♦️379『自然と人間の歴史・世界篇』独占資本主義の時代

2018-03-28 21:48:15 | Weblog

379『自然と人間の歴史・世界篇』独占資本主義の時代

 独占資本が主導する経済においては、新機軸による労働生産性の上昇は、最低資本量の増大と表裏一体で進むことから、かれらによる市場の独占的支配が強まる。これによる参入障壁の形成は産業部門間の資本の自由な移動を制限し、新産業を除いては企業の新設率が低下するとともに、新産業への創業投資もそのままでは独占資本によるものが主流を占めるにいたる。そして生産力の拡大は、既存の大企業の手で彼らの思いのままに行われる傾向が強まるであろう。
 かれらには、相互の価格引下げ競争よりも、参入障壁の許容するかぎり独占価格を維持しようとの意思がはたらく。技術進歩による生産費の低減を製品価格に反映して相互に競争し、販売市場の拡大をはかるよりも、価格・コスト比率の変化を通じて売上げ組利潤を拡大しようとするだろう。そうなれば、既存企業による新投資は、それのもらたす生産能力の拡張分に見合うだけの需要増加の見通しが生まれないかぎり行われにくくなる。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️711『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(~クーデターへ)

2018-03-28 21:30:22 | Weblog

711『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(~クーデターへ)

 1991年の1月から3月にかけては、「ソ連邦大統領とロシア最高会議議長の対立の絶頂期」と言われる対立が顕在化していた。具体的には、1991年1月に入ると、リトアニア及びラトビアへの軍事介入、マスコミへの検閲の一部復活やKGBの経済活動取締り権限の強化等の強権的措置が実施されるようになっていく。
 そして迎えた1991年1月、これに対してソ連はソ連軍をリトアニアの首都に進攻させ、多数の戦車を動員して放送局などを攻撃・占拠する。こうしたゴルバチョフ政権の保守化傾向に対し、3月には炭鉱ストライキが全土に拡大して同政権の退陣を要求する動きを見せる。
 これらを受けて、1991年3月12日、連邦の是非を問う国民投票がおこなわれる。
 「あなたは、いかなる民族の人間であろうと全面的に権利と自由が保証される刷新された、平等の主権共和国の連邦としてのソビエト社会主義共和国連邦の維持を必用と考えるか?」
 これに対する「賛成」の回答が「反対」を上回る。この国民投票の意義については、つぎのように言われている。
 「ぺレストロイカの社会主義的から次第に離反していったことと関連する矛盾に、1990年夏からは中央対共和国の矛盾が加わり、連邦の維持と廃止をかけたたたかいが火花を散らす。その頂点が1991年3月12日の国民投票であった。」(M・ゴルシコフ(ロシア独立社会民族問題研究所)著、佐藤利郎・村田優訳「エリツィンとゴルバチョフ-1500日の政治対決-」新評論、1993へのM・K・ゴルシコフとL・N・ドブロホトフの解説「政治闘争と諸民族のドラマ」)
 1991年6月12日には、野心家のエリツィンが、ソ連邦ロシア共和国の大統領選挙で同共和国の大統領に選出される。
 他方、こうした混乱状況に対して保守派は、ゴルバチョフ政権に圧力をかけて、全土に非常事態宣言を布告し、場合によってはより強力な政権の下で連邦制の「鉄の団結」の回復に乗り出そう、との姿勢を強める。
 保守派のこうした全面的な復権の動きを懸念したエリツィン議長等急進改革派は、ゴルバチョフ政権と協調する方向に転換する。同年1991年3月17日の連邦制維持の是非を問う全連邦レベルの国民投票には、ロシア共和国を始め9共和国が参加する。バルト3国等独立派の6共和国は不参加であった。
 この選挙で、投票者の76%(有権者の61%)が提案に賛成票を投じた。1991年4月23日にはこの9共和国代表と連邦大統領との間で共同声明(9+1合意)が発表され、連邦の緩やかな再編成を目指す話になる。この合意の下で,新連邦条約の草案が数回にわたって修正され、最終案が1991年8月20日に連邦とロシア、カザフ、ウズベクの各共和国との間で調印開始される運びとなっていた。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️712『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(1991年8月19~24日、クーデターとその失敗)

2018-03-28 21:27:09 | Weblog

712『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(1991年8月19~24日、クーデターとその失敗)

 しかし、この新連邦条約の最終案は、軍事・安全保障上役の策定や財政運営などの面で、当初の草案に比べ共和国の権限が著しく強化されていると見られる。このことから、このままでは連邦の主要な権限のかなりの部分、特に保守派が有していた軍事やそれに関連する三軍複合体への行政権限、さらにその基礎にある主要国営企業に対する彼らの支配力が共和国に移されるか、弱体化して保守派としての権力基盤を失ってしまうとの危機感を覚えたのであろう。
 そして迎えた、この新連邦条約の調印の前日である1991年8月19日、保守派は、クーデターを決行するにいたる。1991年8月21日、健康状態悪化の理由ということにして、ゴルバチョフ大統領をその職からおろし、国家非常事態委員会が権力をモスクワに戒厳令を発令し掌握するのであった。これに対し、エリツィンらは同委員会が違法であると宣言、ソ連人民代議員大会の召集を要求する。
 3日後の8月24日、このクーデターは失敗する。エリツィン・ロシア大統領が、ソ連のあらゆる執行機関を自分の直轄下に置く大統領令を公布する。またこの日、エリツィン・ロシア大統領は、ソ連共産党と国家保安委員会(KGB)の公文書の差し押さえを命ずる大統領令を公布する。エリツィン大統領はまた、治安維持のため、ロシア共和国が連邦連邦政府の通信手段を管理すると言い放つ。さらに同じ8月24日、ロシア共和国がエストニア、ラトビアの独立を認める。
 同じ1991年8月24日、ゴルバチョフ最高会議議長がソ連邦共産党の解散を宣言する。また、ソ連共産党の資産を厳格な管理の下におく大統領令を公布する。
 その骨子は日本の各紙によれば、次のとおりであった。
「一、ソ連共産党の資産を各くレベルの議会の管理下に置くとともに、今後それをどう使用するかは、所有および社会的団体に関するソ連邦および共和国の法律を厳守して解決される。
 一、現行の法律に従い、各レベルの議会は活動を停止する党委員会の職員の就職と社会保護のための措置を講じる。法擁護機関その他の国家機関は、市民の権利のいかなる侵害もゆるしてはならない。」
 これを境に各共和国は相次いで独立宣言を行い、9月6日にバルト3国は独立を達成する。これにより保守派による改革の妨害という障害はなくなったものの、1922年以来のさしもの筋金入りの連邦制もまるごと一挙に崩壊してしまった。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️713『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(クーデター後)

