515『自然と人間の歴史・日本篇』2000年代の文化(演劇、ドラマ、映画など1)
大杉漣(おおすぎれん、本名は大杉孝(おおすぎ たかし)1951~2018))は、俳優にしてタレント。徳島県小松島市の出身だと紹介される。若い頃から演劇に傾倒する。多分、理屈なし、文句なしに好きだったのではないか。明治大学文学部の演劇専修をコースを中退したあと、当時「沈黙劇」で通していたという劇団「転形劇場」(太田省吾主宰)に参加する。
2018年3月2日に放映された旅番組「アナザースカイ」では、それまで数多くの海外公演を行っていた転形劇場での一コマが紹介された。この組織が、資金難に苦しみ解散が決定されていた中での韓国公演時の足跡をたどる。そこで催された沈黙劇とは、すぐそこの忘れ物をとりに行くのに無言、無音で5分もかけて演じるのであった。
「アナザースカイ」での大杉は、そうした地味な芝居を16年も続けて演じていたことの記憶をたぐり寄せるものとしてあった。視聴者は、これが後のテレビや映画といった表舞台に出てからの役者生活の血肉となり、基礎となっていたのだと教えられる。
60歳代の頃からは、本業から料理番組や何かまで、実に多くの役をこなし、出るところの各々の場で存在感を示す、この国の代表的な俳優、タレントの一人になっていた。
代表作の一つには、映画「メルト・ダウン」がある。2011年3月の東日本大震災のときの東京電力福島原子力発電所での出来事を扱った作品であるが、その中で彼は吉田所長の役を演じている。
(中略)
しめくくりに、前述の番組「アナザースカイ」に話を戻そう。大杉に限らず、役者は芝居や舞台に人生をかけるというが、この放映中に彼が言った次の言葉には独特の響きがある。
「例えば、年間10本の仕事をしたとして、たしかにいろいろ考えると、10分の1になるかもしれないけど、でもその瞬間っていうのは1分の1なんですよ。
だから、これでなければいけないという条件が揃わないとできないというよりも、その条件に自分がどう合わせるかっていうことの方が、逆にいうと、発想としては僕は大事だと思うんですよ。」
「現場で過ごしたことが、僕にとって一番リアルな言葉」というのを注釈したかったのだろうか、こうも言う。
「雑な言い方をすると、そのとき一生懸命やっているぐらいの事しかないんですよね。
そういう人たちと現場を一緒に過ごした時間というのは、やっぱり何ものにも代え難い時間なんです。」
「冒険するとかしないとか、現場でちゃんとこう味わいたいし、味わってもらえる時間を共通し、これからもしたいいなっていう思いはあります。」(以上は視聴での聞取りのため、口述の厳密さ、また話の順序については自信がありません)
こうして、さりげない表情と仕草のなかでも、人と仕事に対する慈しみを片時もおろそかにしない、その時々の本質を大切に心がける。要するに、大杉は、哲学的な深みをも兼ね備えている、日本では希有な俳優なのである。
(続く)
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142『自然と人間の歴史・世界篇』ペストの流行(ヨーロッパ)
ペスト(別名「黒死病」)は、今では、ペスト菌(細菌学者の北里柴三郎が発見)が人体に入ることによって引き起こされる、伝染病の一種のことだとわかっている。原因は、ペストに罹ったネズミの血を吸ったノミが人間を刺すことによって発症するとされたりしてきた。21世紀に入った最近では、欧州の人口の約5分の1から約3分の1もが死亡した、「黒死病」と呼ばれる14世紀のペストの大流行を含め、14世紀から19世紀初頭まで間歇的(かんけつてき)に続いた世界的流行では、主にヒトに寄生するノミとシラミが細菌を媒介していたとの研究結果が出されているところだ。
記録が残っている世界最古のペストとしては、543年にエジプトで発生したものがあるという。この時、北アフリカ、ヨーロッパ、南アジア、中央アジアで人口のかなりが死亡したとされるのだか、なにしろ古い時代のことなので、はっきりしない部分が多い。
次いで、14世紀に前代未聞のピークがやってきた。その時の世界的流行は、当時は有効な治療法も薬もなかったため、これほどの人口が死亡したと推測されるのだが、1346年に発生したペストでは、特に感染の地域的な拡大が急であったらしい。堀米庸三氏によれば、その感染の経路は次のようものであったという。
「今日明らかにされているところでは、死神は1347年にクリミア半島南岸のカッファから黒海、コンスタンティノープル、エーゲ海、イオニア海を渡ってシチリア半島のメッシナに到着した。いうまでもなくこれは当時の地中海貿易の一コースである。つまりペストは商船に乗り、貿易路に沿って来襲してきたのだ。病魔は、商船の無許可同乗者である鼠どもの、そのまた無断寄生者である虱(シラミ)とか、病人の咳、痰(たん)や衣服のなかににひそんでいたのである。
ペストはメッシナからさらにイタリア半島の西岸沿いに北上して、ピサ、ジェノアの都市をおかし、ここから二手に分かれ、次第に勢いを増しつつ、一つはアルプス越えにヨーロッパ内陸部に入り込み、他の一つはそのまま地中海沿岸を西に航行してマルセーユに到着した。その年のおしつまったころのことであった。
翌1348年、いよいよ死神はその本性を発揮しだした。ローヌ、ソーヌの川をさかのぼって北上し、またその他のありとあらゆる交通路を利用してフランス全土をおかし、スペイン、ドイツを洗い、さらには北欧スカンディナヴィアへとまたたくまに伝搬していく。もはや犠牲者は一部の商人だけではない。身分と階級を問わず、王侯貴族も、聖職者も、農民も、すべてこの死神からのがれる確実なすべを見出すことができなかった。」(堀米庸三責任編集「世界の歴史」3中世ヨーロッパ、中公文庫、1974)
