♦️82『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(建築)

2018-01-14 21:36:16 | Weblog

82『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(建築)

 そういえば、古代ローマ時代には、実に様々な耐久性のある、強靱な構造をもつ建築物が出現している。道路や高架橋、トンネル、ダムなどのインフラをはじめ、ビル建設などという、現代社会での用法程で広くはないにしても、堅固な構築物の数々あることは、まさに、「偉大なるローマ」の象徴であったろう。
 特に、政治や宗教に関係する「フォロ・ロマーノ」やパンテオン(神殿)を始めとして、大きなものではコロツセオと呼ばれる円形闘技場や、コンスタンティヌス凱旋門なども、「よくもまあ、これだけのものを、これほどにつくった」と驚嘆せざるを得ない程だ。それらが約2000年という時を経て、いまに残されるに至っていること自体、一見当たり前のことのようであって、実はそうばかりとはいえない。
 というのは、これらを成し、また、これらが歴史の有為転変を生きながらえるには、不可欠なものがあった。これらの建築物の形式と強度を保証してきた、その代表格こそが、今日私たちがそう呼んでいる「ローマン・コンクリート」なのである。
このコンクリートだが、主には基礎工事に用いられていた。例えば、ナポリ近郊のソンマ・ヴェスヴィアーナ遺跡では、地中に1500年以上埋もれていたらしいコンクリートの塊が発見されている。これまでの研究により、火山灰(ポゾラン)に石灰や消石灰を混ぜたセメントを使っていることが確認されたという。また、内部には骨材として大きめの石を入れ、表層部は細かく粉砕したレンガなどを混ぜて緻密な防水層をつくるなど、その構造にも工夫がみられるとのこと。
 コンクリートをつくるからには、どこからか原料の石灰や消石灰を運んで来なければならないものの、都ローマには凝灰岩が豊富にあることから、これを基本に用いて、あれこれの調合で試しているうちに、ついに製法が確立していったのだと推測される。
 

(続く)

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♦️29の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)

2018-01-14 21:26:07 | Weblog
29の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)

 さて、古代ローマといえば、一日にならずして、長い統治の間に、「偉大なる歴史像」というか、輪郭が徐々につくられていく。それまでの世界にない文明、文化をつくっていった。みなさん、世界地図を広げてみよう。まるで足長靴のような狭い半島から始まって、周辺に力をじわじわと伸ばしていく。地中海世界をほぼ支配したばかりでなく、文化の点でも、今日のヨーロッパ、北アフリカ、中東へと大いなる影響を与えた。ここでは、それまでの文明の歴史になかったローマ独特のものから、幾つか紹介したい。
まずは、浴場の利用である。ここで紹介したいのは、個人の家の内に設けられた私的な風呂で湯につかることではない。この風習というか、文化が社会に定着したのは共和制の時代というより、帝政時代に入ってからだ。歴代皇帝の命で領土や属国のいたるところに巨大な公共建築が建設されていった。
 その都ローマの最盛期においては、数百もの公衆浴場があったという、公衆浴場をつくって市民に安価で提供するのは、政府や皇帝の役目と見なされた時代。巨大建築のコロッセウムで剣闘士の試合やなんかを見せることがある。だが、それよりも、市民生活を送る上での力になったのではないか。もっとも、日本のヤマザキマリ氏のマンガ作品『テルマエ・ロマエ』(ラテン語で「ローマの浴場」の意味)を読んでも感じるのだが、女性がカネさえ払えば自由に入れた浴場という記事には、出会っていない。
そんな頃、ひとたびローマ市民になると、特段のことがなければその社会的地位を保持することが可能であった。家父長制の下で、市民たる者の家族は守られたことであろう。市民の権利の中には、色々なものがあった。取り立てては、それらの公共建築や、これを使用しての娯楽や健康づくり、社交や図書館利用、スポーツなど、数え上げたらきりがない程の恩恵が得られることになっていたらしい。大理石の玄関や列柱、ローマン・コンクリートで固められ、所々に色彩豊かなモザイクタイルが施してある床面は、まるで別世界であるかのよう。
 ここに立ち入る者の身分を問うかのような、特段のことはない。皆が、刺しゅうの入った壁などをくぐり抜けたところに、大広間があり、そこからは様々な湯房に分かれていたのではないか。これを利用できるのは、市民の特権であった。一説には、一部の奴隷も、カネさえ払えば利用できていた。いずれにせよ、ここを訪れた市民たちは、くつろいだ、彼らが、「気持ちがよい」「幸せです」などといえる何時間なりかを過ごしたであろうことは、いうまでもなかろう。
 例えば、世界遺産となっている、イタリアの首都ローマにある、古代ローマ時代の大浴場の遺跡についてだが、ローマ歴史地区、教皇領とサンパオロフォーリ・レ・ムーラ大聖堂」の名称で世界遺産に登録されている。
 この浴場のいわれだが、帝政時代の中期(212~216)、ローマ皇帝のカラカラが造営を命じる。そして完成した公衆浴場は、当初は「アントニヌス浴場」、後に「カラカラ浴場」と呼ばれ、市民の間で人気を博す。というのも、アッピア旧街道は、当初、ローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門、つまりこのカラカラ浴場付近を起点としていた。その先は、モンドラゴーネ(シヌエッサ)、カープアまでをつなぐ。それが紀元前19年、ベネウェントゥム(現在のベネヴェント)やウェヌシア(現在のヴェノーザ)までさらに延長され、さらにタレントゥム(現ターラント)とブルンディシウム(現在のブリンディジ)まで延長される。
 この浴場の広さだが、遺構の調査から11万平方メートルもあったことがわかっている。かかる広大な敷地に、一度に約1600人もの市民客を収容できのではないかという。冷水浴室、高温浴室、サウナのほかに、図書室や体育室なども備えていた。ほかにも、ミトラス教の神殿が敷地内に附属していたというから、驚きだ。そんな中でも、特筆されるべきは、この種の施設の運営には奴隷の労働力が寸刻たりとも欠かせななかった。というのは、施設の地下は3階構造となっており、床の下には湯を沸かす炉と大釜がじつにたくさんあり、それらの炉にくべる木材を奴隷たちが運んでいた。その現場の下には、水道が導かれていて水を供給、さらに園下には下水道という具合に、全体が階層構造をなしていたと伝わる。これらを推し量るに、かかる地下・地階での労働は日光が満足にとどかない場所での、苦役に近いものであったであろうことは、想像するに難くない。
 こんなすごい例は今時の日本でも、ほとんど類例のあるのを聞かない。入浴料はどの位であったのだろうか、その情報がほしい。もし安価であったのなら、ローマ市民のための十分に機能していたのではないか。現代の美術館に展示されている数多くの作品が、これらの公衆浴場から発掘されていることから見ても、れっきとした総合娯楽施設であったのではないか。
 そういうことなら、ローマの市民たちが、これらの傑作で飾られていた浴場を、「われら貧乏人のための宮殿」と呼び、日々の生活を潤していたというのも、頷ける。奴隷を含め庶民が集うのであったが、市民の中には単独で来るよりも、家内奴隷の数人を従えてやって来て、施設内で「アカスリ」やら「ひげそり」、「ひげぬき」などを彼らにやらせていたといわれる。このようにローマ市民にとってなくてはならない施設であったのだろうが、6世紀に入っての「ゲルマン民族の大移動」で肝心の水を引き入れる水道が破壊されてしまう。他の建築物と同様に、ローマ市内にたくさんあった浴場も、相次いで失われていったようだ。その間に、人びとの入浴習慣も失われていき、やがてローマの滅亡とともに、浴場文化は姿を消していった。今日に残されたタワー状の遺構や水道(上下水道)施設などにより、かつてここに市民の憩いの場、そして社交場としての賑わいの場のあったことがの偲ばれる。

