80『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(備前の海)
ところで、備前の人々の南の目の前には、昔も今も、普段はたおやかなる海が広がっている。ここには、この国の上代の昔から暮らす漁師達の生活の場が広がっていた。最初に、大正期の短編小説の中から。正宗白鳥の小作品「入江のほとり」の舞台は、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市伊里地区穂浪)にある、このあたりは「風光る入江の村」といったところか。「赤穂線に沿う備前町、日生町のあたりでは瀬戸内海は細長い入り江をつくる。というのも、前方には日生諸島が連なるし、邑久の岬が突き出していることから、この景色を眺めている自分は波静かな瀬戸内の懐に入っているのではないかと感じられる。その一節には、さして大きくない船を操る人びとが描かれる。
「西風の凪(な)いだ後の入江は鏡のようで、漁船や肥舟は眠りを促すような艪(ろ)の音を立てた。海向いの村へ通う渡船は、四五人の客を乗せていたが、四角な荷物を背負(せお)うた草鞋脚絆(わらじきゃはん)の商人が駈けてきて飛乗ると、頬被(ほおかぶ)りした船頭は水棹(みさお)で岸を突いて船を辷(すべ)らせた。」(五)
また、このあたりの自然の造形の様を俯瞰すれば、暖かな空気ばかりではなく、寒さに震える暮らしもある。この作品が雑誌「太陽」に発表された1915年(大正4年)頃には、陰と陽の二つの顔がそれとなく移り代わっていたのであろうか。
「瀬戸通いの汽船が島々のかなたにはっきり見えて、春めいた麗(うらら)かな日光の讃岐(さぬき)の山々に煙っていることもあれば、西風が吹荒れて、海には漁船の影もなくって、北国のような暗澹(あんたん)たる色を現わしていることもたまにはあった。そんな風の強い日には、大きな家の中がさながら野原のようで、いくら襖(ふすま)や帯戸を閉めきっても、どこからか風が吹きこんで、寒さを防ぐ術(すべ)もなかった。」(八)
かかる白鳥の三男、正宗得三郎(~1952)は洋画家が本職であるが、随筆『故郷』の中で、生家のあったところの景色に想いを馳せつつ、こう述べる。
「郷里の家の二階の窓は、前に海が展開し後に山が控えている。瀬戸内海入江の一端なのである。入江の海面は五月の快風にも鎮まり返っている。湾口を小島が塞いでいるので、まるで沖が見えない。湖ともいえる位で、漁る舟は点々として数えられる位である。」
このあたりの3つ目の情景描写としては、「岡山県の瀬戸内海の入江で、生まれて育った」といわれる作家の柴田錬三郎(しばたれんさざぶろう)の随筆から、しばし紹介させていただく。
「ー前略ー瀬戸内海の鯛は、水深十メートルから五十メートルの間を、泳いでいる。上り鯛と下り鯛がある。産卵のため大平洋からやって来るのを、上り鯛という。
八十八夜あたりから、上って来るもので、漁師は、鯛漁をはじめる。
しばり網、天保網、五知網の三方法があった。現代は、五知網だけが残っているらしい。ローラー五知、というやつで、ロープを曳いて、船を叩くと、鯛があわてて集結する習性を利用して、引きあげる方法である。但し、これは、雷がとどろいたり、ジェット機などが飛ぶと、駄目らしい。
私が知っているのは、しばり網である。桂(短冊状の物をつけたロープ)で、広い海面を円形にとりまき、これに鯛を追い込んで、せばめて、引きあげる漁獲法である。
上り鯛は、旧暦の六月二十三日頃まで、大平洋から瀬戸内海に入って来る。そして、夏をすごして、再び大平洋へ去って行く。麦刈りの時期が、最もたくさん穫れるが、しかし、もうこの頃は、産卵を終わっているから味が落ちているのである。
おもしろいことに、鯛の群れは、ちゃんと海路をきめていて、決してその路線をはずれるようなことはしない。その海路を、網代という。この網代を、満月の夜あけに、しばり網でやると、豊漁であった。
さて、漁師は、網元と網子の上下関係を、三百年間、保って来た。一人の網元に、七、八十人の網子がついていた。
網元と網子の関係は、ひとしろ(一人前)の漁獲高の歩合(合と称する)で、成り立っている。
「ひとしろ一万円だから、お前は、七合(七千円)でよかろう」
