○○235『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(歌舞伎など)

2018-03-26 23:39:00 | Weblog

235『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(歌舞伎など)

 歌舞伎とは、そもそも野外で演じ手が踊ったりしながら、演じるものであった。室町時代に、演劇である狂言は、男性により演じられた。その中からか、歌舞伎というジャンルが形づくられていく。独特の仕草で、物語を演じるようになっていく。風紀を取り締まる側からの禁止の触れもあったらしいが、それをくぐり抜けて発展していく。やがては、「阿国歌舞伎」が有名だ。一座を構成して、各地を渡り歩く。京都の河原とか、主に野外において、大衆を前にして演じられる。
 「歌舞伎」の「かぶき」というのは、元々は「はみでてている」とか「常軌を逸している」との意味があり、また「かぶく」とは、世の中に乗り遅れた者のことをいったらしい。例えば、阿国一座が得意としたのは、例えば男装した役者が茶屋の女と戯れるといったところであったろうか。そんなことから、一説には「遊女歌舞伎」ともいわれていたところだ。ところがこの歌舞伎、1629年(寛永6年)頃から、女性が舞台に立ち、大衆の眼に姿を晒すのを禁じる触れが、幕府により出される。そこで、今度は「若衆歌舞伎」(わかしゅかぶき)といって、前髪をかざしての美少年たちによる芸能が出てくるなど、表向きは男性が舞台をつとめることになっていく。
 その歌舞伎が大衆演劇として確立されるのは、江戸時代の元禄年間(1688~1704)のことである。江戸時代も社会が安定してくると、人々は楽しみを求めるようになってくる。そういうことで、歌舞伎は、江戸と上方(京都と大坂)で根付き始める。江戸では、初代市川團十郎が、豪快な立ち回りで人気を博す。上方では、坂田藤十郎がやわらかな色事を魅力たっぷりに演じる。それぞれ、幟(のぼり)を立て、芝居小屋変じて劇場はここぞとばかりに興業に打って出る。
 一度幕が上がると、歌舞伎役者の付ける衣裳はど派手で、言い回しもよく声が通る案配にて、観客はあるいは固唾を呑んで黙って見守り、またある場面では、「やんや」の喝さいを送る。演じ手と観客が一体となる訳だ。
 このうち色事歌舞伎に関与したのが、近松門左衛門(1653~1724)である。彼は、1703(元禄16年)に初めての世話浄瑠璃(せわじょうるり)「曾根崎心中」を書いて大評判をとる。その後、人形浄瑠璃竹本座の専属作者に就任する。
 寛文~延宝年間(1661~1681)ともなると、江戸と大坂をはじめ歌舞伎の興行権が確立される。劇場街が形成される。江戸では堺町、葺野町(ふきやちょう)、木挽町(こびきちょう)が、大坂では道頓堀(どうとんぼり)が、さらに京都では四条河原(しじょうがわら)と大和大路(やまとおおじ)といったところ。
 この歌舞伎の宣伝に大きな役割を果たした者に、浮世絵であろう。役者絵といって、にぎにぎしい顔立ちを強調して描かれた。人気の出ている役者絵には、買い求める人ごとが押し寄せたとも言われる。裕福な観客は、劇場の中でも上席を占め、興業中は朝の開演から晩の終幕まで、酒肴(しゅこう)とともに過ごすことが広まった。

(続く)

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○234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学、俳句、和歌)

2018-03-26 23:00:08 | Weblog

234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学1、俳句、和歌)

