341『自然と人間の歴史・世界篇』米西戦争とキューバ独立・フィリピンのアメリカ植民地化
1898年2月、ハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メインが爆発し、沈没する事件が起こった。一説には、燃料の石炭に引火したともいわれたものの、原因はわからずじまいであった。一部断続はあるものの、約400年にわたりこの地を植民地として領有していたのは、スペインであった。アメリカの一部メディアは、根拠のないままに、スペイン人によるサボタージュが原因であると騒ぎ建て、国民の敵愾心を煽った。マッキンレー大統領は直ぐ様の開戦に同意せず、スペインも現地職員の一部を本国に引き揚げさせるなどして沈静化に努めるも、もはや矢は放たれる感があった。
1898年4月、マッキンレーは、「内戦の終了」という目的をでっち上げ、キューバへ軍隊を派遣する権限を求める議案を議会に提出する。キューバでは、スペイン植民地からの独立を目指す運動があり、これとの連携を匂わせる。アメリカの議会は、キューバの自由と独立を求める共同宣言を承認する。それと同時に、マッキンレーにスペインの撤退を要求させるべく軍事力行使の権限を与える。これを受けて、スペインはアメリカとの外交関係を停止する。ほどなく、アメリカとスペインとは戦争状態に入った模様で、「アレヨアレヨ」というお慌ただしい展開を遂げていく。
この戦争の勝敗は、あっけなくついた。アメリカにとっては自らの庭のような近い位置にあって、幾らでも補給が効く上、キューバに駐屯していたスペイン軍は約10万を数えたものの、サンチャゴは手薄であった。そこでアメリカ軍はサンチャゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を攻撃したことで、スペイン軍は総崩れとなる。陸上に上がっての戦いでもアメリカは優勢で、同年7月にはプエルトリコにまで上陸を果たす。、
この戦争の戦場は、太平洋を隔てたフィリピンでもあった。フィリピンでの最初の戦闘は1898年5月のマニラ湾の戦いであった。アメリカの太平洋艦隊がスペイン艦隊を痛めつける。エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの国家主義者は、米艦隊とともに独立運動を再開し、スペイン軍の多くは降伏する。スペインは、太平洋艦隊と大西洋艦隊の両方をほぼ失い、戦争自体を継続する能力を失った。
両国の交戦状態は、8月に停止した。アメリカの完全勝利であった。1898年12月、フランスが仲介者となり、パリで休戦会談、ついで講和条約(パリ条約)が締結される。翌1899年2月、これがアメリカ上院によって批准された。この戦争により、スペインはまずはキューバを放棄する。
一方、アメリカは、フィリピン、グアムおよびプエルトリコ(プエルト・リコ)を含むスペイン植民地のほとんどすべてをスペインに譲らせ、獲得する。グアムはアメリカ領に編入され、プエルトリコはアメリカの保護領にされてしまう。また、フィリピンについては、2000万ドルを支払うことを条件に、全フィリピン諸島を手に入れたことになっている。あわせて、そのキューバは、1902年5月20日、キューバ共和国として独立したものの、それは完全独立にはほど遠く、事実上アメリカの軍政下に入る。さらに、フィリピンの独立勢力とアメリカとの関係は、それまでのものにまた一輪を掛けるような、帝国主義的な狙いを隠さぬもので、こう言われる。
「しかし、こうした大国間取引とは別に、アギナルドらはこれより先スペインとの戦争の中で98年6月独立を宣言して革命政府を樹立し、翌99年1月には東アジアにおける最初の共和国を誕生させた。しかしアメリカはそれを認めず、ここにフィリピン・アメリカ戦争が始まる。1902年フィリピン側は一応の降伏をするが、反米闘争の残り火は13年ころまで続いた。」」(新藤栄一「米西戦争」:大貫良夫ほか監修「ラテン・アメリカを知る事典」平凡社、1987)
ともあれ、これでアメリカにとって避けては通れない、世界進出への大いなる足掛かりが整った。これ以降、アメリカの国力は飛躍的に拡大していき、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され、代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つことになっていく。
(続く)
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