○63の2『自然と人間の歴史・日本篇』律令制へ

2018-01-06 21:10:28 | Weblog

63の2『自然と人間の歴史・日本篇』律令制へ


 とはいえ、白村江での敗戦から2年後の665年には、第5回目の遣唐使が派遣される。
守大石(もりのおおいわ)・坂合部石積(さかいめのいわしき)なとが大陸に渡る。現代流に言うと、国交が回復されたことになるのだろうか。振り返れば、第1回は630年に犬上御田鍬なが、2回目は653年に吉士長丹・道昭などが、3回目は654年に高向玄里などが、4回目は659年で坂合部石布などが派遣されていた。
 なおこれ以後、6回目が669年に河内鯨らが、7回目として702年に粟田真人・山上憶良らが、8回目は717年に多治比県守・吉備真備・阿倍仲麻呂・玄肪などが、9回目は733年に多治比広成らが、10回目752年に藤原清河・吉備真備らが、また帰り船で鑑真が754年に渡来する。11回目は759年に高元度らが、12回目は761年として企画されるが派遣中止となる。13回目は762年に中臣鷹主(渡海せず)らが、14回目は777年に佐伯今毛人らが、15回目は779年に布勢清長らが、16回目は804年に藤原葛野麻呂・最澄・空海らが、17回目は838年に藤原常嗣、円仁らが派遣される。そして18回目として894年に菅原道真らが遣唐使に任命されるも、派遣中止となる。
 667年には、朝廷が近江の大津に宮を移す。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、668年(天智元年)に大王に即位する。中国の唐と組んだ、朝鮮半島の新羅が百済を滅ぼした2年後のことであった。高句麗も四度、唐・新羅連合軍に抵抗したものの、668年ついに降伏する。かると今度は、唐が都護符を遼東(リヤオトン半島)に置いて朝鮮半島に触手を伸ばし始める。新羅は反抗に転じる。これには旧二国の遺民も抵抗する形で、やがて迎えた676年新羅が都護符を遼東へと退けることで、朝鮮半島の統一を果たすのであった。
 倭国の方では、天智大王の即位の3年後の671年、大王は「近江令」(おうみりょう)に基づき、太政官制を敷いた。長男の大友皇子(おおとものおうじ)を太政大臣に任命する。彼を補佐する左大臣に蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣に中臣金、御史大夫(令制の大納言)には蘇我果安、巨勢人(こせのひと)、紀大人の三人を起用する。その翌年の672年には、天智天皇が近江宮で死去した。668年(天智元年)に即位してから、4年後のことであった。
 「壬申の年」の672年7月24日~8月21日(天武元年6月24日~7月23日)、「壬申の乱」(じんしんのらん)と呼ばれる宮廷クーデターが起きた。吉野に雌伏していた大海人王子(おおあまのおうじ、斉明女王の息子にして、天智大王の弟)は、いち早く近江軍の攻撃を察知して兵を挙げた。この乱で、天智大王の跡を継いで大王位に就いていた弘文大王(大友皇子改め)が戦いに敗れ、これを倒した大海人王子(おおあまのおうじ)が力づくで天下人にとって代わるのである。
 なお、その大海人王子が「天命開別(あめのみことひらけわかす)、つまり天智大王の同母弟であるとの記述が『日本書記』に見られるものの、勝った者が「大王位簒奪」の事実を正当化するために、天智・天武の兄弟説をねつ造したとの考えもあって、現在までのところ確かなところはわかっていない。
 ところで、この権力闘争において、備前の国を治める吉備氏(きびし)は、概ね中立の立場をとっていたのではないか。あるいは、どちらにも付きかねて、どちらか優勢な方に味方しようという、いわば模様眺めの姿勢であったのかもしれない。大友皇子が放った東国への使者は大海人皇子側に阻まれた。朝廷側は吉備と筑紫にも助勢を頼んだ。けれども、両勢力ともどちらの陣営へも大きくは荷担しなかった。
 これについての資料としては、『日本書記』の同年「6月26日の条」に、近江朝廷(大友皇子)側が吉備の軍事力を味方につけようとして、敵対する大海人王子と親密な関係にあった吉備国守の当麻公広島を殺害した、とある。「この頃吉備地方は吉備国として支配されていたことが知られる」(角川書店刊の『角川地名大辞典』より)というのが史実であったのなら、なぜそこまでしなければならなかったのかも問われるのではないか。ともあれ、この頃まで、吉備の国は大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見てよろしいのではないか。
 なお朝鮮半島の動静を追加すると、7世紀いったん唐の統治下に入っていた旧高句麗領の東北部の住民が蹶起して、渤海国を建てる。その後は唐の懐柔策に応じて朝貢し、王朝の機構を整えていく。倭との間に使節を送り合う関係になり、奈良・平安期に至るまで有効関係を保っていく。