 松尾芭蕉(まつおばしょう)は、日本における江戸期の俳句の最高峰ともされる人物であって、その彼がすべてを俳句づくりにかけてきた姿勢が窺えるものに、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」がある。また、律儀な性格を伝えるものに、「名月や池をめぐりて夜もすがら」とある。旅の途中、出没する至る所において、誠に臨機応変、自己表現の「達人」というべきか。
 小林一茶は(こばやしいっさ)、正義の味方というよりは、弱者の味方ともとれそうな句を沢山つくった。そのあまたの句中から一つ、「やせ蛙負けるな一茶是にあり」とあり、なんだか大きな蛙に小さな蛙がけとばされながらも、相手をにらんでいる、一種剽軽(ひょうきん)な様が窺える。その彼にしても、いつか道に迷ったとき、心の苦しい時も多くあったらしく、「露の世は露の世ながらさりながら」とい愛児の死に浸る句がある。そのかたわら「ともかくもあなたまかせの年の暮れ」ともあり、阿弥陀如来にはからいに任そうとという神妙な心境もうたっているところだ。
 平賀元義(ひらがもとよし)は、1800年(寛政12年)、岡山城下富田町で生まれた。岡山藩士平尾長春の嫡男だった。1832年(天保3年)、33歳の時脱藩したのは、そのままでは世に出られないと考えたのか。平賀左衛門太郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などへ、放浪を始める。多くの万葉調の歌を作った。また、書を能くした。性格は、奔放純情ながら、潔癖などの奇行も多かったとか。生涯不遇の人で、仕官の話があった矢先、岡山市長利の路傍で卒中のため急死した。
 66年の生涯におよそ700首を詠んだ。ここに数例を挙げれば、「放たれし野辺のくだかけ岡山の大城恋しく朝夕に啼く」、「春来れば桜咲くなり。いにしへのすめらみことのいでましどころ」、「神さぶる大ささ山をよぢくれば春の未にぞ有紀は零りける」(大佐々神社(おおささじんじゃ、現在の津山市大篠)にて)、「見渡せば美作くぬちきりはれて津山の城に旭直刺」(同)等々。
 正岡子規の『墨汁一滴』には、歌人としての平賀元義を褒めちぎる一節がある。
 「徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。
 万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し万葉調の歌を世に残したる者実に備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之を尊敬せざる書家なく、杜甫を尊敬せざる詩家なく、芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有なり。
 歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸を歌聖とする事において全く一致しながらも毫も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしはけだし心に大に信ずる所なくんばあらざるなり。(二月十四日)」

(続く)

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○234『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3)

2018-03-26 22:58:04 | Weblog

234『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3)

