83『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)
さて、古代ローマといえば、一日にならずして、長い統治の間に、「偉大なる歴史像」というか、輪郭が徐々につくられていく。それまでの世界にない文明、文化をつくっていった。みなさん、世界地図を広げてみよう。まるで足長靴のような狭い半島から始まって、周辺に力をじわじわと伸ばしていく。地中海世界をほぼ支配したばかりでなく、文化の点でも、今日のヨーロッパ、北アフリカ、中東へと大いなる影響を与えた。ここでは、それまでの文明の歴史になかったローマ独特のものから、幾つか紹介したい。
まずは、浴場の利用である。ここで紹介したいのは、個人の家の内に設けられた私的な風呂で湯につかることではない。この風習というか、文化が社会に定着したのは共和制の時代というより、帝政時代に入ってからだ。歴代皇帝の命で領土や属国のいたるところに巨大な公共建築が建設されていった。
その都ローマの最盛期においては、数百もの公衆浴場があったという、公衆浴場をつくって市民に安価で提供するのは、政府や皇帝の役目と見なされた時代。巨大建築のコロッセウム(円形闘技場)で剣闘士の試合を見せることがある。
だが、それよりもっと、心地よく、生きる力に直結し、日々の暮らしに役立つものがあったのではないか。もっとも、日本のヤマザキマリ氏のマンガ作品『テルマエ・ロマエ』(ラテン語で「ローマの浴場」の意味)を読んでも感じるのだが。そんな頃、ひとたびローマ市民になると、特段のことがなければその社会的地位を保持することが可能であった。家父長制の下で、市民たる者の家族は守られたことであろう。
その当時、市民の権利の中には、色々なものがあった。取り立てては、それらの公共建築や、これを使用しての娯楽や健康づくり、社交や図書館利用、スポーツなど、数え上げたらきりがない程の恩恵が得られることになっていたらしい。大理石の玄関や列柱、ローマン・コンクリートで固められ、所々に色彩豊かなモザイクタイルが施してある床面は、まるで別世界であるかのよう。
ここに立ち入る者の身分を問うかのような、特段のことはない。皆が、刺しゅうの入った壁などをくぐり抜けたところに、大広間があり、そこからは様々な湯房に分かれていたのではないか。これを利用できるのは、市民の特権であった。一説には、一部の奴隷も、カネさえ払えば利用できていた。いずれにせよ、ここを訪れた市民たちは、くつろいだ、彼らが、「気持ちがよい」「幸せです」などといえる何時間なりかを過ごしたであろうことは、いうまでもなかろう。
例えば、80年。帝政期のティトゥス帝が命令して、ティトゥス浴場を建設させたことになっている。この浴場がいかなる使われ方をしていたものであったかは、ローマ人自身がこう紹介している。
「公共浴場には、垢すり、マッサージ、詩の朗読会、散歩に最適な心地よい庭園、図書館、食べ物の屋台などほしいものが何でもそろっている。(中略)浴場には筋肉質の女もいる。(中略)それから温浴場へ向かい、騒がしい男の集団にまみれて気持ちよさそうに汗を流す。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、ジェリー・トナー解説、北綾子訳、『ローマ貴族9つの習慣』太田出版、2017)
もう一つの浴場の事例を紹介しよう。こちらには、現地解説が見つからないのだが。その浴場は、イタリアの首都ローマにある。古代ローマ時代の大浴場の遺跡として現代に伝わるのだが、1980、1990の両年に、ローマ歴史地区、教皇領とサンパオロフォーリ・レ・ムーラ大聖堂」の名称で世界遺産に登録されている。
こちらの浴場のいわれだが、帝政時代の中期(212~216)、ローマ皇帝のカラカラが造営を命じる。そして完成した公衆浴場は、当初は「アントニヌス浴場」、後に「カラカラ浴場」と呼ばれ、市民の間で人気を博す。というのも、アッピア旧街道は、当初、ローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門、つまりこのカラカラ浴場付近を起点としていた。その先は、モンドラゴーネ(シヌエッサ)、カープアまでをつなぐ。それが紀元前19年、ベネウェントゥム(現在のベネヴェント)やウェヌシア(現在のヴェノーザ)までさらに延長され、さらにタレントゥム(現ターラント)とブルンディシウム(現在のブリンディジ)まで延長される。
この浴場の広さだが、遺構の調査から11万平方メートルもあったことがわかっている。かかる広大な敷地に、一度に約1600人もの市民客を収容できのではないかという。冷水浴室、高温浴室、サウナのほかに、図書室や体育室なども備えていた。ほかにも、ミトラス教の神殿が敷地内に附属していたというから、驚きだ。そんな中でも、特筆されるべきは、この種の施設の運営には奴隷の労働力が寸刻たりとも欠かせななかった。というのは、施設の地下は3階構造となっており、床の下には湯を沸かす炉と大釜がじつにたくさんあり、それらの炉にくべる木材を奴隷たちが運んでいた。その現場の下には、水道が導かれていて水を供給、さらに園下には下水道という具合に、全体が階層構造をなしていたと伝わる。これらを推し量るに、かかる地下・地階での労働は日光が満足にとどかない場所での、苦役に近いものであったであろうことは、想像するに難くない。
こんなすごい例は今時の日本でも、ほとんど類例のあるのを聞かない。入浴料はどの位であったのだろうか、その情報がほしい。もし安価であったのなら、ローマ市民のための十分に機能していたのではないか。現代の美術館に展示されている数多くの作品が、これらの公衆浴場から発掘されていることから見ても、れっきとした総合娯楽施設であったのではないか。
そういうことなら、ローマの市民たちが、これらの傑作で飾られていた浴場を、「われら貧乏人のための宮殿」と呼び、日々の生活を潤していたというのも、頷ける。奴隷を含め庶民が集うのであったが、市民の中には単独で来るよりも、家内奴隷の数人を従えてやって来て、施設内で「アカスリ」やら「ひげそり」、「ひげぬき」などを彼らにやらせていたといわれる。このようにローマ市民にとってなくてはならない施設であったのだろうが、6世紀に入っての「ゲルマン民族の大移動」で肝心の水を引き入れる水道が破壊されてしまう。他の建築物と同様に、ローマ市内にたくさんあった浴場も、相次いで失われていったようだ。その間に、人びとの入浴習慣も失われていき、やがてローマの滅亡とともに、浴場文化は姿を消していった。今日に残されたタワー状の遺構や水道(上下水道)施設などにより、かつてここに市民の憩いの場、そして社交場としての賑わいの場のあったことがの偲ばれる。
(続く)
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