♦️83『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)

2018-01-21 21:58:10 | Weblog

83『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)


 さて、古代ローマといえば、一日にならずして、長い統治の間に、「偉大なる歴史像」というか、輪郭が徐々につくられていく。それまでの世界にない文明、文化をつくっていった。みなさん、世界地図を広げてみよう。まるで足長靴のような狭い半島から始まって、周辺に力をじわじわと伸ばしていく。地中海世界をほぼ支配したばかりでなく、文化の点でも、今日のヨーロッパ、北アフリカ、中東へと大いなる影響を与えた。ここでは、それまでの文明の歴史になかったローマ独特のものから、幾つか紹介したい。
まずは、浴場の利用である。ここで紹介したいのは、個人の家の内に設けられた私的な風呂で湯につかることではない。この風習というか、文化が社会に定着したのは共和制の時代というより、帝政時代に入ってからだ。歴代皇帝の命で領土や属国のいたるところに巨大な公共建築が建設されていった。
 その都ローマの最盛期においては、数百もの公衆浴場があったという、公衆浴場をつくって市民に安価で提供するのは、政府や皇帝の役目と見なされた時代。巨大建築のコロッセウム(円形闘技場)で剣闘士の試合を見せることがある。
 だが、それよりもっと、心地よく、生きる力に直結し、日々の暮らしに役立つものがあったのではないか。もっとも、日本のヤマザキマリ氏のマンガ作品『テルマエ・ロマエ』(ラテン語で「ローマの浴場」の意味)を読んでも感じるのだが。そんな頃、ひとたびローマ市民になると、特段のことがなければその社会的地位を保持することが可能であった。家父長制の下で、市民たる者の家族は守られたことであろう。
 その当時、市民の権利の中には、色々なものがあった。取り立てては、それらの公共建築や、これを使用しての娯楽や健康づくり、社交や図書館利用、スポーツなど、数え上げたらきりがない程の恩恵が得られることになっていたらしい。大理石の玄関や列柱、ローマン・コンクリートで固められ、所々に色彩豊かなモザイクタイルが施してある床面は、まるで別世界であるかのよう。
 ここに立ち入る者の身分を問うかのような、特段のことはない。皆が、刺しゅうの入った壁などをくぐり抜けたところに、大広間があり、そこからは様々な湯房に分かれていたのではないか。これを利用できるのは、市民の特権であった。一説には、一部の奴隷も、カネさえ払えば利用できていた。いずれにせよ、ここを訪れた市民たちは、くつろいだ、彼らが、「気持ちがよい」「幸せです」などといえる何時間なりかを過ごしたであろうことは、いうまでもなかろう。
 例えば、80年。帝政期のティトゥス帝が命令して、ティトゥス浴場を建設させたことになっている。この浴場がいかなる使われ方をしていたものであったかは、ローマ人自身がこう紹介している。
「公共浴場には、垢すり、マッサージ、詩の朗読会、散歩に最適な心地よい庭園、図書館、食べ物の屋台などほしいものが何でもそろっている。(中略)浴場には筋肉質の女もいる。(中略)それから温浴場へ向かい、騒がしい男の集団にまみれて気持ちよさそうに汗を流す。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、ジェリー・トナー解説、北綾子訳、『ローマ貴族9つの習慣』太田出版、2017)