 浮世絵(うきよえ)は、日本の代表的な文化の一つといえよう。菱川師宣から始まり、鈴木春信や勝川春章などの巧者を経て、民衆の中に根を下ろし、延ばしていった。江戸期の民衆の歩みと共にひたひたと歩んできたこの芸術が、最初の大輪の花を咲かせるのが、喜多川歌麿が活躍した江戸中期であった。
 歌麿の生きたのは、1753年頃、1806年に没した。出身地などは不明な点も多い。幼い頃に狩野派の絵師、鳥山石燕に学んだ。1780年代には黄表紙や挿絵の錦絵などを手掛けた。晩年に成っては、浮世絵美人画の第一人者に上り詰めた。
 歌麿の作品は、多数ある。好んで描いた対象は、特権階級ではない、多くは遊郭の女性や花魁もあるが、主に市井の町娘も描いた。どちらかというと、つましく暮らしている人々だ。例えば、「寛政三美人」(当時三美人)は、1793年頃の作で、大判錦絵となっており、ボストン美術館(アメリカ)で所蔵されている。後に「婦人相学十躰・ビードロ(ぽっぴん)を吹く娘」と名付けられた絵は、成熟した女性の人格まで描き分けようとしたかのような、歌麿のシリーズもの中での代表作ともいわれる。江戸以外の地に生きる人々の姿も手掛けており、「鮑とり」(6枚続き)は沖合に漕ぎ出しての、海女たちの労働をあらわし、寛政初期にかけて手掛けた「画本虫撰(えほんむしえらみ)」や「百千鳥」「潮干のつと」などの狂歌絵本においては、植物、虫類、鳥類、魚貝類などが生き生きと息づいている。ほかにも、春画、肉筆画も手掛けていて、多彩な筆遣いで縦横無尽な才能といったところか。
 描き方は、一言でいうなら、そんじょそこらには観られない、繊細かつ優麗な描線を特徴としている。それでいて、さまざまな姿態、表情の女性の中からい出てくる美を追求した。大胆なポーズをとってる作品もあり、自由自在にかき分けている、というほかはない。顔は大きく、実物を観察するうち、クローズアップしてくるものを自分の頭の中で再構成して描いているのではないか。彼の特徴は、細い線だとうかがった。そこに注意して観ていると、おっとりした表情の中に描かれている人物の息遣いまでが伝わってくるかのような心地になるから、不思議だ。
 浮世絵は、合作だ。絵師がいて、彫り師がいて、摺り師がいて、とにかく多くの皇帝に跨ることで、その協力があって初めて作品が出来上がり、買い手がつく。その分業の始めから終わりまでを取り仕切る商売人がいて、さながら問屋制による手工業のようでもあったろう。忘れてはならぬのは、蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう、1750~97)の功績であろう。彼は、江戸吉原に生まれた。7歳の頃、商家の蔦屋に養子に出される。長じては、初め吉原大門外の五十間道に店を開き,地本問屋(じほんどいや)の鱗形屋(うろこがたや)から毎年発行している吉原のガイドブック(『吉原細見』(よしわらさいけん)の小売りを営んでいた。そのすがら、太田南畝、恋川春町、山東京伝らの作家や、北尾重政、勝川春章、喜多川歌麿らの浮世絵師たちと見知っていく。1774年(安永3年) 、初めて版元として浮世絵(北尾重政画の「一目千本花すまひ」を出版する。1783年には、日本橋通油(とおりあぶら)町に店を構える。時代は、いわゆる田沼時代。それからは、喜多川歌麿や東洲斎写楽らを売り出すなど、ヒット作を飛ばしていった。浮世絵版画だけでなく、黄表紙や洒落本、狂歌絵本なども手掛けていく。間口の広い、出版業の走りだといえよう。須原屋市兵衛と並ぶ代表的な出版業者という意味を込めて、「蔦重」と通称される。
 ところが、田沼老中が失脚すると、寛政改革で時代は風俗の抑圧へと動いていく。1791(寛政3)年、作家の山東京伝が世相を風刺することで風俗を乱していると咎められ、山東は手鎖の刑50日、重三郎は「身代」(財産)の半分を没収という厳しい刑を受ける。それでも、重三郎の反骨精神は没するまで続いたといわれる。1796年(寛政8年)には、美人画に、「富本豊ひな」や「難波屋おきた」などの実名をすり込むことが禁止される。1799年(寛政12年)には、歌麿に関係深いところで、奉行所による錦絵の検閲強化で「美人大首絵」までが禁止されてしまう。最大級の被害者である歌麿は、その作品を半身像にしたり、三人像にしたりで、なんとか法の網をかいくぐっていくのであった。
 歌麿以降の浮世絵は、鳥井清長、東洲斎写楽(複数人かも)、葛飾北斎、宇田川豊国、安藤広重らに引き継がれ、後には世界の美術へ影響を及ぼすことにもなってゆく。

(続く)

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○233『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など2)

2018-03-26 22:56:56 | Weblog

233『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など2)