といった契約になるわけである。ー後略ー」(柴田錬三郎「鯛について」)
ちなみに、作家の故郷は岡山県邑久郡鶴山村鶴海(現・備前市鶴海)らしいのだが、彼が1917年に生まれ、東京の大学に入るまでの少年期まで過ごしたであろうか、そこに広がる海は、彼の日常生活の間近にあったらしい。
(続く)
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64の1『岡山の今昔』山陽道(閑谷学校)
ここで趣向のいささか変わったところでは、備前市の閑谷の地に閑谷学校が建っている。1670年(寛文10年)に時の岡山藩主池田光政が開校したもので、現在に伝わる建物群となったのは1701年(元禄14年)のことであった。敷地には、国宝指定の講堂を始め、重要文化財の五棟の建物が森を背景にして鎮座している。わけても講堂は、堂々たる体躯(たいく)で江戸時代の風をたたえるというか、えもいわれぬ風情を感じさせてくれる。当初の目的としは、一般庶民に儒学や実学(生活に関する知識全般)を中心とするものであったらしい。江戸時代の比較的初期、武士のために設けられた学校は全国に数々あれども、庶民教育の殿堂をつくったのは、以後の岡山人にとって郷土の誇りで在り続けている、といえよう。
(続く)
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79『岡山の今昔』山陽道(備前焼)
この地は、備前焼発生の地として全国に知られる。この焼き物は、「釉薬を掛けない焼き締め陶」として名高い。そもそも古代の焼き物といえば、あの怪しげな形と縄を巻き付けたような文様をした縄文土器が思い浮かんでくるではないか。たとえば、北海道南茅部町垣ノ島B遺跡より出土した漆塗り土器の製作年代は、約九千年前にも遡るとも言われる。幾つかの本をめくってみるのだが、備前焼の発祥は、その流れとは異なるらしい。こちらの大方には、古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展したものが最初と推定されている。それならば、初めて窯がで焼かれてから千年の時が経っていることになるではないか。
意外にも、この地域の焼物が有名になるのは、私たちの頭の中にイメージが出来上がっているあの「備前焼」としてというよりは、「瓦」(かわら)であった。1180年(治承4年)に遡る。その頃瓦づくりを行っていた地域としては、備前にとどまらず、そこから岡山にかけての地域に点在していたようである。この年、平清盛の子・平重衡(たいらのしげひら)の軍勢による「南都焼き討ち」によって焼かれた。この事態に、黒谷の源空(法然上人)に後白河法王より東大寺再興の院宣が下る。法然は、老齢を理由に門下の僧の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を推挙して、重源が再建費用を集める大勧進職(だいかんじんしき)に任命される。やがて東大寺の再建を始める。その造営費用に当てるため、備前と周防の2国を「造東大寺領」とした。その国税を再建費用にあてる「造営料国」(ぞうえいりょうごく)の一つとされたのだ。周防から材木を、備前と遠江から瓦を焼いて送った。屋根瓦は、東大寺領であった備前国の万富で9割以上が焼かれ、備前焼の近くや、吉井川河口の福岡を経由して舟で奈良へと運ばれた。残りの数パーセントが渥美の伊良湖で焼かれた。そして、9年後の1193年(建久4年)から東大寺再建が成った。
この時の窯跡が遺跡に指定されていて、その中の代表的なものが万富(まんとみ、現在の岡山市東区瀬戸町万富)の東大寺瓦窯跡(とうだいじがようせき)とされる。この遺跡は、南北方向に延びた丘陵の西側斜面にあった。遺跡そのもののあった場所は現在、高さ2メートルほどの段差をもつ2面の平坦地(へいたんち)になっている。万富地域は、良質の粘土を産するほか、吉井川の水運を利用して資材や出来上がった製品の運搬にも便利であったろう。1979年(昭和54年)と2001年(平成13年)~2002(平成14年)、2005年(平成17年)に磁気探査(じきたんさ)と発掘調査(はっくつちょうさ)が行われた。上の平坦地で14基の瓦窯が見つかっている。
