187『自然と人間の歴史・世界篇』重商主義の批判
このような鳴り物入りで取り組まれていた重商主義に対しては、主に二つの学問的立場からの批判が出されていく。その一つは、重農主義からのものであり、今ひとつは新興ブルジョアジーの利益の立場から行うものであった。まず前者の中では、このケネーの学説が地主階級の横暴を痛撃する、これを「農業主義」という。そのことは、同じ1776年に『国富論』を著したアダム・スミスにより、こう評される。
「土地で使用される労働が唯一の生産的労働だとする点で、この学説が説き勧める見解は、多分に偏狭で局限されすぎてはいるけれども、しかし、諸国民の富が、貨幣という消費できない富から成るものではなくて、その社会の労働によって年々再生産される、消費財から成るとする点で、また、完全な自由こそ、この年々の再生産を可及的に最大値にするための唯一の効果的な方策だと主張する点で、この理論はどこからみても寛大で自由であるとともに、正統だと思われる。」(アダム・スミス著・大河内一男監訳『国富論Ⅱ』中公文庫、1978)
また、後者の見解の中心となるのは、アダム・スミス(1723~1790)の論説にほかならない。彼は、「経済学の生みの親」とも言われる人物であり、当時のイギリスの現状から農業よりは工業に富の源泉を認め、こう述べる。
「どの社会でも、年々の収入は、その社会の勤労活動の年々の全生産物の交換価値と等しい。経済を自然の流れに任せれば、各個人は、かれの資本を自国内の身近な産業の維持に用い、かつその生産物が最大の価値を持つ方向にもっていこうと努力するだろう。そうすると、結果的に、誰もが必然的に社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨折ることになるのである。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。かれらが、生産物が最大の価値を持つように産業を運営するのは、自分自身の利得のためである。だが、こうすることによって、かれは(神の)見えざる手(invisible hand)にみちびかれて、自分では意図してもいなかった一目的(国の富の増大)に寄与することになる。」(第4編第2章)
「ところが、国内産業の保護を目的とした政策で、ある商品を、国内産業が維持できるように輸入品に関税などをかけて高価格に保ったりすると、消費者は高い商品を購入することになり、より安い品を買うときよりも暮らし向きは貧しくなる。また、投資家は実際には効率が悪いにもかかわらず、見かけは利益があがる産業に資本を投資したり、他産業に投資したときに高い資材を買うことになるので、結果的に生産される富の量が減少する。」(第4編第2章)
こうしてみると、17世紀から18世紀にかけての重商主義の帰結としては、当時の主要産業であった農業・農村の疲弊をもたらしたことがある。前述の1776年出版の『国富論』において、アダム・スミスは、「重商主義のさまざまな統制は、資本のこのもっとも自然で有利な配分を、どうしても大なり小なり攪乱(かくらん)することになる」(アダム・スミス著・大河内一男監訳、中公文庫、1978)とし、来るべき資本主義の時代を予感させている。
その意味では、重商主義は、後の歴史家により「前期資本主義」もしくは「前資本主義段階」とも言われる。なお、これに関連して「資本主義の重商主義段階」が言われることがある。しかし、そうなると産業革命による生産資本の確立以前に資本主義が一人歩きしたかのような印象を与えることにもなり、やや無理が感じられる。
いまひとつは、金銀の獲得手段でもあった重商主義戦争の継続が、長い目で見れば国力を高めるどころかその逆であったこと、こうした戦争の継続により社会の圧倒的な人員を擁する農民に対しては大きな課税や賦役がかけられることで彼らの生活が窮乏化してゆき、これに王朝の浪費、軍備増強なども重なり、国家財政は大いに傾いていく。
(続く)
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186『自然と人間の歴史・世界篇』重商主義の展開
ところで、重商主義というのは、貿易差額の増大で国の富を築き、増やす政策の総称で、17世紀に入ってからの西ヨーロッパの、フランスとイギリスおいて典型的に見られた。中でも、フランスでは、ルイ14世の時の絶対王制下で国の繁栄をもたらす戦略として、「コルベール主義」もしくは、「コルベルティスム」)の名をかぶる。当時の蔵相のコルベールは、なかなかの辣腕をふるう。貿易差額を増大させるために高級織物、陶器などの奢侈品を中心に輸出産業に仕立てる。そして、これを「王立マニュファクチュール」の保護育成のレールに載せる。それらの製品の輸出競争力を高めるためには、製品価格を低めに設定しなければならない。
そのためには低賃金政策をとるべきと心得、低賃金を実現するには農業生産物である穀物の価格を人為的に低く設定したい。一方、国内の産業を外国から保護するためと称し、国家が進んで輸入関税の壁を巡らし、輸入製品の国内製品に比べて割高にするよう仕向けることを正当化するのであった。
それでは、イギリスではどうであったか。それを物語るのが、イギリス東インド会社の役員であったトーマス・マン(1571~1641)による著作である。彼は、この時点でのイギリスの繁栄の道をこう宣言している。
「わが国には、財宝を産出する鉱山がないのだから、貿易によって財宝を獲得する手段しかないことは、思慮ある人なら誰も否定しないであろう。」(「外国貿易によるイングランドの財宝」)
「貿易差額こそイギリスの富を増大させるものだ。そのためには輸入額よりも輸出額
多くしなければならない。輸入品には多くの付加価値をつけて再輸出するのだ。」(同)
「国家間の競争に勝たなければ貿易商人は“王国の富の管理者”であり、他国民と通商を営む者当然その職務には責任と栄誉が伴うすぐれた手腕と誠意をもって私の利益が公の福祉に従うようにしなければならない。」(同)
(続く)
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