45『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(ウマイア朝)
アラブ世界の正統カリフ時代(632~661)に続くのが、イスラム勢力のウマイヤ朝(661~750)である。これに至る前段の630年代には、彼らはチグリス・ユーフラテス河畔一体を支配する。642年になると、ササン朝ペルシアを、イラン高原からカスピ海南方に追いつめ、撃滅する。一方、東ローマ(ビザンツ)帝国に対しても、攻撃を行う。エルサレムからシリア方面、またエジプトのナイル川下流を攻撃して手に入れる。
4代にわたる「正統カリフの時代(632~661)」を過ごして、その領域は、東はインドと接し、西はアフリカ北岸をカルタゴにまで到達するという、驚くべき勢いであった。
その数年前の656年から661年にかけて第一次の内乱をくぐり抜けるのだが、この間アリーなる人物がイスラーム教団の正統カリフ時代第4代のカリフの座にあった。ムハンマドと同じくメッカのハーシム家の出で、ムハンマドの娘ファーティマの夫となっており、内乱の初年にカリフ・ウスマーンが暗殺された後、ムハンマドに最も近いということでカリフに選出される。
そもそも、この王朝の初期のカリフたちは、まだ専制君主というにはふさわしくなく、族長の寄り合わせ、その共同体の代表者としての色あいも兼ね備えていた。最初の礼拝の方向であったのは、エルサレムであり、ムハンマドの教えを忠実に継承していくのを心得ていた。曰く、「前ムスリムは兄弟であり、互いに争ってはならぬ」と。アラブはこの頃から、この地域で覇を唱えるには、ムハンマドの創始したイスラム教抜きには考えられなくなっていく。
そんな訳で、正統カリフ時代のカリフは信者の互選で選出されていた。それが、657年には、シリア統治の任に当たってのし上がってきたムアーウィヤが、4代目アリーをカリフから退位させて、エリサレムに陣取って自らカリフを名乗るにいたる。661年には第4代カリフのアリーが、ハワーリジュ派の過激派に殺害されてしまう。
この一連の出来事により、カリフの地位はこの一派に移って、都はマディーナからシリアのダマスクスに移され、ウマイア(ウマイヤ朝)が成立する。この新王朝の下で、カリフの地位は世襲とされ、初代のムアーウィヤ1世以後、ウマイヤ家が代々世襲していく。しだいにカリフの地位を巡って、ウマイヤ家のカリフを認めるスンニ(スンナ)派と、第4代カリフの子孫のみをカリフと見なすシーア派の対立が激しくなっていく。
680~692年にかけて、ウマイア朝に第二次の内乱が起こる。きっかけは、ムアーウィヤが死去しカリフの地位をその子ヤズィードがえ跡を継ぐ。すると、アリーの次子で後継者のフサインが、クーファなどのシーア派の支援をとりつけ、ウマイア朝に反旗を翻す。しかし、カルバラーの戦いの戦いでウマイア朝軍に敗れイラクへ落ち延びる途中で、フサインは従者と共に殺害された。これは「カルバラーの殉教(悲劇)」と呼ぶ。ムハンマドの血統をひくアリーとその子フサインの死によってシーア派は少数派(「シーア・アリー(アリー党)」と名乗る)としてイラクなどに追いやられる。
フサインの死後、ウマイヤ朝のカリフが相次いで若死にしたためにその支配はしばらく不安定な状態が続く。683年からメッカを拠点としたイブン・アッズバイルがカリフを称し、ウマイヤ朝に反旗を翻す。これを正統カリフ時代末期の第一次内乱(656~661)に次いで、第2次内乱(683~692年)ともいう。しかし、ダマスクスのウマイヤ朝で第5代カリフとなったアブド・アルマリクがメッカに討伐軍を派遣し、さしもの内乱も終束に向かう、そして各地のアラブ族長に対し服従を求めることでウマイア朝の力が行き渡っていく。その流れで、専制君主制が確率していくのであった。その時期からのウマイア朝は外征を展開し、大帝国を作り上げていった。その結果、西は中央アジアからイラン、インダス流域に至る領土拡張を実現するにいたる。
