300『自然と人間の歴史・世界篇』ダイナマイトの発明とノーベルの遺言
アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(1833~1896)は、スウェーデンの化学者、発明家にして実業家。スウェーデンのストックホルムにて、建築家の父イマニュエルと母アンドリエッテの3男として生まれる。1842年には、ノーベル家はロシアのペテルブルグに移り、彼は1850年まで現地でロシア人とスウェーデン人の家庭教師から個人教育を受ける。次いでドイツやフランス、そしてイタリア、北アメリカといった外地に遊学して化学などを学ぶ。アメリカでは機械工学を修めたのだとという。
その後を決定する程の人生の転機は、クリミア戦争(1853~56、元は、いわゆる東方問題の中で起こったロシアとオスマン帝国との戦いなのだが、フランス(ナポレオン3世)とイギリスが後者を支援し、ロシア対フランス・イギリス連合の戦争ともなる)の時に訪れる。この頃、爆薬の製造に従事していた父親の事業を助けることになったのだ。戦後の1859年、一家がスウェーデンに戻ってからは、爆薬の改良に専念するようになる。それからの彼は、ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させていく。
350もの特許を取得したという。そんな中でも、ダイナマイト(ギリシア語で「力」の意味)が最も有名である。其の時から、ダイナマイトの開発と製造が彼と彼の会社の最大の収入源となった。彼が建設したダイナマイト工場は世界100か所に及び、全ヨーロッパを中心に股をかけ稼ぎに稼いだ。彼の会社は、「人間の欲望には限りがない」というのを、絵に描いたような様であったのだろうか。そのことで、ヨーロッパ有数の巨万の富を築いたことから、驚きだ。
しかしながら、このダイナマイトが売れれば売れる程、彼の心はうれしさとは別の方向、つまり悲しさとある種の憤りにつながっていったらしいのだ。ダイナマイトは、爆発の力で硬いものを壊したり、穴を掘ったりすることに威力を発揮し、人間の生活に大いに役立つものなのだが、戦争にも使われることになり、その比重が増していくにつれ、彼自身、「ダイナマイト王」とも呼ばれることに対し、「おまえは戦争商売人だ」などとといわれているように感じるようになっていったのであろうか。
1887年、実業家として油が乗りきっていたとみられていたことであろう。その彼が54歳のとき、「人の時を想う」と形容すべきか、兄に宛てた手紙が残っていて、自身のことをこう語っているとのこと。
「この惨めで半病人のアルフレッド・ノーベルはこの世に産声をあげたときに、人道的な医師によって窒息させられていればよかった。」
「最大の長所:見ぎれいにしていて、決して他人の足手まといにならないこと。最大の短所:家族がなく、機嫌が悪く、腹の調子が悪いこと。最大の要求:生きたまま埋められないこと。最大の罪:富の神マンモンを崇拝しないこと。人生の有意義な出来事:なし」
(ウルフ・ラーション編、津金ーレイニウス・豊子訳 「ノーベル賞の百年―創造性の素顔」ユニバーサルアカデミープレス、2002などより引用)
そんな彼は、1896年に死ぬ。その遺言には、こうある。
「署名者アルフレッド・バルンハート・ノーベルは、以下が私の死の時点において私によって遺言される財産に関する最後の遺言であることを、熟慮の上、ここに表明する。(中略)
残りの換金可能な私の全財産は、以下の方法で処理されなくてはならない。----私の遺言執行者によって安全な有価証券に投資された資本で持って基金を設立し、その利子は、毎年、その前年に人類のために最大の貢献をした人たちに、賞の形で分配されるものとする。
