今日は長崎原爆の日です。
たまたまパートタイムの仕事があったので、11時2分にソッとと黙祷をしました。
長崎の原爆と言えば、筒井茅乃さんの「娘よ、ここが長崎です」を思い出します。
筒井さんは永井隆さんの遺児で、永井さんは長崎医科大学の放射線医師です。
「長崎の鐘」や「この子を残して」等を著しています。
この本で長崎の原爆を深く知り、学生時代に如己堂(にょこどう)等を訪れたことがありました。
その際、記念館の方(ガイドの方で当時60才過ぎに見受けられました)から「そちら(関東)辺りでは、永井先生のことはどのくらい学ぶのですか?」と尋ねられました。
同行した友人3人は、全く聞いたことが無かったと答えていました。
私は「小学生の時、娘さんの茅乃さんの本は読んだことがあります。「娘よ、ここが長崎です」というタイトルでした」とお答えしたら、その方の顔がパーっと明るくなったのが印象的でした。
それから私にむけてその方かいろいろとお話いただきました。
お話を伺ううちに本の内容をどんどん思い出して、本の内容と様々なことが合致したのにはとても驚きました。
そしてガイドの方が「そちらでも若い方でご存じの方がいて、本当によかった」としみじみ話されたことが忘れられません。
おそらく、修学旅行生でももうなかなか永井隆さんのことを事前に知っている生徒さんが少なくなっていたのかもしれません。
ただこの時の私は、口にできなかった言葉がありました。
旧満州に関東軍の兵士としていた祖父は、復員するまで長崎の原爆のことを知らなかったそうです。
ソ連との国境近くにいた祖父は、ソ連侵攻で取るものも取りあえず、逃げたと聞きました。
祖父たちは「広島に新型爆弾が落ちて、ソ連兵が攻めてきたから、何しろ朝鮮に逃げ込め!」と思ったそうです。
自分が生まれる前から「日本」だった朝鮮半島が、まさか日本で無くなる日が来るとは想定外だったとか。
その逃避行を話す祖父は厳しい表情でした。
そして逃避行中に身を犠牲にしてまで仲間を助けた兵士の話。
地図もない逃避行中に道に迷って山の中腹を1周して敵に追いつかれた話。
野原でソ連兵に囲まれて捕まった話。
船に乗せられて日本に帰国するかと思いきやずっと岸が見えて騒然とした話。
結局シベリア抑留を経験した話。
食料不足で食料の奪い合いになった話。
近隣の住民との交流の話。
故郷は思い出さないようにしていたのに、金色に輝く小麦畑を見て「帰りてぇなぁ」と思った話。
ドイツ兵がジャガイモをうまく茹でて食べていた話。
捕虜でも病人は大切にされて、神経痛は怠け者と叱責される話。
2年炭鉱を掘ってやっと帰国できそうになった話。
帰国が延期されそうになった話。
帰国手続き中に再会したハラさんの話。
復員船が嵐で転覆しそうになった話。
復員船が到着して、2,000円もらって道端のりんご5個を買ったら、2,000円の支払いだった話(日本のインフレと通過切り替えを知らなかった)。
地元の駅まで貨車で帰る途中で広島の町を見た話と長崎の原爆のことをその貨車内で知る話。
いま思い出しただけでもいろいろな話を聞いていたなぁ、と。
まだまだたくさんの話をきいているのに、もう祖父からは新しい話は聞けないです。
そしてこの話は、経験者から聞くから価値があるのであって、私が話しても他人には又聞きなのです。
今、シベリア抑留の日本人遺骨と言われたモノが日本人では無かったという鑑定が出ているニュースがあります。
私の祖父の話では、日本人がどんどん死んで埋める場所が不足して、せめて重ならない(骨が混ざらない)ように埋めてやりたいと思ったそうです。
でもそれができなかったと悲惨な状況を話してくれたことがありました。
凍てつく大地で、冬は野犬に遺体を食べられないようにするのも大変だったこと。
春になってちゃんと埋めてやりたくてもそれも叶わなかったこと。
そう言った話を思い出すにつけ、シベリア抑留者の遺骨をせめて帰国させて欲しいけれど、判別の難しさも感じます。
そしてなによりも、無事に復員してくれた祖父にもっと話を聞いておきたかった、聞き書きをしておけばよかった、と今さらながら思っています。