♦️102『自然と人間の歴史・世界篇』インド(マウリア朝など)

2018-01-19 19:37:09 | Weblog

102『自然と人間の歴史・世界篇』インド(マウリア朝など)

 紀元前321年のインドにおいては、チャンドラグプタがナンダ朝を滅ぼしてマウリア(マウリヤ)朝を建てる。王となった彼は、一説には、ウァイシャ制(カースト制)でいうところの「スードラ」出身の女性を母としていた。この国は、さしあたりガンジス川とインダス川流域を中心に支配する。つまり、肥沃な中原としての平野地帯に出張った訳だ。
 紀元前312年、彼は、インド侵入の動きを見せていたセレウコスのシリア軍を攻撃し、敗退させる。それでは満足せず、ベルチスタン地方を併合する。都をパータリプトラに定める。そして、東はベンガル湾、西はアフガニスタンの一部にも勢力を及ぼす、大国となる。
 その統治の仕組みについては、ペルシアのサトラップ制を参考に官僚制度を敷く。各部署に密偵を置いたほか、行政監察を巡回させ行政の監督に当たらせる。時の宰相カウテリアがチャンドラグプタ王に示したという『実利論』が、現在の形になったのは、紀元2~3世紀と言われるが、それには政治や軍事の全般に関する方策が記される。とはいえ、これらをもって強権政治一点ばりというのは似つかわしくなかったようで、より詳細には、伊藤清司氏による説明にこうある。
 「地方行政組織は要衝の地に王子またはこれに代わるべき重要人物を太守として派遣し、その下の行政官の任命権は太守にまかせるという封建的性格のつよいものであった。これに対し大都市と各郡には地方長官を任命し、その下に管財官・収税司法官・その他の行政官などの官僚を分属させたが、地方行政は一般的に分権的性格がつよく、貨幣も地方ごとに異なり、共通語もなく、氏族制社会の残存が根強くあり、サトラップ制を採用したとはいえ、強力な中央集権体制は確立されていなかった。」(伊藤清司「インドの古代帝国」:伊藤清司・尾崎康『東洋史概説Ⅰ』慶応義塾大学通信教育教材、1988)
 3代目アショーカ王(在位は紀元前約268~同232頃)の時、このマウリア朝は、インドの東南海岸のカリンガ王国を征服する。これで最南端部を除く全インド世界の統一を果たすのだが、この時激しい戦いであったらしく、相手に対し大量虐殺を行ったのを悔いる。この王のそれからの心に去来していたものは何であったのか。そのことを物語るのが、石柱をはじめとする遺跡であって、中でも、中国の唐代の僧、玄奘三蔵がインドで学んでの帰国の後に著した『大唐西域記』の記述を元に、1896年、インド考古局のフューラーらがルンビニで発掘調査を行い、発見した石柱には、5行に渡って文字が刻まれ、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」とまずある。そして、「この土地の租税を軽減する」ことを謳う。 
 
(続く)

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