この利子は、五等分され、以下のように配分される。(中略)一部は、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした人物に、一部は、最も重要な化学上の発見または改良をなした人物に、一部は、生理学または医学の領域で最も重要な発見した人物に、一部は、文学の分野で理想主義的傾向の最も優れた作品を創作した人物に、そして一部は、国家間の有効、軍隊の廃止または、削減、及び平和会議の開催や推進のために最大もしくは最善の仕事をした人物に。
物理学賞及び科学賞はスウェーデン科学アカデミーによって、生理・医学賞はストックホルムのカロリンスカ研究所によって、文学賞はストックホルムのアカデミーによって、そして平和賞は、ノルウェー国会が選出する五人の委員会によって、それぞれ授与されなくてはならない。
賞を与えるに当たっては、候補者の国籍は一切考慮されてはならず、スカンジナビア人であろうとなかろうと、もっともふさわしい人物が受賞しなくてはならないというのが、私の特に明示する希望である。
私の遺言による処分の執行者として、私はここに、ラグナール・ソールマン氏とルドルフ・リエクヴィスト氏を指名する。(中略)
この遺言状は、現在までの唯一有効のものであり、私の死後、万が一私の以前の遺言が存在したとしてもそれらの全てを無効にするものである。
最後に、私の死後、私の静脈が切開され、そして切開が終了し有能な医師が明らかな死の徴候を確認したときに、私の遺体はいわゆる火葬で葬られるというのが、私の特に明示する希望である。
1895年11月27日、於パリ。アルフレッド・バルンハート・ノーベル」(矢野暢著「ノーベル賞」中公新書より一部引用)
こうして彼が遺した基金からの最初のノーベル賞授与は、1901年12月に行なわれた。以後毎年、ノーベルの遺言に従って、物理学、化学、生理学・医学、文学および平和の 5分野(後に経済学が追加される)の分野において「過去1年間に人類に対して最大の貢献をした者」に授与されている。
彼の後半生は精神面で苛酷な道程であったのだろうが、これにより、最後の最後で、幾分なりとも自らの人生を達観できるようになったのではあるまいか。
(続く)
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♦️299『自然と人間の歴史・世界篇』細菌学(パスツールとコッホ)
ルイ・パスツール(パストゥール、1822~1895)は、フランスの生化学者、細菌学者。王立協会外国人会員。ロベルト・コッホとともに、「近代細菌学の開祖」とされる。
フランスのドルの町で、皮なめし職人の3人目の子として生まれる。パリの高等師範学校(エコール・ノルマル)へ進学する過程で、当時最も有名な化学者の一人であったジャン・バティスト・デュマの講義を聴き、感じるところがあったらしい。
その業績は、「生命の自然発生説の否定」あたりから有名になっていく。当時は微生物が空気のない環境でも自然に発生するという「自然発生説」が信じられていた。パスツールは1861年、ガラスの形を工夫したフラスコ(「白鳥の首型フラスコ」という)を用いて実験を行い、自然発生説が誤っていることを証明する。ただし、地球の発展過程の一段階として考えられている生命の自然発生まで否定している訳ではない。
この「生命の自然発生説の否定」を皮切りに、彼は牛乳、ワイン、 ビールの腐敗を防ぐ低温での殺菌法(パスチャライゼーション・低温殺菌法とも)を開発。 またワクチンの予防接種という方法を開発し、狂犬病ワクチン、ニワトリコレラワクチンを発明するなど、広範囲にわたる。.
