新♦246『自然と人間の歴史・世界篇』17~18世紀のイギリスの三角貿易

2018-01-01 21:34:05 | Weblog

246『自然と人間の歴史・世界篇』17~18世紀のイギリスの三角貿易

 イギリスは、17世紀に入って北米大陸の植民地を拡大していく。1672年には、王立アフリカ会社を設立し、奴隷貿易を国策とするにいたる。その前の絶対王政の頃までの重商主義政策によっては、エリザベス女王曰(いわ)く、「スペインの商船を見つけたら、それを拿捕(だほ)してよろしい」とのお墨付きを与えていたといわれる。これが事実なら、国家ぐるみの海賊行為によって、金銀財宝の類を手に入れていた時代があったとも考えられる。
 1713年には、当時のヨーロッパ列強の間でユトレヒト条約が結ばれる。これは、「スペイン継承戦争」と呼ばれ戦争終結に当たっての講和条約であった。この中で、イギリスは、フランスとスペインとが大同合併しない条件で、ブルボン家のスペインのフェリペ5世の王位継承を承認する。大陸での勢力均衡をはかった形だ。イギリスはこれの見返りに、フランスからハドソン湾地方、アカディア、ニューファンドランドを、スペインからジブラルタル、ミノルカ島(地中海西部のバレアレス海、バレアレス諸島北東部にあり、現在はスペイン・バレアレス諸島州に属す)を得る。つまりは、フランスからは北米大陸での北へ向かっての足掛かりを、またスペインからはジブラルタル海峡を望む良港と、地中海の出入口を抑える戦略的要衝を得て、これらの地でにらみをきかすことになっていく。
 また、この条約でイギリスは、スペイン領への黒人奴隷供給契約としての「アシエント」を獲得する。これを契機に、新大陸としての南アメリカへの黒人奴隷貿易を独占することになっていく。そして18世紀に入る頃には、イギリスは奴隷貿易を絡めての、イギリス本国とアフリカ、そしてアメリカ植民地を跨る形で「三国貿易」の仕組みが出来上がる。これを簡単に記せば、次のようなヒトとモノ、そしてカネの流れとなっていた。
 まずは、イギリスのリバプール港などを出た商人の船団は、西アフリカへ向かう。そこは、イギリスがポルトガルの勢力に打ち克って地歩を固めたところだ。そこで、奴隷商人たちから黒人奴隷を手に入れる。当地の部族の中には、奴隷商人の役割を担う者がたくさんいたのだという。この人身売買の取引に使うのは、船に積んできた自国製品の武器(銃など)や綿布や綿織物、雑貨(ビーズなど)、ラム酒などであった。イギリス商船の次なる仕事は、黒人奴隷を積み込んで自国のアメリカ植民地とか西インド諸島などへ向かう。
 そして現地に着くと、連れてきた黒人奴隷を売って得た資金で、このあたりのプランテーション経営で生産されたアメリカ植民地産の綿花や、ジャマイカ島などで栽培された砂糖、コーヒー、タバコといった作物を手に入れる。これらは、本国に持ち帰れば富をもたらすものばかりだ。そんな訳で、三番目のアメリカ植民地から本国への行路となるのだが、今度は、そうして調達した綿花や砂糖、コーヒー、タバコなど本国に運び、さらにヨーロッパ各国に供給したり、それらをもとに商品を生産して大きな利益を上げていく。そして、その利益の一部で、再び西アフリカに出掛けて奴隷を入れ、新大陸方面へと船団を組んでの、イギリス→西アフリカ→アメリカ新大陸→イギリスという一筆書きでのグルグル行路を進んでいくのであった。

 かくして蓄積されていった富が、それまでの海賊行為によって得られた金銀財宝の類、世界各地での自国資本によるプランテーション経営からもたらされる利益とともに、産業革命の原資並びに運転・発展の資金に加えられていった訳だ。

(続く)

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♦️185『自然と人間の歴史・世界篇』中米・南米へのスペイン進出(インカの征服)

2018-01-01 11:22:26 | Weblog

185『自然と人間の歴史・世界篇』中米・南米へのスペイン進出(インカの征服)

