♦️546『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ミャンマー)

2018-01-05 21:21:57 | Weblog

546『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ミャンマー)

 1942年5~6月、侵攻してきた日本軍が、当地ビルマのイギリス軍を追い出し、全土に軍政を布告する。これより少し前、日本は、タキン党(主人の党)の指導者たち、バー・モー、オン・サンらビルマの独立運動を推進してきた人々の夢を後押ししているかのような立場をとっていた。日本軍は、かれら独立軍を政治的に利用したのだ。日本軍がその占領でビルマの地に進出を確かなものとしたとき、独立軍は2万以上に達していた。
 1943年に入って、日本は形ばかりの独立を認めるとともに、政治や経済の実権は握り続ける。アウンサンは、国軍の最高司令官と国防相に任じられるのだか、その国軍は日本軍に従属させられる。1943年8月1日、日本は建前上はビルマの独立を認めたものの、実質的支配は日本軍の掌中にあった。日本政府と軍は現地ビルマの人々を強制労働に駆り立てることを行いながら、ビルマを支配していく。
 翌1944年8月1日の独立記念日には、オン・サンらのビルマ独立運動の指導者たちは、共産党を除くすべての勢力を結集して、地下組織「反ファシスト人民自由連盟」をつくり、抗日運動を組織する。1945年に入ると、国軍を中心とする抗日蜂起が起こり、独立の運動は全国で高まる。
 そして、1945年夏の日本軍国主義の連合国に対する敗北、無条件降伏があり、日本軍が現地を引き揚げ、再びイギリスが領する。独立軍はビルマにおける日本軍国主義の敗北に貢献したことが認められる。1947年1月28日、イギリスがビルマと独立供与協定を締結する。イギリスの立場としては、みずからの指導性を確立するとともに、かれらに政治的な代償を与えようというものであった。イギリス軍は独立軍に武装放棄と解散を命じる。
 1945年8月19日、このイギリスによる新たな支配に抗して、オン・サン将軍は反ファシストし選民自由連盟を結成、その総裁として国民集会でイギリスの新植民地政策に反対して、「完全なる独立」を要求する。そして、独立軍をイギリスに対する人民義勇軍に変え、独立闘争を推進していく。
 1947年1月、イギリスはついにビルマを政治的に支配する道が無理なのを悟り、オン・サン・アトリー協定によって「1年以内の完全独立」を認めるにいたる。民族自決については、1947年2月、アウンサンはシャン族などの主要少数民族と連邦国家の樹立についての合意を取り交わす、これを「パンロン合意」という。この年の7月19日、アウンサンらが政府庁舎で会議中のこと、乱入した4人に襲われ、銃弾に倒れる。
 かくして、翌1948年1月4日、ビルマが英国による連邦を脱して、独立する。ビルマ連邦共和国の誕生だ。1948年8月20日、ビルマ全土に戒厳令が発せられる。それからさらに時が経過していく。そして迎えた1962年3月、国政は混乱していた。国軍のネウィン将軍が、これに乗じてクーデターで権力を掌握し、長い軍事政権の時代に入っていく。1989年5月26には、国名をミャンマーに変更する。
 ミャンマーを構成する人びとにとって、民族問題とはどんなものなのだろうか。顧みれば、民族の自決というのは、1947年2月、アウンサンはシャン族などの主要少数民族と連邦国家の樹立についての合意を取り交わす、これを「パンロン合意」という。
 2016年10月9日、ミャンマー西部ラカイン州でロヒンギャとおぼしき武装集団が警察を襲撃したとされ、その後に国軍がロヒンギャの仕業として掃討作戦を実施する。2017年8月25日、ロヒンギャの武装集団がラカイン州で警察など襲撃したとされ、国軍が反撃する。その後に、約60万人超のロヒンギャ住民がバングラデシュへ避難する。 続いての10月12日には、アウンサースーチー国家顧問兼外相がテレビ演説で難民の国内帰還、人道支援に関する新組織設立の移行を表明する。続く11月6日、国連の安全保障理事会が、ミャンマー政府に、ラカイン州での軍事力行使を抑制するよう求める議長声明を発表する。11月23日、ミャンマーとバングラデシュ両政府が、ロヒンギャ難民のミャンマー帰還に向けた覚書に署名する。11月28日、フランシスコ・ローマ法王がアウンサースーチーと会談する。

(続く)

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