1864年4月、「ソルボンヌ夜間科学講演会」において行った話を、次の言葉でしめくくっている。
「さて、皆さん、われわれが採り上げなければならない立派な題目がここに一つあると言えます。発酵の原因をなし、また地球の表面で生命をもっていたあらゆるものの腐敗と解体の原因をなす、この小さい生物の中のあるものが、天地万物の総体的調和のうちにおいて演ずる役割に関する問題がこれであります。この役割たるや、量り知れぬほど巨大であり、驚異的であり、まさにわれわれを感動せしめるものがあります。」
生活のほとんどを研究に没頭する中で、家庭的には色々あったらしい。子どものうち2人は腸チフスで死んだという。1868年には、自身が脳出血に倒れ半身不随となる。1870年につ普仏戦争でフランスがプロイセン帝国に破れた時は、科学に対するフランスの怠慢と無関心を批判したというが、愛国心の発露というべきか。
1879年の夏には、パスツールはニワトリ・コレラという家きんの伝染病につき、免疫形成につながる実験を行う。これに着手するには、1796年、ジェンナー(17949~1823)の天然痘への実験があった。この天然痘という病気は、当時人びとを震え上がらせていたという、伝染力の強い、非常に怖い疾患である。ジェンナーは、牛の痘瘡に罹ったことのある人は、その天然痘に罹らないということからヒントを得て、これを行ったのだ。しかし、そのジェンナーの種痘は、経験的にその効果がわかっていたが、何故、そうすることで天然痘に罹らないのかまでは明らかになっていなかったという。
パスツールは、夏休みで栄養補給をできていない培養基を使い、その中のニワトリ・コレラ菌をニワトリに接種する。ところが、ニワトリは病気を起こしていない。これに閃いたのか、先にニワトリ・コレラ菌を接種したニワトリと接種していないニワトリの二種類のニワトリに、本物の新しい培養菌の接種を行う。結果は、先に菌を接種したニワトリは元気で、初めて菌を接種したニワトリが全部死ぬ。
その訳を、パスツールは次のように結論する。この実験によって、わざと弱い病気をつくり、そのことで生物の体内に耐性をつくるのだと。その物質のことを、パスツールはジェンナーに敬意を表して、ジェンナーが牛痘のラテン名、Variolae vaccinaeのvaccinae(牛のという意味)から採用したという意味での、「ワクチン」という名前で呼んだ(ルイ・パスツール著・山口清三郎訳「自然発生説の検討」岩波文庫、1970)
1881年には、弱毒化した炭疽菌を使った大規模実験を行い、ワクチンをつくる。その後、狂犬病のワクチンを発明し、何十頭もの犬で実験を成功させる。「ヒトに使用するとなると手が震えてしまうだろう」と語っていたのが、1885年、ジョゼフ・マイスターという少年が狂犬病の治療を求めて彼のもとを訪ねてきた。そこで、この少年に狂犬病のワクチン接種をおこなつたところ、大いなる効果が認められた。
その彼は、「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」とか、「科学と平和が、無知と戦争に勝利することを、私は確信している」などの言葉を残している。
ロベルト・コッホ(またはハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホ、1843~1910)は、ドイツの医師にして細菌学者。
幾つもの病原菌の発見者として著名。また、純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立する。これらの実験で使われた寒天培地やペトリ皿(シャーレ)は、彼の研究室で発明され、その後今日に至るまで使い続けられているとのこと。
彼は、ドイツのハルツ山地の村クラウスタールに生まれた。父は鉱山技師で、13人兄弟の3番目であった。地方の学校から近くのゲッティンゲン大学に進み、数学と物理学を学んだ後、1862年からは医学へと進む。1868年、医師となり、ハンブルクの病院およびハノーファー近くの小さな村ランゲンハーゲンで一般開業医として経験を積んでいくかたわら、研究にも精出していく。
一つは、ドイツでウシやブタなど家畜(かちく)の間に流行した、炭(たん)そ病の原因である炭(たん)そ菌(きん)を発見する。また、インドで大流行したコレラの原因であるコレラ菌(きん)も発見する。さらにコレラは、激(はげ)しい腹痛(ふくつう)におそわれ、ひどい場合は、感染後、数日でほとんどが死んでしまうこわい病気であった。彼は、この病気の元がコレラ菌であることを突き止めた。
その昔、伝染病(でんせんびょう)は神の罰(ばつ)だと考えられていたこともなしとしない。コッホが病原菌説を明らかにする以前は、伝染病(でんせんびょう)の原因はわからないままであった。これを突き止める先駆けを成したことにより、彼はパスツールと並び「細菌学(さいきんがく)の父(開祖)」と呼ばれる。
(続く)
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