(続く)

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♦️84『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(水道)

2018-01-14 21:14:22 | Weblog

84『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(水道)

 古代ローマ時代に築かれた大建築の中で、より人びとの生活の身近かにあったのが、上下水道の施設である。その水を供給したのが水道橋である。これわつくる技術をローマがどこから入手したかの詳細は不明ながら、一説には、古代メソポタミアで生まれたアーチの技術が、エジプト、エトルリア(イタリア中部の古代国家)を経て、紀元前後にローマがにもたらされたという。
 その名残は、ローマの歴史地区にもある。政治の中心地であったフォロ・ロマーノの近く、北東方面には現在テルミニ駅があり、20分ほどメトロA線に揺られると、そこには広大な遺跡の公園が広がる。この公園には、古代に建てられたクラウディオ水道橋とフェリーチェ水道橋が並走しているとのこと。郊外の水源地からはるばる水道橋で運ばれてきた水は、ローマ市内に入ってからは、人びとの様々な要求に応えることになる。面白い利用のされ方の一つが、公衆トイレであり、そこには人が座っているところの下を流れる下水道ばかりでなく、人が座る前の手の届くところを流れる上水道が通っていた。
 そこでトイレの利用者の振舞だが、まずは下水道の覆いの部分に明けられた穴の上に座る、それぞれの尻の下に流れるのは下水道であって、人びとが用を足した後の汚物は緩やかな傾斜の密閉水路を流れて行く。そして人びとは、目の前に流れる上水道のきれいな水を掌でくみ取って尻を洗い、さらに手を洗ってトイレの利用をしめくくる。それまでの間は、隣の座る人と話もできる程に便利に出来ている。
 水道橋に話を戻すと、当時ローマの属国であった所々に巨大な水道橋が設けられていた。そんな中で現代に一部が残っているものに、ポン・デュ・ガール(フランス)、ミラグロス水道橋(スペイン)、セゴビア水道橋(スペイン)などがある。これらのうちポン・デュ・ガールは、フランス南部・ガール県、南仏プロヴァンスの古都アヴィニョンから約25キロメートルの、現在のニームにある。ガール川にかかる全長275メートル、高さ49メートルの白亜紀の石灰岩でつくられた大橋で、3層のアーケードは上に行くほど幅が狭くなっている。紀元前19年頃、アウグストゥス帝の腹心アグリッパの命令により、ローマ人によってつくられ、6世紀頃まで実際に使用されていた。これを当時わずか5年で建築したというから、驚きだ。
 ユゼスからニームへ水を運ぶための水路の途中にあり、古代ローマ時代・紀元前19年頃にアウグストゥス帝の腹心アグリッパの命令で架けられる。水源地と供給地の高低差はわずかに17メートル、かつては一日に推定2万立方メートルもの水を、ニームに住むローマ人に供給していたのだという。
 セゴビアのは、スペイン北部、首都マドリードから8キロメートルに位置する。全長728メートル、最も高いところは高さ29メートル、こちらは18世紀まで現役であった。ゼゴビアの北15キロメートルのアセベダ川から水を引き込んで、僅かずつ傾斜で水を運んでいた。全部で128あるアーチ部分は、ガチガチに組まれた石同士で支え合って絶妙なバランスを保っているとのこと。

(続く)

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