 もう一つの浴場の事例を紹介しよう。こちらには、現地解説が見つからないのだが。その浴場は、イタリアの首都ローマにある。古代ローマ時代の大浴場の遺跡として現代に伝わるのだが、1980、1990の両年に、ローマ歴史地区、教皇領とサンパオロフォーリ・レ・ムーラ大聖堂」の名称で世界遺産に登録されている。
 こちらの浴場のいわれだが、帝政時代の中期(212~216)、ローマ皇帝のカラカラが造営を命じる。そして完成した公衆浴場は、当初は「アントニヌス浴場」、後に「カラカラ浴場」と呼ばれ、市民の間で人気を博す。というのも、アッピア旧街道は、当初、ローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門、つまりこのカラカラ浴場付近を起点としていた。その先は、モンドラゴーネ(シヌエッサ)、カープアまでをつなぐ。それが紀元前19年、ベネウェントゥム(現在のベネヴェント)やウェヌシア(現在のヴェノーザ)までさらに延長され、さらにタレントゥム(現ターラント)とブルンディシウム(現在のブリンディジ)まで延長される。
 この浴場の広さだが、遺構の調査から11万平方メートルもあったことがわかっている。かかる広大な敷地に、一度に約1600人もの市民客を収容できのではないかという。冷水浴室、高温浴室、サウナのほかに、図書室や体育室なども備えていた。ほかにも、ミトラス教の神殿が敷地内に附属していたというから、驚きだ。そんな中でも、特筆されるべきは、この種の施設の運営には奴隷の労働力が寸刻たりとも欠かせななかった。というのは、施設の地下は3階構造となっており、床の下には湯を沸かす炉と大釜がじつにたくさんあり、それらの炉にくべる木材を奴隷たちが運んでいた。その現場の下には、水道が導かれていて水を供給、さらに園下には下水道という具合に、全体が階層構造をなしていたと伝わる。これらを推し量るに、かかる地下・地階での労働は日光が満足にとどかない場所での、苦役に近いものであったであろうことは、想像するに難くない。
 こんなすごい例は今時の日本でも、ほとんど類例のあるのを聞かない。入浴料はどの位であったのだろうか、その情報がほしい。もし安価であったのなら、ローマ市民のための十分に機能していたのではないか。現代の美術館に展示されている数多くの作品が、これらの公衆浴場から発掘されていることから見ても、れっきとした総合娯楽施設であったのではないか。
 そういうことなら、ローマの市民たちが、これらの傑作で飾られていた浴場を、「われら貧乏人のための宮殿」と呼び、日々の生活を潤していたというのも、頷ける。奴隷を含め庶民が集うのであったが、市民の中には単独で来るよりも、家内奴隷の数人を従えてやって来て、施設内で「アカスリ」やら「ひげそり」、「ひげぬき」などを彼らにやらせていたといわれる。このようにローマ市民にとってなくてはならない施設であったのだろうが、6世紀に入っての「ゲルマン民族の大移動」で肝心の水を引き入れる水道が破壊されてしまう。他の建築物と同様に、ローマ市内にたくさんあった浴場も、相次いで失われていったようだ。その間に、人びとの入浴習慣も失われていき、やがてローマの滅亡とともに、浴場文化は姿を消していった。今日に残されたタワー状の遺構や水道(上下水道)施設などにより、かつてここに市民の憩いの場、そして社交場としての賑わいの場のあったことがの偲ばれる。

