246『自然と人間の歴史・世界篇』17~18世紀のイギリスの三角貿易
イギリスは、17世紀に入って北米大陸の植民地を拡大していく。1672年には、王立アフリカ会社を設立し、奴隷貿易を国策とするにいたる。その前の絶対王政の頃までの重商主義政策によっては、エリザベス女王曰(いわ)く、「スペインの商船を見つけたら、それを拿捕(だほ)してよろしい」とのお墨付きを与えていたといわれる。これが事実なら、国家ぐるみの海賊行為によって、金銀財宝の類を手に入れていた時代があったとも考えられる。
1713年には、当時のヨーロッパ列強の間でユトレヒト条約が結ばれる。これは、「スペイン継承戦争」と呼ばれ戦争終結に当たっての講和条約であった。この中で、イギリスは、フランスとスペインとが大同合併しない条件で、ブルボン家のスペインのフェリペ5世の王位継承を承認する。大陸での勢力均衡をはかった形だ。イギリスはこれの見返りに、フランスからハドソン湾地方、アカディア、ニューファンドランドを、スペインからジブラルタル、ミノルカ島(地中海西部のバレアレス海、バレアレス諸島北東部にあり、現在はスペイン・バレアレス諸島州に属す)を得る。つまりは、フランスからは北米大陸での北へ向かっての足掛かりを、またスペインからはジブラルタル海峡を望む良港と、地中海の出入口を抑える戦略的要衝を得て、これらの地でにらみをきかすことになっていく。
また、この条約でイギリスは、スペイン領への黒人奴隷供給契約としての「アシエント」を獲得する。これを契機に、新大陸としての南アメリカへの黒人奴隷貿易を独占することになっていく。そして18世紀に入る頃には、イギリスは奴隷貿易を絡めての、イギリス本国とアフリカ、そしてアメリカ植民地を跨る形で「三国貿易」の仕組みが出来上がる。これを簡単に記せば、次のようなヒトとモノ、そしてカネの流れとなっていた。
まずは、イギリスのリバプール港などを出た商人の船団は、西アフリカへ向かう。そこは、イギリスがポルトガルの勢力に打ち克って地歩を固めたところだ。そこで、奴隷商人たちから黒人奴隷を手に入れる。当地の部族の中には、奴隷商人の役割を担う者がたくさんいたのだという。この人身売買の取引に使うのは、船に積んできた自国製品の武器(銃など)や綿布や綿織物、雑貨(ビーズなど)、ラム酒などであった。イギリス商船の次なる仕事は、黒人奴隷を積み込んで自国のアメリカ植民地とか西インド諸島などへ向かう。
そして現地に着くと、連れてきた黒人奴隷を売って得た資金で、このあたりのプランテーション経営で生産されたアメリカ植民地産の綿花や、ジャマイカ島などで栽培された砂糖、コーヒー、タバコといった作物を手に入れる。これらは、本国に持ち帰れば富をもたらすものばかりだ。そんな訳で、三番目のアメリカ植民地から本国への行路となるのだが、今度は、そうして調達した綿花や砂糖、コーヒー、タバコなど本国に運び、さらにヨーロッパ各国に供給したり、それらをもとに商品を生産して大きな利益を上げていく。そして、その利益の一部で、再び西アフリカに出掛けて奴隷を入れ、新大陸方面へと船団を組んでの、イギリス→西アフリカ→アメリカ新大陸→イギリスという一筆書きでのグルグル行路を進んでいくのであった。
かくして蓄積されていった富が、それまでの海賊行為によって得られた金銀財宝の類、世界各地での自国資本によるプランテーション経営からもたらされる利益とともに、産業革命の原資並びに運転・発展の資金に加えられていった訳だ。
(続く)
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