に与えてしまうのは不安を感じます。
形と心についての一連の考察になんども頷き、思わず拍手を送りたい気分になりました。ぼんやりもやもやしていたことを的確な言葉にしてくださって、すっきりしました。ありがとうございます! 「心さえこもっていれば良い」という、その心は、下手をすると自分勝手な自我の心に過ぎないこともあります。積み重ねられてきた伝統の「形」に沿おうと努力することによって、そういう自我を超えた「心」を実現できるのかもしれません。
私も、これまでに伝統を築いてこられた無数の先人たちとひとつになるのだという気持ちでお点前できたらいいなあと思います。すばらしい考察をどうもありがとうございました。
アクセス数はそれなりにあるのに、コメントはなかなか増えないので、こうして書いて下さって嬉しい限りです。
おっしゃる通り、「心さえこもっていればよい」というのは勝手な思い込みにすぎないかもしれませんよね。昔から続く形を学び、心を学び、やがて自分の形を得られるのかもしれません。今回のお家元のお話の御蔭で自分を振り返ることができました。
まるめさんは裏千家でお稽古なさっているのですか?
お互い頑張りましょう。これからも気軽にコメントお願いします。