 円空(えんくう)は、1632年(寛永9年)の生まれ、岐阜の長良川付近に生まれたが、詳細はわかっていない。彼が造った「円空仏」は、東日本を中心に五千近くも発見されているようだ。総数は、優に1万を超すとみられている。僧となってからの彼が辿った路は、主に東日本の広い範囲にわたるばかりでなく、北海道にも及んだらしい。ただの仏像創作旅行ではなく、「錫杖(しゃくじょう)」とともにある旅路でもあったという。僧であるからして、布教しながら、頼まれれば仏教の経を人々に向かって諳んじながらの旅であり、修行を兼ねる行脚(あんぎゃ)でもあったのだろうか。それぞれの場所で民衆に頼まれては仏像を造っていたのか、それとも自分の内なる心だけを頼りにして渾身の鑿(のみ)をふるっていたのであろうか。
 その円空仏の表情が柔和になったのにはねそれなりの理由があるようだ。1674年(延宝2年)、円空は和歌山の地から舟で伊勢の志摩に渡る。片田三蔵寺と立神薬師堂に立ち寄って、そこにある600巻にも及ぶ『大般若経』の修復作業に加勢していたのだと伝わる。円空が寺と土地の人たちから依頼されたのは、教典に添える挿絵であったとのこと。当時の彼は、母の供養ができていないという自責の念に悩んでいたらしい。円空は、その依頼を喜んで受け入れ、来る日もくる日も墨画を描いていたところ、だんだんに仏の顔が柔らかになっていったという。それにつれて、母の供養が進み、成仏できたという確信が得られた。その時から、円空の彫る仏の顔に、ほほえみが宿るようになっていったのだと語り継がれている。
 そのあまたある中から一つ、紹介したい。弘福寺(現在の群馬県高崎市在)の円空仏は、彼が1681年(延宝9年)春に武蔵国(現在の富岡市一ノ宮~に滞在しているおり、50歳の油ののりきった時期に造られたらしい。大きさは、高さ28.6センチメートル、像の幅14.9センチメートルと小ぶりだ。檜材に刻まれ、背面は五面に型割りしてある。顔の彫りは、凹凸がほとんどなく、西洋などの人の彫刻と根本的に違う。いの一番の特徴は、人なつっこい表情をしており、口元からは笑みがあふれていることだ。受ける印象は、言葉では表現できそうにない程の無限の慈悲というか、愛というか、それらが混じり合ったものが伝わってくる。
 朝鮮にも、「寂しいおりに、一杯のクッパでが人の心を温かにできる」という話があるやに聴いた。確かに食べ物ではないが、仏像を一度見終わってから、わざわざまた元の行列に戻ってもう一回拝顔する人があるのは、これを観る人の全員が幸せになってほしいとの彼の願いが通じるのだと理解したい。64歳(1695年(寛永8年))のとき、この漂泊の人は、郷里の長良川河畔の穴の中に入定した、つまり「即身仏」となって衆生の人々を助けようとしつつ、自然に帰ったのであった。
 浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820)は、 江戸後期の岡山藩の支藩、鴨方藩士の家(現在の岡山市街)に生まれ、後に諸国を放浪した異色の画家として知られる。彼は早くの武家の家督を継いでから精勤し、37歳で同藩の大目付の出世する。しかし、43歳の時、その任を解かれ、左遷される。48歳の時には、妻が亡くなる。50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことが幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。
 やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。代表作の「凍雲○雪図」(とううんしせつず)を画集で拝見すると、定かにはみえないが、痩せた岩盤に樹が立っているのだが、寒さのためと言おうか、孤独さのためと形容しようか、凍えているかのように眼に写る。作者は、この絵で何を表現したかったのであろうか。しかし、もう少し辛抱づよく観ているうち、冷たさの中から何か、もこもこした息吹のようなものが昇り、上がってくるように感じてくるから、不思議だ。つまり、死んではいない、たくましいのだ。その後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、えもいわれぬかたちであって、ありきたりの形に囚われない面白さも感じさせてくれている。

(続く)

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○232『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1)

2018-03-26 22:55:39 | Weblog

232『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1)

