37の2『自然と人間の歴史・日本篇』縄文・弥生時代の人口
日本列島における人口の推移はどんなであろうか。歴史人口学者鬼頭宏氏からの一説を紹介しておこう。同氏は、縄文時代早期20.1(千人)、縄文時代前期105.5(千人)、縄文中期261.3(千人)、縄文後期160.3(千人)、弥生時代594.9(千人)、725年(奈良時代)4512.2(千人)、800年(平安時代)5,506.2(千人)、1150年(平安時代)6,836.9(千人)、1600年(慶長年間)12,273.0(千人)、1721年(享保)31,278.5(千人)、1786年(天明年間)30,103.8(千人)、1792年(寛政年間)29,869.7(千人)、1846年(弘化年間)32,297.2(千人)だったと推測結果をひ発表している(鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」講談社、2000による)。
このうち、縄文中期の61.3(千人)から、縄文後期の160.3(千人)への人口の大幅減少とは、かなりショッキングな出来事であった。この原因については、様々な説がある、その一説にはこうある。
「紀元前2300年のころ、日本には26万人が住んでいたと言われています。原始時代としては高度な狩猟採集経済を営み、限りある空間を最大限に利用していたと考えられています。」(「日本が乗り越えてきた4つの人口の波」(ナショナルゲオグラフィックのHPより2018.1.8引用して紹介)
「この時代は、ほかに火山の噴火などの自然災害が、一瞬、大きく人口を減らしたこともあった。ただしこれは、地域的なものであって、列島全体の人口減少という波には結びつかなかった。」(同)
「当時の技術水準から見ると、すべての技術をフルに動員して増やせるところまで増やしたギリギリの人口だったんです。そんなときに、気候変動がやってきた。これが急激な減少の大きな原因となった。」(同)
この説の他にも、縄文人の食料調達が木の実などの植物質に偏り、多様性を失ったからではないかという仮説(羽生淳子・総合地球環境学研究所教授(米国カリフォルニア大学教授と聞く)も立てられているようであり、ならば当時の人びとが肉を摂取していたかどうかが分水嶺になっていったのであろうか。
もちろん、このような人口推計がどのようにして導かれるのかについては、それなりの証拠なり、よって立つ、もっともな推論がなければなるまいが。あるいは、一つだけの原因を特定しようということでは、全体像は見えて来ない性質の命題なのかもしれないと思われるのだが。
(続く)
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563『自然と人間の歴史・世界篇』シリア
現在のシリアの地は、中東のオアシス地として、紀元前の頃から交通の要衝として栄えていたらしい。まずは、現在のシリア(シリア・アラブ共和国)の首都であるダマスカス(ダマスクス)について、述べよう。こちらは、「世界一古くから人が住み続けている都市」とも言われており、カシオン山の山麓、バラダ川沿いに市街が広がる。城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街とのコントラストが美しいとのこと。紀元前732年に台頭してきたアッシリア帝国に、この地は占領される。住人のアラム人たちは膝を屈し、背を低めるようにして生きざるを得なかったであろう。
紀元前729年には、アッシリアの軍はバビロンの攻略に成功する。勝者たるアッシリアの王は、バビロニア王を兼ねることで、メソポタミアを統一する。さらに、かれらは、紀元前722年にはイスラエル王国を滅ぼす。ユダ王国も、アッシリア帝国に朝貢する属国となり替わっていく。その巨大な帝国も、紀元前612年には、新バビロニアとメディアの連合軍によって首都ニネヴェを占領されたことにより滅亡する。
以来、ダマスカスは、新バビロニア、ペルシア、ローマ帝国による支配下にあって、ここに住む人びとは息をつないでいく。ローマ帝国時代の1世紀には、現在の旧市街を囲む城壁が造られる。そして迎えた7世紀、この都市はイスラム教勢力のウマイヤ王朝の首都となり、繁栄への道を歩み始める。それからも紆余曲折の時が経過してゆくのだが、オスマン・トルコによる長い支配をくぐり抜けていくのであった。
ダマスクスの他にも、シリアには特筆すべき場所がある。パルミラ遺跡は、シリア中部の裁く地帯(ホムス県タドモル)にある、古代都市の遺跡。シルクロードの東西貿易で栄える。最盛期は2~3世紀。ローマ帝国時代の遺跡などが数多く残される。ベル神殿や列柱、円形劇場の跡が残る。1980年に世界遺産に登録された。2011年以降のシリア内戦やISの侵攻で立ち入りが困難となる。ISは、多神教の時代の遺跡を破壊するのに急だ。また、唯一神であるアッラーに何ものにも超越する権威を認め、偶像崇拝を認めない。イスラムの教義を極端に解釈する傾向があるので、異文化に情け容赦がない。2013年に崩壊が危惧される「危機遺産」リストに登録された。
さらに時が経過しての1940年、フランスがドイツの攻撃に耐えかねて降伏すると、シリアの委任統治権は、ヴィシー政府(1940年ドイツに降伏したフランスで、中部フランスの町ヴィシーに本拠をおき、1944年のナチス敗北により消滅)に移る。そのヴィシー政府に対し、イギリスと自由フランス軍とが攻撃を加える構図となっていく。
1941年6月、自由フランスのカトルー将軍はこの地に進出し、委任統治の終了を宣言するにいたる。同年7月、両者の間に休戦が成立したことにより、シリアの独立が約束される雰囲気になっていく。1943年、シリア人に政治の実権を渡すまいとする自由フランス軍に対し、イギリス軍とシリア人が圧力をかけ続けた結果、フランス側が譲歩する形で、選挙が行われる。その結果を受けて、クッワトリー政権が成立する。これに伴いアメリカの圧力も加わった形で、同年11月、自由フランスとしても、軍隊の駐留権を除いて、シリアの独立を認めるほかないことになっていく。
1945年3月、シリアの独立が連合国側により認められる。それにもかかわらず、フランス軍がダマスカスを爆撃したのは、一体何を目指してのことだったのであろうか。フランス側がようやくシリアから軍を引いたのは、同年4月の国連安全保障理事会の決議が成ってからであった。1938年に事実上の独立への道から8年余りの曲折の後の1946年、シリアはようやく実質的な独立の時を迎える。独立後の首都となった古からのダマスカスが、国連による世界遺産に登録されたのは、1979年の事であった。
(続く)
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