先日、北秋田市阿仁の史跡めぐりへ行って来ました~。
朝8時40分出発 一路 阿仁鉱山へ といっても鉱山の坑道は現在見る事はできないが
一部復元させた物を現地のガイドさんの案内で見学しました
阿仁鉱山は1309年に金山として開発されたと言われており、その後、銀、銅を産出するようになりました。
1716年(享保元年)には産銅日本一となり、別子銅山、尾去沢鉱山と共に日本三大銅山のひとつに数えられ、
阿仁鉱山の名は全国的にもよく知られるようになりました。
阿仁鉱山といいましてもひとつの鉱山ではなく、小沢、真木沢、三枚、一の又、二の又、萱草の6銅山(六ヶ山)と
向山金銀山、太良鉱山、加護山製錬所から成っています。
江戸時代においては秋田藩の直営として、阿仁の銅は貨幣原料や長崎の出島から海外への輸出品として重要視
され、多いときには幕府御用銅のおよそ5割が阿仁鉱山から産出されました。
明治初年に官営鉱山となったのち、1885年(明治18年)には阿仁鉱山の六ヶ山と向山金銀山、
合わせて太良鉱山、加護山製錬所と付属山林も古河市兵衛氏に払い下げられました。
近年まで産出を続けましたが、1987年、資源の枯渇により休山となりました。
*カラミ山
*河川公園
河川公園は鉱山の物流を支えるために船場とし発達していました
現在は自然が美しい公園となっています
次に阿仁の歴史を紹介した資料館へ
鉱山が繁栄していた時代のジオラマや巻物、などが展示されています
鉱石
*次に隣接する異人館へ
明治12年(1879) メツゲルら5名のドイツ人技師が来山,鉱山技師メツゲルらの居宅として建築されました
秋田県の重要文化財に指定され、1990年(平成2年)には国の重要文化財の指定を受けています。
メツゲルの設計によるものと言われており、当時は阿仁鉱山外国人官舎及び事務所として使われていました。
構造は煉瓦造りの平屋建てで、屋根は切妻造り、壁は地元の土を焼いて造られた煉瓦造りです
煉瓦は現在の下浜(阿仁河川公園付近)で作られたようです。建物は東に面して建ち、半円形窓は上げ下げ式、
外側は鎧戸、周囲は木造のベランダで囲まれており、異国情緒漂う建物です。
のちの洋式建物の象徴といわれる鹿鳴館やニコライ堂より先駆けて建てられており、
ヨーロッパ人と洋館に初めて接する当時の日本人にカルチャーショックを与えたと言われています
*その他 平賀源内について
科学者として知られる平賀源内(1726~1779)も、阿仁鉱山の技術向上にも貢献しています。
源内らは阿仁に滞在して銅山経営の立て直しをはかり、精錬法を改良し、阿仁の産銅から銀を絞り出す技術(銀絞り法)を伝えました。
これをうけた秋田藩は幕府の許可を得て1774年(安永3年)に能代市(旧二ツ井町)の加護山に精錬所を設け、阿仁の産銅から銀の抽出を開始しました。
今日はここまでとします~。
次回は阿仁の伊勢堂岱遺跡についてお話いたしますね、ではまた