(続く)

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♦️100『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(魏の屯田制へ)

2018-01-21 19:11:11 | Weblog

100『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(魏の屯田制へ)

 196年、中国の地では、大きな時代の移行期の時期にさしかかっていた。後漢の献帝を戴いた曹操は、尚も力を伸ばしていく。208年、華北をほぼ平定した曹操は、さらに南進しようと遠征軍を発し、呉(ご、中国読みはウー、222~280)の孫権(そんけん)と、これに合流していた劉備(りゅうび)の連合軍と揚子江(ようすこう)の赤壁 (せきへき、現在の湖北省嘉魚県) で対峙する。そのときの戦いを「赤壁の戦い」という。
 この戦いにおいては、呉の総督である周瑜(しゅうゆ)の部将黄蓋が曹操の水軍を全滅させる。曹操の軍が大船団を構えているところへ「火攻めの計」を用いて火矢を放つ。折からの強風でその火勢が煽られたので、さしもの曹操軍は大混乱に陥った。多くの船が戦うどころはなくなる所へ、呉軍がここぞとばかりに押し寄せ、陸でも劉備の軍に攻め立てられ、全面敗退を喫し、魏軍は命からがら華北へ逃れたという。
 曹操は、赤壁での大敗北から色々と学んだ。その一つが、呉の都の建業を目指し復讐(ふくしゅう)の遠征軍を送る時に補給線が絶たれ、戦力が減殺されるのを如何にして防ぐかであった。そこで、同じ196年、参謀の韓浩らの提言に従う形で、この補給線に沿って兵隊を募って駐屯させることにする。具体的には、、「黄河と准水間の河川沿ぞいと、さらに前線の揚子江北岸等の灌漑(かんがい)工事にあたるため軍民を派遣し屯田を行わせた」(貝塚茂樹「中国の歴史・上」岩波新書、1964)という。
 後漢末の治世では、「黄巾の乱」(こうきんのらん、184年に太平道(黄巾賊)を率いる張角(ちょうかく)が起こした反乱)を契機に荒れ果てた土地がかなりあり、また流民も発生していたので、営農が止まっていた。そのことで、それまでの後漢王朝の「人頭税」という方法で税をかけていたのが、「戸籍台帳」に登録されていない住民が激増したため、その徴収額は激減していた。
 ここにいう屯田制だが、前例がなかった訳ではない。秦(しん、中国読みでチン、統一王朝としては紀元前221~206)の時代には、兵士に田地を与えて自給自足させ(兵戸)、同時に辺境の防備に充てようとするのを軍屯(ぐんとん)といっていた。新しいやり方では、入植させた農民に農具や牛を貸与するとともに、その見返りとして収穫の半分以上(一説には6割とも)を上納させるという一種の小作方式(これを民屯という)をとる。
 この制度の導入当初、かかる屯田を耕作する住民は戸籍登録されることなくして、特別に「屯田民」と呼ばれていた、ともいう。これにより、税収は、だんだんに上向いていくのであった。歴史学者の貝塚茂樹氏の言葉を借りるなら、「この屯田制は魏(ぎ、中国読みはウェイ、220~265)の南方進撃作戦の基礎となったばかりでなく、荒廃していた華北の農業を復興する原動力となり、次に来る晋(しん、中国読みでジン、西晋は265~316、東晋は317~420)の占田制(せんでんせい)に始まる中国中世独特の国家的農地所有制の先駆をなした」(同)ということだ。やがて、中国は魏・呉・(しょく、中国読みでシュー、221~263)蜀の三国鼎立時代を経て晋の時代に入っていく。
 そこで、晋の時代に入ってからのこの制度のありようなのだが、尾崎康氏はこうまとめている。
 「魏の屯田策は呉・蜀と闘う兵士の食糧確保のために戦乱で荒廃した土地に兵士や流民を入植させたものであるが、晋代には豪族化・貴族化が進んで荘園が激増していたから、土地の所有制限がいよいよ必要になって占田・課田法を行った。この制にはわからないことが多いが、官位によって土地と佃客(でんきゃく)との所有量を制限しようとしたことは明らかで、また戸籍を整えて人民に土地を給付し、一戸ごとに課税するようにして、農民の土地所有面積を平均化し、国家の租税収入の安定化を図るものでもあった。これは隋唐の均田制の先駆をなすが、大土地所有制限の効果のほどは疑わしい。」(尾崎康「貴族社会の形成ー魏晋南朝の政治と社会」:伊藤清司・尾崎康「東洋史概説Ⅰ」慶應義塾大学通信教育教材、1976)

(続く)

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□78『岡山の今昔』山陽道(播磨から備前へ)

2018-01-21 09:12:00 | Weblog

78『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(播磨から備前へ)

 古くからの天下の大道としての山陽道を播磨方面からやって来て、岡山に向けてさらに進んでいく。相生(あいおい)からの山陽本線は、赤穂線を分岐させる。後者は、瀬戸内海の沿岸沿いを南へ西へうねうね辿りながら、岡山へと繋げていく。昔の山陽道からはずれるということで山陽脇街道というか、作家の井伏鱒二は、持ち前の紀行文の中でこれを「備前街道」と呼んだ。赤穂は、いうまでもなく、南に塩田を抱えて江戸時代に商業で栄えた、千種川(ちぐさがわ)の三角州(デルタ)の遠浅の地に発展したところだ。そのこともさることながら、この地は「忠臣蔵」の赤穂浪士の町でもある。
 赤穂の西は寒河そして日生(ひなせ)だが、後者の有り余る日光を浴びているかのような土地名は、どこから来るのであろうか。その次に伊里、それから備前片上、西片上を経て伊部(いんべ)へと鉄路が続く。このうち伊里のすぐ南の海に面したところが穂波(ほなみ)といって、このあたりでは瀬戸内海が深い入り江をなし、平地にいるかぎりは水平線は見えないといわれる。
 さらに岡山へ向かっての先に進もう。現在の岡山と相生を1時間20分ほどで結ぶJR赤穂線(あこうせん)のほぼ中程に伊部(いんべ)駅がある。この駅には、東西の大動脈としての国道2号線が駅前間近に通っているので、交通の便は鉄路、車道ともに良い。国道2号線を渡ると南北に「伊部通り」という名の大通りがあり、それを来た道へ向かって歩いてゆくうち約100メートルにて、T字形にて旧山陽道に出くわすことになっているとのこと。而(しか)して、この伊部という地域には、上代から脈々と伝えられし備前焼きの故郷がある。
 一方、山陽本線の方だが、山間部にしばらく分け入って進む。

(続く)

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