(続く)

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新69○○63の1『自然と人間の歴史・日本篇』白村江の戦い(662)

2018-01-06 21:08:58 | Weblog

63の1『自然と人間の歴史・日本篇』白村江の戦い(662)
 
661年(斉明大王7年)、風雲急を告げる百済救援のため斉明(さいめい)女王は筑紫(現在の九州)へ向かった。その途中、四国の松山において、従者の額田王(ぬかたのおほきみ)が詠んだ歌に次のものがある。
 「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(『万葉集』、巻十八)
 斉明大王は、しかし、朝鮮半島での倭国の劣勢挽回を果たせないまま、その年中に九州の地で死去し、その地に同伴していた息子の中大兄皇子が大王位を引き継ぐ。 660年に百済(ペクチェ)が滅ぼされてから、その残存勢力は、朝鮮半島における百済王室の再興運動に奔走していた。663年(斉明大王6年)、その力がある程度整ってきたのを機会として、日本はかれらとともに朝鮮半島の「失地」を奪回すべく、黄海に艦隊を派遣した。
 その同じ663年(斉明大王6年)の旧暦8月28日から29日にかけて、日本と、日本を頼ってきた百済遺民との連合軍が、朝鮮半島の白村江(ペクソンガン。和読は、はくすきのえ又はくそんこう)で唐と新羅の連合軍と船戦を戦い、2日間の激戦の後に完敗した。ここに白村江(ペクソンガン)は、現在の韓国の全羅北道(チョルラプクト)・群山(クンサン)で黄海(ファンヘ)に流れ込む錦江(クムガン)の河口付近だと推定される。『新唐書卷一百八/列傳第三十三、劉仁軌伝』には「遇倭人白江口、四戰皆克、焚四百艘、海水爲丹」とあって、この海戦で倭の「舟」400艘が焚かれたのが概ね本当であるなら、その数の数倍の戦死者が出たであろうことが推定できよう。ちなみに、『日本書紀』巻第廿七「天智天皇」の「天智二年秋八月」の条は、この戦いの模様を、こう伝える。
 「秋八月壬午朔甲午、新羅、以百濟王斬己良將、謀直入國先取州柔。於是、百濟知賊所計、謂諸將曰、今聞、大日本國之救將廬原君臣、率健兒萬餘、正當越海而至。願、諸將軍等應預圖之。我欲自往待饗白村。
 戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。」
 ここに「大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得廻旋」と唐書に呼応するような書きぶりとなっていることから、倭の側にとっては不慣れな海戦で完膚なきまでの敗北を招いたことなのだろう。この流れの結果として、倭の宮廷には落胆ともに、勢いを増した唐と新羅が日本に攻めてくるのではないかと混乱が広がったことは、想像に難くない。
 このようにして東アジアの政治情勢が緊張すると、どうなるであろうか。天智天皇らの朝廷は、これに対処する方法を色々と考える。そこで、これ以後は臨戦態勢をとることとし、九州そして中国地方の防備固めを急ぐのであった。その防備の中心に据えられたのが「古代山城」や水城(大堤)であった。前者は、朝鮮半島の築城方法に基づいて山上に造られた軍事要塞なのであって、かかる防衛ラインに沿って設けられていく。
 その代表例として、大野城(現在の福岡県にある)を取り上げよう。663年(天地2年)、に白村江の戦いで大敗した倭(日本)は、朝鮮半島より侵攻してくる軍から太宰府を守るため、大野城はそのひとつで、太宰府を眼下にする標高410メートルの四天王寺山に造られる。その建設には、百済の貴族の指導があった、とされる。軍事基地や兵舎、軍倉庫など70棟以上の建物、総延長8キロメートル以上におよぶ土塁や石塁などの痕跡が判明している。
 山陽道を通って畿内へ向かう途中の吉備地方に築かれた鬼ヶ城も、そうした軍事要塞の一つに数えられよう。一方、律令国家は東北地方に7世紀半ばから城柵を設置するのであって、多賀城(現在の宮城県)、払田柵(現在の秋田県)などが代表例である。
 なお、これに関連して、南朝鮮での倭の橋頭堡がどうなったかにも触れたい。これについて、一説には、「かつて日本のヤマト勢力は韓半島南部で活動したが、「任那日本府」という公式の機構を設置して支配したと見ることはできない」(徐毅植他著・君島和彦他訳「日韓でいっしょに臨みたい韓国史ー未来に開かれた共通認識に向けて」明石書店)とも指摘されている、このことに注目しておきたい。

(続く)

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