 続いての1531~33年には、これもスペインによるインカ帝国の征服があった。この国は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。1200年頃に成立し、文字を持たなかったものの、高度な農耕、金属器文化を有して、15世紀に最盛期を迎える頃、その支配地域は南米のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまでの、南北に渡る広範囲に広がっていた。
 それからさらに100年以上が過ぎると、この大いなる帝国に王位継承を巡って亀裂が生じる。1531年アランシスコ・ピサロという探検家、実は征服を生業とする武人(征服者を意味する「コンキスタドール」と呼ばれる)が、この地に来て狙いをつける。
 そして迎えた1532年、おりしも、アタワルパ(その名は「幸福な鶏」を意味する)がう新しいインカ皇帝となる。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位したのだ。これが、インカ帝国の内乱が終わった直後であることを知ったスペインは、コルテスの例に倣ってピサロを将軍に仕立て、征服を画策する。
 この年の9月、スペイン軍は、インカの皇帝のアタワルパのいるカハマルカに向かって進軍を開始する。11月15日、カハマルカ(現在のペルー北部)に到着したピサロが使者を送って友好を申し出、アタワルパはすんなりとこれを受け入れる。はるばる海を越えてこのインカにやって来たという白人たちが、敵愾心を抱いているのだろうか、そんな筈はないと、異邦人の善意を信じて疑わなかったことが大事を引き起こす。
 このためか、8万のインカ兵は油断しきっていた。アタワルパは、翌日輿に乗ってスペイン軍の待つ広場へとやって来た。そこへ予定どおり軍僧のビセンテ・デ・バルベルテ神父が進み出る。「われわれはイエス・キリストの教えで唯一神をいただいています」云々と述べたのかどうか、キリスト教に改宗するように求めるも、アタワルパは断る。それを見たピサロが、アタワルパの乗った輿に近づいて左腕をつかむと、「我々の神を冒涜したな」といったのかどうか、隠れていたスペイン軍が、突如そして一斉にインカ軍に襲い掛かる。
 戦端が開かれると、情け容赦はない。37頭の騎馬兵が怒濤の如く馬に乗っていないインカ兵に襲いかかり、アレヨアレヨという間に2000人余りが虐殺され、アタワルパは捕虜になってしまう。スペイン兵は鉄製の鎧などを身につけ、鉄剣に銃を使った。168名のスペイン兵には独りの死者もなかったというから、彼ら客人が歓迎の会場に乗り込む時点にはもう打ち合わせは終わっていたのだろう。
 ピサロは、囚われの身となったアタワルパに、身代金として莫大な金銀を集めるように命じた。ピサロは、まんまとこれを手に入れたのであろうか。1533年7月、もう利用価値がないとみたのか、ピサロは軍事裁判を開いてアタワルパを処刑してしまった。首都クスコを目指して南下するスペイン軍は、アバンカイの険しい山道でキスキス率いるキート派インカの襲撃を受ける。これを辛うじて撃退したスペイン軍は、こんな時の常套手段の一つ、クスコ派でワイナ・カパックの息子の一人であるマンコ・インカを傀儡(かいらい)として即位させた。1533年11月15日朝、ピサロ率いるスペイン軍400はクスコに入城して占領を果たし、インカ帝国の屋台骨はもろくも折れ、これを境にさしもの大帝国も滅亡に向かうのであった。
 なぜに、これほどまでにあっけない敗北であったのかについては、誠に持って不思議というほかはない。これと前後して、インカには伝染病に感染する者が大勢出ていた。一説には、これこそがインカ帝国を滅亡に導いた決定的要因であるといわれる。伝染病の多くは、それまでのインカの人びと(イカンディオ)の想像を遙かに超えるものであったろう。その大方は、この地にやってきたスペイン人などヨーロッパ人がもたらしたものと考えられている。これも含めることでの事の顛末が語られる文献としては、さしあたりジャレド。ダイアモンドという進化生物学者による『銃・病原菌・鉄(上・下)』(倉骨彰訳、草思社)が広く知られる。

(続く)

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♦️184『自然と人間の歴史・世界篇』中米・南米へのスペイン進出(アステカの征服)

2018-01-01 11:21:10 | Weblog

184『自然と人間の歴史・世界篇』中米・南米へのスペイン進出(アステカの征服)

 アステカ王国の成立は、なおも伝承に包まれている。1325年に、チチメカ人の一派であるアステカ族(またはメシカ人ともいう)が、メキシコ中央高原のテスココ湖の中の小島に移り住み、テノチティトラン(現在のメキシコ市の中心部)に町を築く。
 初めは有力なテパネカ族に服属していたらしい。それが、15世紀の前半のイツコアトル王のとき独り立ちする。1469年まで統治したモクテスマ1世の時に周辺のベラクルス地方やアオハカ地方の周辺の部族を次々とを征服していく。
 アステカは、14世紀から現在のメキシコ南部を領するにいたる。国名のアステカ(Azteca)とは、彼らの伝説の上での起源の地「アストラン(Aztlan)から来ているとのこと。この文明国家を打ち立てたアステカ族は、やがてメシトリ神を戴く人を意味する「メシカ(Mexica)」へと昇華していくことになるのだが。
 このように大帝国を築くのであったが、1519年~21年には、スペインによるアステカ帝国の征服があった。1521年5月末、テノチティトランに対するスペイン軍の総攻撃が開始される。何度も迫り来るスペイン軍を、アステカ軍は激しい抵抗によって押し戻す。大砲や小銃などを使った攻撃に劣勢となり、8月13日には皇帝クアウテモックが捕らえられ、ついにアステカ帝国は降伏する。75日間の激しい攻防戦によってテノチティトランは廃墟と化す。
 それからのスペイン統治下で、1525年にクアウテモックらが反乱を企てる。しかし、これをサッチしたスペイン軍により、処刑された。アステカ攻略の功でメキシコ総督に任命されたコルテスだが、その後は中央アメリカ各地に遠征隊を派遣したが得るところはほとんどなかった。やがて、メキシコ植民地の直接支配に乗り出したスペイン王室によって、コルテスはふがいにもその職を解かれるのだった。

(続く)

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