♦️554『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の朝鮮半島(朝鮮戦争)

2018-03-14 09:00:18 | Weblog

554『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の朝鮮半島(朝鮮戦争)

 1950年1月末、米韓相互防衛援助協定を締結した。これより少し前の1948年12月、国際連合の第三回総会で世界人権宣言を採択したばかりだった。
 これに勢いを得たアメリカのトルーマン政権は、1950年1月30日に全面的な軍事介入を指令した。1950年6月25日(俗に「ユギオ」といって、この日の出来事を韓国読みにする場合がある)、北朝鮮軍が南朝鮮に進攻する。同6月26日、国連が緊急安全保障理事会を開いて、北朝鮮軍の攻撃即時停止を求める決議案を、ソ連欠席のうちに9対0で採択した。ちなみに、この時のソ連は中国の代表権を台湾が持っていたことに反対して欠席していたという。
 7月7日、国連軍を語る組織ではマッカーサーが総司令官となって戦いを進めるものの、8月には釜山を除いて北朝鮮軍の手に落ちる。9月15日、アメリカ軍が巻き返して仁川(インチョン)に上陸し、9月26日にはソウルを奪還する。
 10月1日、国連軍は中国からの警告を無視して北緯38度線を突破する。中国はこれに対抗するべく義勇軍を派遣し、国連軍の動きを牽制する。10月7日には、国連が朝鮮半島の武力統一のため北緯38度線以北への軍の進攻を容認する。1950年11月末の中国軍総攻撃で、国連軍は北緯38度線以南に退却を余儀なくされる。
 このままでは戦況が劣勢になると考えたアメリカ政府は、1950年12月15日には、国家非常事態宣言を発し、それまで150万であった兵力を350万人に増やす
 ここでトルーマン大統領は、戦況の立て直しをはかるためには原爆投下も辞さずの態度をほのめかし、また現地(アジア・太平洋)の司令官であるマッカーサーは中国東北部への爆撃を主張する。しかし、ここで事態が大規模化するのを恐れたイギリス首相クレメント・R・アトリーが戦争目的に限定すべきだとアメリカに進言したこと、アメリカ自身も局地戦争から広範囲への戦争拡大への懸念が増してくるに及んで、中国側への大規模攻撃を思いとどるとともに、1951年4月11日には強硬派のマッカーサーを解任する。
 このことから、当時日本への投下で効果を知ったアメリカに、当時再びの原爆投下を自制できるかとうかは微妙であったことが垣間見えてくる。そうなれば、その際の原爆攻撃には、沖縄の基地が使われることは明らかであった。なお、当時の沖縄には既に核兵器が持ち込まれていたことが、後に明らかになっている。
 1951年6月23日になって、ソ連のマリク国連代表による停戦案が出され、これを国連軍側が受け入れる形で7月10日に停戦交渉が始まる。しかし、手間取り、1953年7月27日になってようやく停戦交渉の妥結にこぎ着けたのだ。

(続く)

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♦️600『自然と人間の歴史・世界篇』漢江の奇跡(韓国)

2018-03-14 08:30:55 | Weblog

600『自然と人間の歴史・世界篇』漢江の奇跡(韓国)

1948年8月、朝鮮半島の南側の部分においては、大韓民国憲法が制定された。これから李承晩(イ・スンマン)政権が倒壊するまでを第一共和制(1948年~1960年)と呼ぶ。1953年2月に労働委員会法、3月に労働組合法、5月にそれぞれ勤労基準法が制定される。1954年、大韓独立促進労働組合総連盟(大韓労総)が韓国労働総連盟(韓労総)に組織替えされる。大韓独立促進労働組合総連盟は1946年3月に結成されていた。
1958年、都市産業宣教会が設立される。約4年にわたる民族内戦争で、全国の国土、生産設備は焦土と化していた。1961年末頃までの韓国経済は、まだ経済後進国に過ぎなかった。天然資源に乏しく、国民生活に必要な物資はもとより、さまざまな一次産品も輸入に頼っていた。
1955年8月に韓国はIMF(国際通貨基金)に加盟する。1965年から1987年までは借款の供給を受けていたが、1988年に全額返済にまでこぎ着ける。李承晩(イ・スンマン)政権は援助に依存する経済からの自立を目指す。「経済開発三カ年計画」(対象期間は1960~62年)を作成する。しかし、1960年4月に彼の政権は政治腐敗に抗議する学生、労働者らが「四月革命」(4.19革命とも呼ばれる)を起こす。李承晩の辞任書は4月27日に国会で受理される。許政(ホ・ジョン)外務長官が大統領代行となる。
 それから1ヶ月後には、失脚した李承晩はハワイに逃亡し、彼の政治勢力は消滅に向かう。今度は、1960年7月の総選挙にて民主党が圧勝する。憲法が内閣責任制に改正され、第二共和国が発足する。新しい大統領は尹○善(ユン・ポソン)で、総理は張勉(チャン・ミョン)が就任する。この政権下で、「経済開発五カ年計画」(1962~66年)を策定する。
しかし、朴正煕(パク・チョンヒ)少将による1961年5月16日の軍事クーデターが勃発する。これにより彼の政権は内閣総辞職を余儀なくされる。同月同20日には、国家再建最高会議議長の張都暎(チャン・ドヨン 、軍事クーデターの軍事革命委員会議長)を首班に戴く軍事政権が発足する。同年7月3日には、本命の朴正煕が国家再建最高会議議長に就任する。
 やむなく、1962年3月には尹○善(ユン・ボソン)大統領が大統領職を退き、入れ替わりに彼が大統領代行に就任する。同6月には内閣首班のソン・ヨチャンも辞任したことで、彼の手に権力が集中することになった。この2年間は、特別に第二共和制(1961年~62年)と呼ばれている。1963年12月、新憲法が発布される。第三共和制(1963~1973年)が発足し、民主共和党の朴正煕(パク・チョンヒ)が弟5代大統領に就任する。
1962年は第一次5か年計画の初年度であった。だが、凶作で農業開発は進まない。食糧の緊急輸入で、国際収支が悪化し、そのままでは国民経済が破綻に向かいかねない。そこで政府は、1962年中に本格的な経済開発に乗り出す。
1963年より尉山(ウルサン)工業センターなどの繊維加工基地を中心に輸出振興策に切り替える。また、韓国の通貨であるウォン切り替えで通貨管理を強化する。
1962年からの韓国のGNP(国内総生産)は、23億ドルから大幅に伸びていく。これを始めとしての韓国の経済成長のことを、首都ソウルを流れる漢江の名にちなんで「漢江の軌跡」(ハンガンエキジョッ)と呼ぶ。
 その際の牽引力となった韓国の輸出は1961年に4090万ドル、1962年に5480万ドル、1963年8680万ドル、1964年1億1910万ドル、1965年1億7510万ドル、1966年2億5030万ドル、1967年3億2020万ドル、1968年4億5540万ドル、1969年6億2300万ドルとしだいに鰻上りに増えていった。

(続く)

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