阿弥陀仏の名号を聞くとは、単なる、名前を聞いたり、念仏したりすることではなく、魂が生を離れて、光明に包まれた状態で、阿弥陀仏の名号(実際の姿・48願のかなった全存在)に直接会って供養することで、その魂が自分の心中で歓喜し信心が目覚めたことの証明が記憶されてひと時も忘れない(総持という)状態である。 以上はスペルマバーグの実際の体験談
以下もすべて作り話ではなく、本当の現実の話である。
41願: もしも私が仏となる際に創立する国土以外の、すなわち無量・無数・不可思議・無比の諸宇宙の全世界に住む、数兆に及ぶ莫大な数の求道者たちが梵我一如を体験し一刹那の間に私の名号を見聞きすると同時にその魂が信心決定し不退転を得ることが出来ない場合は、正覚を取りません。 無量寿経梵文 スペルマバーグ意訳
同42願:たとい、われ仏となるをえんとき、他方の国土のもろもろの菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を体得し、この三昧に住して、一発意の間に、無量・不可思議のもろもろの仏・世尊を供養して、禅定の意を失わざらん。もし、しからずんば、正覚を取らじ。 無量寿経漢文書き下し
もしもわたくしが覚りの境地におもむいた後に、わたくしの名がすみやかに十方の、多くの無限の諸仏国土にひろく達しないならば、わたくしは、仏とはならないでしょう。 無量寿経梵文詩句 3.
33願:世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数・不可思議・無比の諸世界にいる生ける者どもが(わたくしの)光に照らされてはっきりと明らかに見えるようになったとして、かれらすべてが、神々と人間とを超えた幸せをそなえるようにならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。 無量寿経梵文
同33願:たとい、われ仏となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りて、その身に触れなば、身意柔軟にして、人・天に超過せん。もし、しからずんば、正覚を取らじ。 無量寿経漢文書き下し
34願:世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる求道者たちがわたくしの名を聞いて、それを聞いたことにともなう善根によって、迷いの生存を除いているから、以後、覚りの座に至るまで、神秘な保持能力(記憶して忘れない力)を得ないようであったら、その間はわたくしは<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。 無量寿経梵文
同34願:たとい、われ仏となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の※無生法忍、(ないしは)もろもろの深(妙)なる総持をえずんば、正覚を取らじ。 無量寿経漢文書き下し
※無生法忍: 離生を証明して不生不滅の道理を心が悟ること 信の一念に正成就不退の位に住すること
スペルマバーグ流に言うと、
自分の魂が生(生きている時の感覚)を離れて自然のメカニズムの歯車のひとつの動きとして廻り始める状態で、自分が生きていないが滅してもいない状態。自分の動きが、自然のメカニズムと一体化して、自分の動きが他に影響を与えると同時に、自分以外の他の動きの影響で自分が動いているのを自分で見ている状態。 要するに自分が世の中のメカニズムの一部として動いているのが分かるがそれを止められないこと。