363の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(一般相対性理論・等価原理と一般相対性原理)
20世紀に入って、アインシュタインによって発表された「一般相対性理論」においては、新たな時間と空間の概念が二つ導入された。その名を「等価原理」と「一般相対性原理」という。
まず等価原理というのは、運動加速度と重力加速度の等価性を意味するもので、慣性質量(加速度に抵抗するもの)と重力質量(重力場を作り出すもの)とは等価であるといってもよい。これは、「重力は瞬時に伝わる」というアイザック・ニュートンの重力理論(万有引力の法則)を、「自然界の最高速度は光である」という相対性理論と矛盾とない形に修正しようと考えたものだ。彼は、こんな説明をしている。
「左図のとおり、部屋の形をした広大な箱を考える。その中に観測者が居る。この状態では、観測者にとって重力というものは存在しない。
箱の蓋の中央外部にザイルを付けたハーケンが取り付けられ、我々とは無関係な種類の存在者が一定の力でこれを引き始めるとせよ。その時、観測者もろとも一様な加速度運動で上方へ飛び始める。
しかし、箱の中の人はこの過程をどう判断するだろうか?箱の加速度は、箱の床そのものの反動によりその人に伝えられる。その時、彼は、全く地球上の我が家の部屋の中に居るように、箱の中に立っていることになる。従って、箱の中の人は、自分も箱も重力場にあると言う結論に達するであろう。屋根の中央にハーケンがあって、それにピーンとザイルが張られているのを発見する。そのことから、箱は重力場に静かに吊るされていると言う結論に達する。
今度は、右図のとおり箱の中の人が箱の天井の内側にザイルを固定し、その空いている方の端に物体(B)を吊るすとする。こうすると、ザイルはビーンと垂直に垂れることになる。我々はこのザイルの張力の原因を尋ねる。箱の中の人は言うだろう。「吊るされている物体(黒い丸)は重力場において下向きの力を受け、それはザイルの張力と釣合う。ザイルの張力の大きさを決めているのは、吊るされている物体の重力質量である」と。
この例から分かる様に、Gは加速運動によるものか、重力によるものか区別が付かない。このことは、慣性質量と重力質量の同等性定理を必然的なものとして示している。」
ここでは、重力により空間そのものが落下しており、物体はその場に留まろうとして空間と一緒に落下する。したがって、全ての物質はその質量に関係なく同時に落下すると考える。また、重力によりGが掛かったのか、加速によりGが掛かったのか区別出来ない。という訳で、加速系と重力系とを、同じ方程式で表すことが出来る。
それから、一般相対性原理というのは、加速度系を含むいかなる座標系においても物理学の法則は同等に働く、言い換えると、任意の座標系において物理法則は同形でなければならないのをいう。
1914年から16年にかけて、アインシュタインは、この二つの原理を前提に、特殊相対性理論を発展させた重力理論として一般相対性理論を構築していく。そこでの重力は、質量をもつ物体により周辺の時空に生じたひずみが生み出す物理的効果であらわされ、光も天体の重力によって曲げられる(重力で曲がる)というのだ。
それからのアインシュタインは、自身による一般相対性理論と、アイザック・ニュートンの万有引力の法則の差として、水星の近日点の移動、太陽の近くを通る光線の曲がり、それに重力を受けている光源が出す光のスペクトルの赤方偏移を測定することを提案する。要は、自分の理論の正当性を観測で確かめてもらいたいというもの。
1919年、イギリスの天文学者アーサー・エディントン(1882~1944)らは、
アフリカのプリンシペ島に出掛けていた。目的は、5月29日の日食を観測することである。この日食の間、彼らは太陽の近くに見える恒星の写真を撮影する。というのも、彼はアインシュタインの一般相対性理論を知っていて、それによれば、遠くの恒星から観測者に達する光線が太陽の近くを通る場合、太陽の重力場によって光線が曲げられるため、本来の位置からわずかにずれて見えるはずだ。ところが、昼間の地球上からの観測では太陽の光による空の明るさでその恒星の光は紛れてしまうため、この現象を観測するには皆既日食の時を選ぶしかないと考えた。
この日食時の太陽近傍での観測の結果としては、太陽の背後に存在するであろう複数の恒星(それはみずから光を放つ)からの光が、太陽の近くでその重力により曲げられて地球に到達していることが確認された。とはいっても、曲がった角度は1.6秒程度(1秒は3600分の1)と極めて小さなものであったのだが、この値はアインシュタインの一般相対性理論による予言にとても近いものであったという。その後も、天体のもっている重力により、その近傍を通る光が曲がる事例が天文観測により多数見つかっており、これらの事例のことを「重力レンズ現象(効果)」と呼んでいる。
(続く)
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361『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(特殊相対性理論)
アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)は、南ドイツのウルムという町に生まれた。父は小さな電気化学の工場を経営し、母は古典音楽に造詣(ぞうけい)が深かった。ミュンヘンの小学校を終え、ギムナジウムに入る。そこでの12歳の時には、数学に興味を抱くに至っていた。15歳の時、イタリアのミラノに移った父の後を追って学校を休むのだが、父は学業を早く済まして職に就くのを勧める。卒業し、チューリヒ工科大学を受験するも、不合格だった。翌年、試験なしに入学を許可される。
世紀の変わり目に大学を卒業した彼は、友人の紹介で、スイスのベルン特許局の技師の職を得る。それからは、仕事をこなしながら、物理学の研究に没頭していく。ここでの数年間を手始に、後に「相対性理論」に代表される、独自の理論体系を構築していく。その中から、前段の「特殊相対性理論」につき、こう述べている。
「電気力学の現象は力学の現象と同様に、絶対静止という考えを立証するような性質を持っていないように見える。むしろこれらの事実から、力学の方程式が成り立つ全ての座標系に対して、電気力学や光学の法則がいつも同じ形で成り立つと考えられる。このことは、小さな物理量の1次の近似については既に立証ずみのことである。
このような推測を第一の要請とみなして、相対性原理と呼ぶことにする。さらに次のような第二の要請をつけ加えよう。
光は常に真空中を一定の速さcで伝搬し、この速さは光源の運動の状態には無関係である。
これは、ちょっと考えると、第一の要請とは矛盾するように見えるかもしれない。しかしこれら二つの要請は、静止物体に対するマックスウェルの理論にもとづいて、運動物体の電気力学を簡単にかつ一貫して建設するためには充分である。」(アインシュタイン著(1905年)「動いている物体の電気力学」:日本語訳:湯川秀樹監修「アインシュタイン選集1」共立出版、19~20ページ)
なお、ここに特殊というのは、「運動が相対的であるといっても、それは、たがいに平行で、速度一定の直線運動をしている慣性系同士という特殊の場合に限っているからです」(矢野健太郎「数学への招待」新潮文庫、1977)とある。
第一の仮定は、あらゆる運動は相対的であるという含意から、「相対性原理」という。ある慣性系に対して、平行に速度一定の直線運動をしている座標系はすべて慣性系である。言い換えると、たがいに平行に、速度一定の直線運動をしている慣性系同士の間では、力学の諸法則が、ある一つの座標系に対して成立すれば、これらの法則はすべてに当てはまる。
またこれに加えて、空間が相対的であること。「力学の方程式が成り立つ全ての座標系に対して、電気力学や光学の法則がいつも同じ形で成り立つと考えられる」というのは、力学の運動だけではなくて、あらゆる運動(物理現象)にもあてはまると主張する。
第二の仮定は、「光の速度は、その光源の運動いかんにかかわらず、すべての慣性系に対して同一のc(光の速度)をもっている」というものであって、これを「光速度不変の原理」と呼ぶ。
これは、1926年に、マイケルソン(1852~1931)とモーレー(1838~1923)が実験を行った結果を採用したものだ。その装置としては、八角柱の回転鏡をこしらえて断続した光パルスを作り出し、遠距離(数十キロメートル)を往復させる。回転鏡の回転速度により、往復後の反射光の方向が変化し明暗の干渉縞(かんしょうじま)となって観測されることでの実験を行う。これを「マイケルソン・モーレーの実験」と呼ぶ。その結果、光速が地球の動きにかかわらずどの方向でも一定(299796±4キロメートル毎時)であることを確かめた。つまりは、空間を満たすエーテルなとどというもの(媒質)は存在していないことになる。
さて、この相対性原理と光速度不変の原理からは、相対性に関する新しい物理学がつくられていく。その際、導きの糸となったのがローレンツ変換(Lorentz transformation)と呼ばれる数学上の式である。これは、2つの慣性系の間の座標(時間座標と空間座標)を結びつける線形変換である。アインシュタインはこれを独力で導びき(矢野、前掲書に導出過程が簡便な形で掲載されている)、慣性系間に許される変換公式として、理論の基礎を形成するのである。
なお、この式そのものについては、これより前、電磁気学と古典力学間の矛盾を回避するために、電磁現象を表現するためのマクスウェルの方程式を不変にする変換として、アイルランドのジョセフ・ラーモア(1897年)とオランダのヘンドリック・ローレンツ(1853~1928発表年は1899年、1904年)により提案されていた。
1906年、27歳の時、アインシュタインは職場において2級技術専門職にめでたく昇進し、年俸も4500スイス・フランに上がったのだという。
(続く)
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