♦️85『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(コロッセオと剣闘士奴隷)

2018-01-15 20:53:13 | Weblog

85『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(コロッセオと剣闘士奴隷)

 遠く紀元前後まで顧みれば、古代ローマは、奴隷制の社会であった。そこには、ラティフンディアと呼ばれる農園で働く奴隷、市民の私宅で働く奴隷、商業経営などの現場で働く奴隷など、あまたの現場があった。このローマ時代の奴隷というのは、他の類似の時代でのものに比べどのような特徴を持っていたのだろうか。そのことを際立たせる一つが、剣闘士奴隷の存在であった。その彼らは、生きるために、命がけの試合というか、血統というかを行っていた。獣と闘うこともあったやに伝わる。その特徴とするところは、相手がが死ぬまで攻撃をやめなかった、否、やめることは許されなかったきらいがある。ここまで来ると、もはや殺し合いと認識した方がしっくりいく。死は、たしかに日がな一日、彼らの眼前にゆらゆら揺れていたのであろうに。
 このような試合の元々は、紀元前3世紀の終わり頃、死者への弔いの為に、捕虜を戦わせたのが始まりと言われるものの、これを証拠立てる決め手はみつかっていない。このような興業のその後の成り行きだが、2世紀末のローマ皇帝コモドゥス(コンモドス、在位は180~192)の頃には、ローマ帝国内市民の最大の娯楽ショー(見せ物、興業)として楽しまれるようになっていた。観客は、入場料が要る場合でも少しのカネさえ払えば誰でもよかったらしく、人びとは進んでこの熱狂、興奮の渦に入って楽しんだらしい。
 彼ら剣闘士の主戦場は、他国との戦争ではないのであるから、市民の集えるところなら、便利がよく、大勢を集客できる場所の方がよいと、皇帝の側で考えられたであろう。主に帝国内の各地につくられた数々の闘技場であって、それらの総本山がローマ市内にあった円形闘技場(コロッセオ、コロッセウム)にほかならない。
 この施設は、皇帝ネロ(在位は54~68)の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設されることとなる。この人工池の建設時には、地表を10メートル近く掘り下げ、そこに現れた岩盤を地下構造の土台としたという。出来上がったコロッセオには8万人を収容できたというから、現在のオリンピック・スタジアムの規模と何ら変わらない。
 そこで興業の期間中繰り広げられていた試合の有様だが、はっきりした当時の描写の記述が残っている訳ではなさそうだ。ある有力説によると、戦いは勝ち負けよりも内容が問題であり、致命傷にならない時点で、倒れた者の処置には、観客の意見が求められる。行司のや審判がいたのかどうなのか、負けた剣闘士を助けるかどうか、観客に意見を求めた結果によって、そこで許してもらえるかどうかが決まったのだとも。負けても、死力を尽くした自分の戦いぶりを見てもらい、明けた者が助けてもらえるかどうか、運命の賽(さいころ)がふられていたのかもしれない。これらが事実であったとしても、試合の残酷さが薄まる訳ではなく、要するに、途中で「まいった」というだけで許される訳ではなく、そうなるのは奴隷の身分のためであったに違いあるまいに。
 こうして、剣闘士奴隷は日頃の鍛錬から試合まで、繰り返し修羅場に身をおいているうちに、どんな強者でも30代中頃までには死んでいったのではないか、とも推測されている。自分からこの種の奴隷になった者もいたのだろうか。また、これに成らざるを得なかった者において、なんとかその悲惨な境遇から抜け出していくことのできたのは、一握りの男たちであったのであろうか。そして彼らの多くは、身震いするほどの寂寥感の中で日々を過ごしていたのだろうか、想像するに余りある。
 さてもさても、人びとの熱狂に支えられていた剣闘士奴隷のショーであったが、404年に闘技場で試合を止めるよう呼びかけた修道士テレマクスが観衆の投石を受けて死亡する事件が起きると、西ローマ皇帝ホノリウス(在位は395~423)は闘技場を閉鎖させる。民衆達も、そろそろ残酷さに辟易してきた頃ではなかったのか。さらに時代が下っての523年、にイタリアを支配する東ゴート王テオドリックが闘技会を禁止する布告を出し、わずかに残っていた興業も、681年に公式に禁止され闘技会は消滅したと言われる。

(続く)

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