その時の世界的流行は、当時は有効な治療法も薬もなかったため、これほどの人口が死亡したと推測されるのだが、1346年に発生したペストでは、特に感染の地域的な拡大が急であったらしい。
そのことが後の人口数にどのくらいの影響があったのかについては、よくはわからない。一説には、1500年頃のフランスの人口が1640万人、同じ頃のドイツは1200万人、イギリスは1570年頃410万人位であったという。また、ヨーロッパの総人口としては、1500年頃8180万人位であった推計されている(米田治・東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶応義塾大学通信講座教材、1988)。都市部の推計もなされていて、「人口10万以上の都市は1500年頃にはコンスタンチノープル、ナポリ、ヴェニス、ミラノ、パリの五市を数えた」(同)といわれる。
(続く)
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141『自然と人間の歴史・世界篇』三圃式農法
中世ヨーロッパにおける新たな農法は三圃制農法(さんぽしきのうほう)といい、アルプス以北で普及したが、特にフランスやイギリスで発展を遂げていく。これには、8世紀を迎えるまでに農具の改良、中でも車をつけた重い鋤(すき)普及したことと関係があったらしい。一説には、この鋤きは、6~7世紀頃にスラブ民族によって西方に伝えられたという。これを用いるには、8頭の牛にひかれる重い鋤に合うように、畑は細長い帯状に分割される必要があったのだと。
カロリング朝が始まる頃の西ヨーロッパには、既に三圃制をとっている地方が幾つもあった。なお、ここにカロリング朝というのは、メロヴィング朝に次いでフランク王国2番目の王朝にして、元は宮宰(宰相)ピピン3世(小ピピン)が、751年にメロヴィング朝を倒して開いた。「カロリング」という名称はピピン3世の父、カール・マルテル(姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかったといわれる)にちなむ。
次に、この三圃制農法のやり方だが、それ以前には、耕地を2分して一年おきに耕作していたという。それだと、深く掘り返した土壌を有効活用できていなかった。新たな農法は、全体を3つに分ける。秋蒔き、春蒔き、休耕地とし、これを回転させていく。輪作の一種といえよう。これだと、連作による地力の消耗を防ぎ、地味を養い続けることができて、凶作を免れやすい。具体的には、夏作物 (大麦、からす麦、じゃがいも、豆類など) と冬作物 (小麦、ライ麦など) の作付けにあてる。
休閑地には、家畜 (牛、馬、羊、豚など) を放牧するという、農耕と牧畜の合わせ技であった。休閑地に牧畜で出る糞尿を肥料として用いることで畑の地力の回復をはかる工夫も加わる。さらに、これらに合うように農具も発達していき、あわせて生産性が増し、生産高が増えていく。
人口が増加してくると、休閑地の縮小や廃止の必要が生じることもあり、そのような場合は休閑地にクローバーや根菜類が作付けされる改良三圃式が生れたりする。休閑地を設けずに輪作をすることにもなっていったりで、あれやこれやの工夫が施されることにより、全体としてより集約的な農業へと発展していく。
この農法は、イギリスにおいても取り入れられていく。ひいては、ヨーマン(独立自営農民)を有力階級に成長させ、後のイギリス革命の原動力の一つともとなっていく。その次第については、なかなか一直線にはすすんでいかなかったようだが、方向性自体は幾つかの説明がなされているので、ここではその一つを紹介しておこう。歴史学者の堀米庸三氏は、こう説かれる。
「11世紀における経済の復興。外民族の侵入がやみ、ヨーロッパの各地に封建制度にもとづく新しい国家が成立した11世紀、ヨーロッパの様相は急速に変わってくる。社会の安定は人口を増加させ、人口増加は耕地の拡大をひきおこした。大体11世紀の半ばから、13世紀半ばまでは、大開墾の時代といわれ、森林や荒れ地が開かれ、沼沢地(しょうたくち)が干拓されて、前期封建社会の特徴だった人間集団の孤立状態は終わった。耕地の拡大はヨーロッパ内部だけではなく、ドイツの東方では、人口希薄なスラヴ人地帯に向かうドイツ人の大規模な東方植民事業がおこった。これは住地の拡大ばかりではなくヨーロッパ文化の拡大をともなったところの、中世ドイツ人の最大の事業だった。
人口の増殖、耕地の拡大は、農地の集約化つまり一種の輪作法である三圃農法の普及をともなって、農業生産の能率をたかめた。それは他方で、従来農村とあまりちがわなかった都市を商工業中心の都市に変え、場合によっては農村を都市にまで発展させる原動力だった。」(堀米庸三責任編集「世界の歴史」3中世ヨーロッパ、中公文庫、1974)
ヨーロッパで広がったこの三圃農法はその後も続いたが、18世紀のイギリス産業革命期には新たにノーフォーク農法という四輪作法が生まれてくる。19世紀以降はさらに機械化を伴う大規模な農法が展開されるようになり、三圃制農法は姿を消していく。
(続く)
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