このほかに、工房(こうぼう)や管理棟(かんりとう)の可能性がある竪穴遺構(たてあないこう)、礎石建物跡、暗渠排水施設なども見つかっている(この発掘の報告は、岡山県教育委員会編『泉瓦窯跡・万富東大寺瓦窯跡』『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告三七、1980による。また当時の瓦窯模式図が、高橋慎一朗編『史跡で読む日本の歴史』第6巻「鎌倉の世界」吉川弘文館、2009、87ページに復元されている。)。
私たちが今日知るところの備前焼(びぜんやき)は、古代からの「須恵器(すえき)」での製造技術が、日本で変化を遂げて初めて作り上げられていた。それが、今から約800年の鎌倉期にいたり、開花期を迎える。須恵器(すえき)は、同時代に作られていた土師器(はじき)に比べると、堅ろうで割れにくい。そのため、平安時代末期になると庶民の日用品として人気を集めていく。こうして備前の伊部(いんべ)地方で発展した須恵器は、鎌倉時代中期には備前焼として完成の度合いをつよめていく。
しかも、室町期に入ると、この須恵器が、各地で備前焼、越前焼、信楽焼、瀬戸焼、丹波焼、常滑焼などに発展していくのであった。顧みるに、室町の文化の一つの特徴は、生活様式の侘(わ)びとか寂(さ)びの境地に相通じるものであったろう。備前焼については、その素焼きの美しさ、飾り気のない渋みを楽しみたい、風雅人に好まれ茶の湯の席にて頻繁に使われたのだという。やがて安土桃山時代に入ると、備前焼きの愛好は黄金期を迎えるのだった。さらに江戸期に入ると、備前岡山藩主の池田光政が郷土の特産品として備前焼きを奨励するに至るうち、朝廷や将軍家などへの献上品としても名を成していく。従来の甕や鉢、壺に加え、置物としての唐獅子や七福神、干支の動物へと広がる。高級品ばかりでなく、庶民を対象にした酒徳利や水瓶、擂鉢などにも用途が及んでいくのであった。
備前焼の製造は、これの黎明期、どのようなものであったのだろうか。備前焼は、その昔古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展し、変化を遂げて作り上げられたものといわれているものの、確かな由来は突き止められていない。焼き物というと、まずは土であり、これをどのように調達するかが大事だろう。これを供給するのは、「伊部の田圃の底に眠る、黒っぽい陶土」((株)ナック映像センター・田邊雅章編著『ふるさとの匠と技~中国地方の伝統工芸』第一部、中国電力(株)広報部、1993より)とのことであって、「手間ひまかけて慈しむように仕込み、焼物として使いやすいように充分に練り上げ」(同)る。
こうして土が出来たら、今度はそれを大量に焼かねばならない。製造設備の要となるのは、やはり窯であろう。室町時代の終わり頃から安土桃山時代を経、さらに江戸時代にかけて備前焼が焼かれていた窯(かま)の跡ということでは、伊部(いんべ)南大窯跡(現在の備前市伊部)が有名だ。東側窯跡・中央窯跡・西側窯跡の三基からなり、一番大きな東側窯跡は長さが約54メートル、最大幅が5メートルもあり、窯の中に仕切りのない窯としては国内最大級の窯であった。これまでの市の発掘調査で、東窯跡の中央には40本近くの柱が並んでおり、窯の天井がそれらにより支えられていた。また、窯の側面には焼き物を出し入れする入り口があったこと、江戸時代前半にやや小さな窯につくりかえられていたことなどがわかっている。
備前焼を他の地域の焼物に対し特徴付けるものとして、前述のように釉薬(ゆうやく、「釉」(うわぐすり))を一切使用しないことがあるのだが、摂氏1200度から1300度の高温で焼成する焼締めるとのこと。その素朴な中にも深い味わいというか、古からの趣を感じさせるというか、それらは全体として土の性質や、窯への詰め方や窯の温度の変化、焼成時の灰や炭などによって生み出されるものだろう。人によって描かれる紋様はないらしい。それでいて、備前焼は、一つとして同じ色、同じ模様にはならないといわれる。茶褐色の地肌は、備前焼に使われる粘土の鉄分によるものだという。