 文化は、文明のような組織だった人間の営みではない。だから文化とは、古今東西を問わず、人間の精神と肉体による活動のうち、もっとも美しい部分、領域なのかもしれない。江戸期には、日本の歴史上初めて、幅広い形での大衆文化というものが形成された。奈良期までに、大陸からの多くの文化が伝わってきた。平安期には貴族文化が華開いて、男女の情愛や可憐さ、切なさを中心に競い合った。仏教文化が、古代からの土着文化と結合あるいは折衷し合い、鎮護国家としての綾取りを加えた。室町期からは、もはや借り物ではない、日本の文化が花開いていく。
 けれども、それまではの文化の大半は一握りの人たちによるもの、彼らのために行い、あった。文化は、人々が欲求するものだ。双方向の交流があって初めて、前へと進んでいく。文化に類した何かを創り出そうとする者は、いいものをつくって観賞してもらったり、購入してもらったり、後世へと伝わることを望む。創られた文化を享受する側はといえば、それに感動や喜びを見出すことのできる人々は、どのくらいであったのだろうか、過ぎし世の中への興味は尽きない。
 文化のもう一つの欲求は、他人へ、他地域へ、次代へ、伝搬していくことだ。もちろん、これだとて、たった一人で創り出せるものではあるまい。創る側の人が何かを自分の生きる中から取り出してくる。前の時代から受け継いできたものもあるだろうし、自らが創り出していくものもあるだろう。これには、「最も広い用法では、芋を洗って食べたり、温泉に入ることを覚えたサルの群れなど、高等動物の集団が後天的に特定の生活様式を身につけるに至った場合をも含める」(『新明解国語辞典』三省堂)とあるから、要するに芸術レベルでなくとも構わないようにも考えられるのだが。
 これに紹介するのは、久隅守景(くすみもりかげ)の「夕顔相月納涼図」(ゆうがおだなのうりょうず)と「四季耕作図」である。久隅は生年没年とも不明ながら、狩野探幽(1600~1674)の弟子であった。活躍したのは、17世紀半ばから末に及ぶ。
守景には、息子と娘がいたとのこと。息子は放蕩息子で、悪事を働いて島流しとなり、娘は狩野派絵師となりながら、同年の絵師と駆け落ちしてしまったため、守景は面目を失い、狩野派を離れたとされる。
 彼の代表作の「夕顔相月納涼図」は国宝になっている。かなり大きな(約150センチメートル×約168センチメートル)あるらしい。図鑑で観ると、黒の濃淡の墨だけで描かれているようだ。夫婦らしき男女と男の子のあわせて3人が茅葺き家の縁だろうか。棚からは夕顔が幾つもぶら下がっている。そこに、いかにものんびりしている。空高くには丸い月があって、月明かりに照らされているようだ。静かである。いわゆる「おぼろ月夜」で季節は、夏の終わり頃といったところだろうか。
 父親は両の腕で支える形で頬杖をついて、くつろいで見える。何か考えているようでもあり、無心に自分という者の心を放り出しているようであり、とにかく脱力している感がある。母親は、そんな夫にあくまで静かに寄り添い座っている。この絵の由来となっている和歌に「夕顔の咲ける軒場の下涼み、男はててれ女はふたのもの」(江戸期の大名歌人であった木下長しょう子の作)というのがあり、この中の「ててれ」とは襦袢、「ふたのもの」とは腰巻のことをいう。
 この二人の傍らに座っている子供はまだ10歳になっていないのではなかろうか、茫洋とした表情をしており、観ているにほほえましくさえある。生業は農業(百姓)であろうか。今日一日の労働が無事に終わり、ご飯も食べて、つかの間の家族水入らずの時を過ごしているような案配に見える。歌の方には子供がいないのに、絵に描かれるのは、守景のどういう趣向によるものだろうか。
 守景の「四季耕作図屏風」は、百姓心を大いに啓発してくれる作品だ。というのは、この時代、すでに私の小さいときの農家の一年に行われていたことが、大方に描いてあるのではないだろうか。春の田越しから始まって、田植え、収穫、そして出荷など、村の地理的な広がりの中に農家の営みが連なっている。田や畑の間の道は、過去からやって来て、現在につながっているようにも窺える。通りの真ん中には、若い女性を中心とした道連れだろうか、何かの一行であろうか。ともかく陽気な顔、また顔をしている。田植えが進行中の田圃では、田楽ではやし立てているグループもある。村野人から景気付けに頼まれてやっているようでもあり、とにかく田圃の泥濘(ぬかるみ)の中、商売でやっているというよりは、好きで誠に楽しそうに踊っている。