その後も、ウマイア朝の領土拡大の意欲は失われなかった。まず北方では中央アジアのソグディアナに進出、さらにイスラームの西方征服を進め、アフリカ北岸のビザンツ勢力を駆逐してチュニジアなどを獲得し、ついにはジブラルタルを越えてイベリア半島に侵入した。また、東はインダス川流域に進出してインドのイスラム化の端緒となる。さらに、彼らは東ローマ帝国(東ヨーロッパ)やフランク王国(西ヨーロッパ)、ローマ教皇などのキリスト教世界にも矛先を向ける。732年にはピレネーを越えてフランク王国内に侵入したが、トゥール・ポワティエ間の戦いではカール・マルテル(後のカール大帝)の率いるフランク軍に敗れた。また東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを覗うが、激戦の中での東ローマ軍の抵抗により、失敗に終わる。
ウマイア朝時代の経済については、なかなかの興隆となっていく。貨幣経済が発展したということは、それを必要とする交換経済が成立していたことを物語る。アター制によって国家機構が整備されていく。その下では、アラブ人のみならず、多くの異民族、異教徒を含むこととなり、アラブ人とそれ以外のイスラーム教徒(イラン人、トルコ人など)との関係が問題となり始める時期でもあった。そのような中でウマイヤ朝では征服活動の先兵となったアラブ人戦士が貴族として支配階級を構成した、これを「アラブ至上主義」の先駆けと見なす向きがある。また、アラビア語を公用語として定められたことで、この時代を「アラブ帝国」の最初と見る向きもある。
このように一世を風靡したウマイヤ朝であったが、8世紀からは非アラブのイスラーム教徒であるマワーリーやシーア派の反発が強まり、それらを背景に台頭したアッバース家によって、ウマイア朝は750年に滅ぼされ、アッバース朝が成立する。
(続く)
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30の5の3『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(古代インドのアーリア人諸国家)
インダス文明の後の紀元前1500年頃から同1200年頃にかけては、アーリア人の
インドへの流入があった。彼らは、イラン人から分岐した、インド・ヨーロッパ語属に属す民族であって、一説には紀元前2000年頃には故郷を出発していたとも。ヒンドゥークシ山脈、カイバル峠を越えて、インダス川中流域のパンジャブ地方に進出してくる。この進出の動機ははっきりしないものの、チュウオウアジアを中心に遊牧生活をしていた彼らが、何かの契機に恵まれ、肥沃なインダス川流域に目をつけたのであろうか。武術に長けるアーリア人たちは、部族毎に、おそらくドラヴィダ人やムンダ語諸族などの先住民を蹴散らし、あるいは支配下に置いていく。
そして彼らがインダス川流域からガンジス川流域へと進出してくるに及んで、父系制社会の進出族と母系制社会の先住民との間では相当数の混血が行われたのではないか。両者の持つ文化についても融合化が進み、ヒンドゥー(ヒンズー)文化が形成されていく。その際の精神の結び目としては、紀元前1000年頃までには、インドの神々にちなんだ歌集「ヴェーダ」(知識の意味)がつくられる。
かかるヴェーダは4つからなり、各々はリグ・ヴェーダ(神々への賛歌集)、サーマ・ヴェーダ(泳法集)、ヤジュル・ヴェーダ(呪法集)、アタルヴァ・ヴェーダ(祭式集)というものであり、後に成立することになるバラモン教の根本聖典へと研磨・研鑽されていく。参考までに、現在のヒンドゥー教というのは、「バラモン教の継続変形」(蔵原惟人(くらはらこれひと)「宗教ーその紀元と役割」新日本新書、1978)だといって、差し支えなかろう。
一方、アーリア人主導の部族国家がインド域内につくられていく過程で、紀元前10世紀から紀元前7世紀にかけて、「ヴァルナ」と呼ばれる身分制度が形成されていく。このヴァルナは、後に、来航したポルトガル人によって「カースト」と呼ばれるか、生まれを意味する「ジャーティ」という語に纏われ、社会の階層化を厳格に定めることになっていく。具体的には、上から順に、バラモンは司祭階層で、宗教儀式を行う。クシャトリヤは武士・貴族階層で政治や軍事に携わる。ヴァイシャ(バイシャ)は農民や商人などの一般庶民階層をいい、大多数がこの身分に属する。シュードラ(スードラ)は最下層の隷属民とも訳されるが、ダーサと呼ばれる奴隷のような売買の対象となる存在ではなく、上層の三つの身分に奉仕する宿命を背負わされた身分を指す。
(続く)
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