2024年はとても衝撃的な幕開けとなった。
能登半島地震、羽田空港での事故、人間の弱さと行動する人間の強さの両方が胸に染み入ってくる。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々にお見舞いを申し上げます。
そして日々寒さを増してくる北陸で、捜索や被災者支援に携わる方々、自衛隊の方々の滅私の努力に対しては本当に頭が下がります。
また今日1月17日は1995年に起きた阪神大震災の慰霊の日でもある。
非常時だからこそ見えてくる大切な事柄を、しっかりと記憶しておきたい。
改めて記す。このブログは創価学会員の言動についてのメモ帳だ。
昨年11月の池田名誉会長死去という報道後、TVも新聞も一切創価学会の実態に踏み込んでいない。
当たり障りのないヨイショ記事に終始しており、国民が知りたい内容は出てこない。
想定の範囲内ではあったが、このままスルーして良いとはとても思えない。
こんな弱小ブログだが思いは素直に書いて行こう。
*まずは現在進行中である一つ目の裁判。
もう一昨年のことになるが、2022年の東京都西東京市議会議員選挙で、反創価学会を公言してトップ当選したのは、元タレントで創価学会を脱会した長井秀和氏であった。
だがその選挙演説の中で、1995年に起きた東村山市議朝木明代氏の怪死事件が他殺ではないかということ、そして創価学会が関わっていたのではないかという内容に触れたこと、に対して創価学会側から裁判を起こされたのだ。
とにかく重箱の隅をつつくようなスラップ訴訟が多いと言われてきた集団だ、一部の勝利した裁判は組織の聖教新聞に掲載されるが、多数の負け裁判は会員には知らされないそうである。
スラップ訴訟の多さは、フランスではカルト判断の条件の一つになっていることも覚えておきたい。
さてこの怪死事件だが、創価と言う集団の実態を知るにつれて、???が!!!に変わってくる。
どうかまずは一冊「東村山の闇」(矢野穂積著)などを読んでいただきたい。この感覚を共有してもらえると思う。
当時は創価批判が猛烈に沸き起こっていたようだ。
それは自民党内でも起きていた。(憲法20条を考える会 。四月会 。)
しかしこれほど酷い批判も、まるで何も無かったかのように不気味に静まる。
やがて大手メディアは創価の名前すら出すことも無くなり、公明党は与党入りして大臣のポストまでも手に入れた。
その後も2008年前後から数年にわたり、「行動する保守」の方々が率いる反創価学会運動が盛んになり、実態をよく知る日蓮正宗有志のかたや、一般個人の人々をも巻き込んだ大規模な反創価デモも頻繁に行われていたが、メディアは何一つ取り上げることは無かった。
創価学会とTVや新聞が同じ穴の狢であることは、この時もはっきり表れていたのだ。
真実を伝えないメディアや、真実を追求できない政治に不信感を募らせる国民が増加したのは当然だと思う。
それから時が流れ、今回の西東京市議長井秀和氏の登場は、世の中の闇を憂う人々にとっては久しぶりの動きであった。
しかし長井氏の戦いもTVや新聞で詳細が知らされることはまだ無い。
時々ネットでの発信を拝見すると、長井氏は主に二世問題に重きを置いて活動されているようだ。
それも必要なことだと思うが、個人的にはその知名度を生かして反社会的行為を表面化させる活動に重点を置くことで、世論を刺激してくれることを望みたい。
様々な協力関係も大切である。
しかし左派や自称リベラルと言う野党も、自民党の半分も、創価公明と同様に特亜と深く繋がっていると言われる。
その中で、旧統一教会問題のようにうやむやに流されないように結果を出すための戦いは、本気であるほど困難が伴うであろう。
加えて少し不思議な話を書いておく。
近年、どこからか話し声が急に聞こえ出し、何年間にもわたり四六時中聞こえ続けて止まない。などという不可解な状況に陥る人々が増えている。
いまだに精神の病だと決めつけられることが多く、なかなか理解されないようだが。
実はその話し声の内容として、この事件も創価という集団も当人はほとんど知らなかったにもかかわらず、「東村山の事件は仲間がやった」「おまえも落としてやろうか」「イケダ先生が助けてくれる」などという話をいきなり聞かされた事例もあるのだ。
私はとても興味を持っている。
多くの国民が疑問を抱いたままの、創価と対峙した朝木市議怪死事件。
もし長井氏の戦いで新しい確証を得ることが出来たならば、もっと大きな事件の救済に繋がる可能性があるかもしれない。
今後の裁判の行方を注視していきたい。
*次に二つ目の裁判。
2019年に起きた、京都アニメーション放火殺人事件。
多大な犠牲者を出し、忘れることのできない事件だが、ようやく昨年から裁判が始まった。
TVでは触れられていないようだが、青葉真司被告も創価学会員であるという。
事件を解明しようと考えるならば、その内面、性格や行動に大きな影響を与えていると思われる部分を避けて通れないはずだ。
宗教とはそういうものであろう。
しかし他の事件でも同様だが、今回もまるでその部分だけが封印されているかのようだ。
この先、凶悪犯罪を本当に無くしたいと考えるのであれば、どの事件においても被告の心の形成部分が一番肝心なのではないか。
そこを意識的に省くようなことがあるのならば、その分析には何の価値もないと、ど素人の私は思ってしまう。
青葉被告の国選弁護人は死刑廃止論者であると聞いた。
ならば当然カルトの影響については主張されるべきではないだろうか。
私は死刑制度は維持すべきと考えているが、いずれにしても被害者の方々の心情が尊重されつつ、深い議論が交わされることを期待したい。
今後の裁判がとても気になっている。