 そんなこんなで、その外にも色々な場面が描かれるのだが、時間の流れが混合している様となっている。それでも、自分の追体験がある程度可能な場面が多くある。私たち後代の者は、過去に決して戻れない。だが、この絵に没入している間かぎりでは、自分もその場にも立ち会っていたかのように感じられる。それによって尚更、楽しく拝見できているように感じられる。事実、私たちの感覚は、今よりほんのちょっと過去の時間を観たり、感じたり、考えたりしているものだ。
 画家の伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)と与謝蕪村(よさぶそん)は、共に1716年(正徳6年)に生まれた。若冲は、超精密画で知られる。若冲はその天才を自覚していたのか、自分の絵の四つを選んで、神業を暗示させる印を押した。自分の絵が千年も生きられるようにと、壮年期からは自分の作品を寺に寄進したのだという。彼の絶筆として伝わるのは、何とも愛らしい犬たちであった。彼は京都を襲った大地震に直面して、命というもののはかなさ、尊さを実感し、その心の延長でこの絵を描いたのではないかと言われる。
 蕪村の描いた絵には、飾りというものが感じられない。人家はまばらであって、どことなく冷たく、寂しげでさえある。2009年に国宝に指定された『夜色楼台図』は、縦28センチメートル、横130センチメートルの画面に京都の冬を描いて見せた。これを観ると、しんしんと雪が降り積もっている。家々の障子からは明かりが漏れている。どこかで観たような構図でもあり、自分はこのような寂しげな光景を持たなくても何かしら心惹かれる。彼は、俳人でもあった。万を超すあまたの句のの中から一つ諳んじれば、「一面に月は東に日は西に」とあって、あのかぐわしい、何とも心地のよい、甘い匂いのする華の絨毯が広がる。その中に、東の空に月が上がり始め、西の地平には今にも太陽が沈みかけている。
 池大雅(いけのたいが、1723~1776)は京都(現在の上京区)の村の生まれ、江戸中期の文人画家にして書家でもある。7歳の幼い頃から、画才を発揮して「神童」と讃えられる。15歳で父の跡を継ぎ、菱屋嘉左衛門と名乗る。20歳で、雅号を「大雅」と決める。それからは、諸国を渡り歩いて自然を愛し、その先々で多様な人々と交わる。妻の玉らんと、「琴瑟相和す」仲むつまじさであったことでも知られる。行住坐臥、ごく自然に振る舞うことで知られ、いわゆる風流の道を色々とたしなんでもいたらしい。変わったところでは、1751年(宝暦元年)の、岡山少林寺からの帰途入京の際、用事でやった来ていた白隠慧鶴禅師(1685~1768)と会っていたり、与謝蕪村とは相作もしたか間柄であったらしい。
 その画業は風景を主にし、「岳陽楼・酔翁亭図屏風」や「山水人物図襖」などが代表作。同じく傑作の「楼閣山水図屏風」(6曲1双にして紙本金地墨画着色)を拝見すると、一見中国風の家や幾山が押し寄せてきているようで、自由奔放というか、、つらつら眺めているうちに、もこもこ力が湧いてくる気がしてくるから、不思議さはこの上ない。
 豪快な絵ばかりでなく、四季の移り変われを描いた「四季山水図」や、農民や釣人などが登場する「十便画帖」(1771作、国宝)には、自分もそこにいる錯覚すら覚える。多くの絵の余白に添えられている書は、陶淵明(中国唐代の仙人のような生活を送ったとされる詩人)などの詩に取材しているのであろうか、自由気儘に心情を吐露したものだろうか。
 鈴木其一(すずききいつ、1796~1858)は、尾形光琳の流れを汲む日本絵画の伝統を江戸で復興した酒井抱一(さかいほういつ)の弟子である。その其一が書いた「朝顔図屏風」(あさがおずびょうぶ)は一風変わっている。おりしも、江戸では朝顔を珍重する園芸熱がひろまりつつあった。
 それらを交配させて、珍しい色あいのものを作り出すのだ。其一はこれに触発されたのだろうか、根元もなければ、蔓が巻き付くための支柱も描かれていない、花があるばかりでなく、蕾や種らしきものまで描いてある。試みに画集の中央に居ると、金屏風の下地に冴え冴えと、両隻の右からと左からと葉っぱの緑(緑青)と花や蕾の青(群青)の組み合わせで、まるで「やあやあ」と近づいてくる。
 不思議だ、なんだか花に囲まれているみたいなのだ。全体として尾形光琳の「燕子花図」(かきつばたず)のような只住まいなのだが、それよりかは少し空想じみているのが、なんだか爽やかに感じられる。緻密であるし、考え抜かれた構図なのだといわれるものの、緊張感の中にも爽やかな動きが感じられるのが何より心地が良い。この絵を描いた其一もまた、黒船来航に驚き、慌てた一人であったろうに、そんなことには露ほども感じさせないだけの、事絵に関しては集中心であったのだろうか。

(続く)

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