♦️90の3『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンとオーストリアの3月革命

2018-01-25 20:54:22 | Weblog
90の3『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンとオーストリアの3月革命

 フランスの二月革命の報道が伝わると、ドイツとオーストリアでも統一運動や自由主義運動が広がる。まさに、人の目があり、それらが重なり合うことによって、世の中や政治への大衆的な意思が形成されていく。具体的には、1948年3月13日、オーストリアのウィーンで市民や学生が暴動を起す。反動体制の宰相メッテルニヒはその収拾に失敗して、イギリスに亡命する。続いてハンガリーやボヘミアなどでも暴動が起り、3月18日にはベルリンにも飛び火して市民と軍隊が衝突が起こる。
 まずドイツでは、この18日にベルリンで民衆が要求を掲げて街頭に出る。当時のドイツは、統一国家ではなく、多くの中小国に分裂していた。そのことに、国民の多くはいらだちを覚えていた。十分な準備があったとは言い難いが、それまで政治体制の転換を求める市民の革命は、プロシア王フリードリヒ・ウィルヘルム4世の言論,結社の自由などを認める勅令を引き出し、自由主義的な カンプハウゼン内閣が成立させ、ひとまず勝利を収める。5月22日には、ベルリンに国民会議が招集される。そこでは、自由主義的な憲法の作成に着手するのを決める。同様の革命がバーデン、バイエルン、ヴュルテンベルク、ザクセンなどでも起こり、それぞれ自由主義を標榜する内閣が成立する。
 5月18日には、フランクフルト・アム・マインで、各国の代表が参加したドイツ最初の国民議会が開かれる。そこでは、悲願であるドイツの統一を教義することに決める。ところが、この議会の主な構成メンバーであった知識階級は、決定と行動は後回しで、議論に明け暮れる。プロシアを中心に統一しようとする小ドイツ主義派が台頭し、これに、オーストリアを盟主にしようとする大ドイツ主義派とが対立する。また、共和制をとるか、君主国とするかの対立もあったという。
 このように、革命というには、多くが欠けていたことが、その後のあっけない展開につながっていく。革命勢力が有効な手立てを講じないままに、時間が空費される。ドイツ内部では、特に労働者階級の台頭を恐れるブルジョアジーは、支配勢力に接近する。一方、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義派が優勢になる。彼らは、自由主義的な帝国憲法を採択し、プロシア王を世襲のドイツ皇帝に選出する。しかし王はこれに満足せず、帝冠を拒絶し、南ドイツの各王侯政府もこの種の憲法を制定するのに否定的的となる。
 そして迎えた1848年11月にはベルリンで、軍隊による反革命が起こる。1849年5月、ドイツ各地に自由主義的憲法承認を要求する暴動が起ったが,1ヵ月足らずのうちに鎮圧される。オーストリアでも、革命勢力が相互に連絡し、妥協点を見出そうとすることなく、反目し合っていた。その間に保守反動勢力は態勢を立直していく。10月ウィーンで、軍隊による反革命が成功する。ハンガリーやボヘミアの革命運動が、政府軍に各個撃破された。
 概して、これらに参加した人びとは、ブルジョア的な自由主義から勤労者的な自由主義まで、広範な領域に散らばっている感があった。つらいことが沢山ある日常をなんとかできるのではないかと、政治的自由の獲得への希望の灯火がともったとの判断の下に、街頭や意思表明の場に出ていったのだが、自分たちの希望を実現するには、まずは違った階層に俗する者同士が戦術的に統一した意思を形成して目の前の一歩を踏み出し、その次もまた歩みを止めないのが肝要なのだ
 敵と妥協しないためには、見方と大胆で必要な妥協をすることが必要であり、そのためには揺るぎない原則というものを持たねばならない。その際には、複雑に絡み合う利害、勢力関係などをその都度見極めながらも、順序だって進んでいくことでなければならなかった。これらの地方での革命の早々での失敗は、それらが完遂できなかった点で時期尚早であったという見方もできるのかもしれない。

(続く)

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