2015年2月9日に放映された「日曜美術館」においても、「銀行頭取を務めた陶芸の巨人!川喜田半泥子、▽桃山に学んだ自由奔放な傑作」の中で、その類稀なる伝統ならではの陶器のあれこれが紹介されていた。その放送によると、彼が備前焼の赤紋様を醸し出す技術に習い、作品に新境地を拓いた。それから、備前焼は,釉薬を用いなくても赤とか、橙とか、オレンジなどの色を出せるとのことで、成形後乾燥された作品は登窯に入れてる際、作品を置く棚板や他の作品との接触を避けるため作品に稲藁を巻くと、稲藁との接触部分にこれらの特徴ある赤色模様が現れるのだとか、テレビに写し出されたのは思いを込めた赤味がかった朱色であった。
(続く)
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323『自然と人間の歴史・世界篇』マルクス・エンゲルスの宗教観
さてさて、19世紀も半ば近くになると、宗教の本質についての批判が激しさを増す。その一つには、こうある。
「宗教は人間の本質が自己自身のなかへ反省反映したものである。(中略)感情もまたすでに、自己のなかへ反映反省し神のなかで自分自身の鏡をのぞくことができるような段階へ高まっているのである。神は人間の鏡である。(L.A.フォイエルバッハ著 (『キリスト教の本質』、1841の船山信一訳より)
これと似た論評ながら、重点の沖か方が異なるものとして、社会主義者へと思索を深めつつあったカール・マルクスのものがある。
「ドイツについて言えば、宗教の批判は実質的に終わっている。(中略)宗教とは人間的本質が真の現実性を得ていないがゆえになされている、その空想における現実化なのである。宗教に対する闘争はそれゆえ、間接的には、世界、つまりその精神的香りが宗教となっている倒錯した世界にたいする戦いでもある。
宗教という悲惨は、一面では現実の悲惨の表現でもあり、同時にもう一面においては、現実の悲惨に対する抗議でもあるのだ。宗教とは、追いつめられた生き物の溜め息であり、心なき世界における心情、精神なき状態の精神なのである。宗教こそは民衆の阿片である。
民衆に幻想の幸福を与える宗教を止揚ということは、彼らに現実の幸福を与えるよう要求するということだ。自己自身の状況についての幻想を民衆が放棄すべきであるとする要求は、幻想を必要とするような状況は放棄せよという要求なのである。宗教批判はそれゆえ、涙の谷(注:苦しみの多いこの世を意味する比喩)への批判の萌芽なのである。涙の谷に聖なる光背をかぶせたものが宗教なのだから。」(カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』、1844の三島憲一訳より)
より簡潔には彼によるメモ書きがあり、それには「哲学者たちは世界を多様に解釈してきただけであった。しかしながら、肝要なのは世界を変えることである。」(『フォイエルバッハに関するテーゼ』第十一提題、1845、神代真砂実訳による)。
これらで明瞭になっているのは、宗教そのものを、それはいけないといっている訳ではなく、その批判に甘んじていては何も始まらない、というのであろうか。
その後、資本主義の運動法則の解明に進んだマルクスの経済学の構築の中では、さらに次のような書きぶりに変化している。
「現実世界の宗教的反映は,一般に実践的な日常勤労生活の諸関係が人間にとって相互間および自然とのあいだの透明な合理的な関係をあらわすようになったときに、はじめて消滅しうるのである。社会的な生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたときに、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである。しかしそのためには、社会の物質的基礎が、もしくは一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた、ひとつの長い苦悩に満ちた発展史の自然発生的な産物なのである。」(大月版『マルクス・オンゲルス全集』第23巻)
(続く)
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