♦️597『自然と人間の歴史・世界篇』1960年代アメリカ(戦後の労働運動)

2018-03-12 22:13:58 | Weblog

597『自然と人間の歴史・世界篇』1960年代アメリカ(戦後の労働運動)

 第二次大戦後の1945年10月に全世界にわたる労働組合の国際組織=世界労働組合連盟(WFTU、世界労連)が発足しました。56ヵ国、6千700万を擁していました。しかし、世界労連は結成後わずか4年で分裂、「反共産主義」を掲げる国際自由労連(ICFTU)が生まれました。そのときの中心勢力となったのがアメリカのAFL、CIOでした。
 分裂のきっかけは戦後の経済再建を巡ってのものでした。1947年、戦争で打撃を受け経済が疲弊した西欧諸国に対し、アメリカによる経済復興・再建計画=マーシャル援助計画が発表されると、CIOはその実施を巡って世界労連と対立します。そしてそれが拒否されるや労連を脱退したのです。
 彼らはAFLや西欧資本主義諸国の右派組合指導者とともに国際自由労連を結成しました。アメリカの主要な労働運動は、当時、体制の変革とは一線をかくし、もっぱら経済的利害に根ざした労働運動を展開していました。AFLはその主流でした。彼らは思想的には「反共産主義」でした。左派の影響力の強かったCIOも1949年から50年にかけて左派11組合、90万人が追放され右派の指導権が確立されました。
 アメリカでは1947年6月に全国労使関係調整法が制定されました。通称はタフトハートレー法といいますが、これは、当時の上下両院の労働委員会委員長であり提案者のタフトと下院労働委員長ハートレー(F. Hartley)の名に由来します。内容は反動的であり、クローズドショップ制の禁止、ストライキの禁止などを内容としていました。1936年のワグナー法で認めた労働者の諸権利を大幅に制限しました。
  ここでは、タフト‐ハートレー法 [ 日本大百科全書(小学館)]から Taft-Hartley Actについての説明を引用しておきましょう。
 「1947年6月アメリカでワグナー法を修正して制定された労使関係法Labor‐Management Relations Actの通称。提案者であるR・A・タフトとハートレーFred Allan Hartley(1903―69)の名に由来する。
 労働組合の保護助成を図ったワグナー法の制定(1935)は労働組合の飛躍的発展をもたらした。とりわけ1938年AFL(アメリカ労働総同盟)から独立したCIO(産業別組合会議)の成長は、AFLとの対立を組合間の縄張り争いという形で表面化させた(1955年合同してAFL・CIOとなる)。
 この争いに起因するストライキが頻発したため、同法の制定に強く反対した資本家階級は、労働の行きすぎを批判し、労使の交渉力の平等の回復を主張してワグナー法の改悪に力を集中した。
 こうして制定されたタフト‐ハートレー法はワグナー法を修正するという形式をとるが、その実質はまったく異なり、団結権を制約するものである。具体的には、(1)労働者の団結しない権利の保障、(2)クローズド・ショップ制の否認、(3)使用者の不当労働行為責任の軽減、(4)とりわけ重要なものとして、労働組合の不当労働行為を列挙し、使用者との団交拒否、第二次ボイコット、縄張り争いによるストライキなどの禁止、(5)協約改定交渉には期間満了60日前の予告、協約交渉中の60日間の争議冷却期間の設定、(6)全国緊急事態条項による大規模ストライキの80日間差止命令、(7)組合役員の非共産主義者宣言、などがあげられる。労働組合はこの法律を「奴隷労働法」「立法の力による労働運動の破壊」と批判し、反対運動を行ったが、労働組合に対する法的規制は1959年にランドラム‐グリフィン法Landrum-Griffin Actが制定され、一層強められた。」(執筆者:寺田 博 )
 1955年 アメリカ労働総同盟(AFL)と産業別労働組合会議(CIO)が合併してAFL-CIOを結成します。後に、1968年には全米自動車労組(UAW)がAFL-CIOから脱退しました。UAWはその後、1981年に再加盟しました。最大の加盟組織であったチーム・スターズは、1969年にICFTUから脱退したものの、1982年に復帰することになります。
 さて、前述のタフト・ハートレー法の発動を巡って争われた労働争議として、炭鉱ストライキがあります。
 「アメリカでは、ジョン・ルイスのひきいる合同炭鉱労働組合は昨年六月以来一日九五セントの値上げと組合厚生基金の支払の増額(一トン当り一五セントまし)を要求し、週三日労働戦術や、一〇月から一一月にかけて全国ストで闘ってきたが成果をえられなかった。今年に入って、賃金は釘づけのまま、無協約状態で働かされてきた炭鉱労働者は、ついにイリノイ州の炭鉱で一六、〇〇〇名の労働者が事前の予告なくストに入ったのを皮切りに、組合本部の承認なく、どんどん職場を放棄した。合同炭鉱労組会長ジョン・ルイスは一月二三日非公認のストを行っている支部に職場に復帰するよう要請したが、この指令は無視されスト労働者九四、一五〇名のうち二三日朝までにストを中止したのは三七、四五〇名だけであった。これに対して、トルーマン大統領は七〇日間の労資休戦の勧告を行ったが、二月四日、ルイスがこれを拒否したことがきっかけとなり、組合の指令なしに、三〇万をこえる炭鉱労働者は全国的なストライキに突入した。これに対して、タフト・ハートレイ法の廃止をスローガンとして再選されたトルーマン大統領も同法を発動し、連邦裁判所は二月一一日トルーマン大統領の要請にもとずき、タフト・ハートレイ法による罷業中止命令を出し、ルイス会長もこれに従って二月一七日職場復帰命令を出したが、炭鉱労働者は「協約なければ仕事なし」とこの命令に従うことを拒否した。
 タフト・ハートレイ法の発動に対して、全米労働者の憤激は高まり、国際毛皮組合長ベン・ゴールドは、二月一〇日CIO本部に、合同炭鉱労働組合にたいするタフト・ハートレイ法発動に抗議するため全国的な短時間ストを行うよう要請した。(中略)
 ここまで、おいつめられた経営者側は、ついに屈服し、合同炭鉱労組のルイス会長と炭坑所有者側とが三月五日新団体協約に調印したので四週間にわたり三七二、〇〇〇名の参加したストも幕をとじた。
 新団体協約によれば、炭鉱労働者の賃金は一月一四・〇五ドルから一四・七五ドルヘ、また厚生基金はトン当り〇・二〇ドルから〇・三〇ドルヘ増加した。この炭鉱ストは、タフト・ハートレイ法による弾圧をはねかえして一人一人の組合員の団結によって闘いぬかれ、賃上げを獲得し偉大な成果をおさめるとともに、アメリカ全労働者の統一行動を促進した。」(法政大学大原社会問題研究所「日本労働年鑑1952年版」)

(続く)

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