2018-03-28 21:22:33 | Weblog

713『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(クーデター後)

 このクーデターの「3日天下」での失敗後、政治情勢は一気に急転していく。大まかには、クーデターの反動で共産党・保守派は壊滅状態に陥っていく。すなわち、これを境に各共和国は相次いで独立宣言を行い、9月6日にバルト3国は独立を達成する。これにより保守派による改革の妨害という障害はなくなったものの、1922年以来のさしもの筋金入りの連邦制もまるごと一挙に崩壊していくのだ。
 それにしても、この政変はその実行グループの意図がどうであれ、なぜにあっけなく崩れることになったのだろうか。考えるに、クーデターを起こした人々には、政治的な誤算があった。一つは、ゴルバチョフやその政府に圧力をかければ自分たちに従うだろうとの見通しを持っていたのではないか、今ひとつは政治的、軍事的な面で用意周到さを欠いていたのではないか、旨の指摘がある(このあたりを伝える参考文献として、例えば、パーベル・パラチェンコ著・濱田徹訳「ソ連邦の崩壊ー旧ソ連政府主任通訳官の回顧」三一書房、1999)。
 いずれにしても、このクーデターの失敗は、それまでゴルバチョフ政権の下で続いていた改革の、玉石混合もろともでの瓦解を一挙に押し進めることになる。
 話を戻して、クーデター後のおよその動きの紹介にもどろう。1991年10月1日、13の主権国家の首脳がアルマータで会談、ラトビア以外は経済共同体条約に調印する。ヤブリンスキー案の実施を求める勢力が主導権を握る1990年7月のヒューストン・サミットで指示され作成されたIMF(国際通貨基金)の調査報告書はシャタリン案をベースとしている。
 ソ連邦に属した独立国家内で中央からの分離を志向する改革が進む。1991年9月、バルト3国の完全独立と新しい連邦の形成が模索され、連邦暫定内閣・国家経済対策委員会のヤブリンスキー副議長から「経済同盟」条約案が提案され、連邦の最高機関である国家評議会で採択される。
 しかしながら雪崩の如き社会主義国家体制の政治的後退はおさまらず、1991年12月、連邦解体はウクライナの連邦離脱表明で緊迫化しました。このとき、エリツィン・ロシア共和国大統領はゴルバチョフの主権国家連邦を引っ込めて、ロシア、ウクライナ及びベラルーシ3国、つまりスラブ民族による独立国家共同体の創設に切り替えて、3国の合意をとりつける。1991年末、ソ連、ロシア共和国とウクライナ共和国、ベラルーシ共和国のスラブ3国がソ連邦の解体を宣言する。
 経済面では、1991年の通年でみた統計の困難も浮き彫りになっていく。この年の1~12月の国民総生産の伸びは17%のマイナスを記録するのであった。生産国民所得の伸びは15%のマイナスでした。工業生産高は全体で7.8%のマイナス、内訳は生産財、消費財とも明らかではない。農業生産高については7%のマイナス。社会的労働生産性と投資は正確な記録が見当たらない。小売物価指数は86.0%の大幅な上昇、貿易量は38.5%の減少を記録する。(拙ブログ『ソ連・ロシアの政治経済社会の歩み』)

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️714『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の国民投票(1991年3月)

2018-03-28 21:16:45 | Weblog

714『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の国民投票(1991年3月)

 1991年の1月から3月にかけては、「ソ連邦大統領とロシア最高会議議長の対立の絶頂期」と言われる対立が顕在化する。
 これを受けて、1991年3月12日、連邦の是非を問う国民投票がおこなわれる。
「あなたは、いかなる民族の人間であろうと全面的に権利と自由が保証される刷新された、平等の主権共和国の連邦としてのソビエト社会主義共和国連邦の維持を必用と考えるか?」
 1991年3月17日連邦維持の賛否を問う国民投票の結果では、投票者の約76%が連邦維持に賛成票を投じる。ここでバルト三国の様に独立志向が強い共和国では、投票をボイコットする。これに対する「賛成」の回答が「反対」を上回る。
 この国民投票の意義について、M・ゴルシコフはつぎのように言っている。
 「ぺレストロイカの社会主義的から次第に離反していったことと関連する矛盾に、1990年夏からは中央対共和国の矛盾が加わり、連邦の維持と廃止をかけたたたかいが火花を散らす。その頂点が1991年3月12日の国民投票であった。」(M・ゴルシコフ(ロシア独立社会民族問題研究所)著、佐藤利郎・村田優訳「エリツィンとゴルバチョフ-1500日の政治対決-」新評論、1993へのM・K・ゴルシコフとL・N・ドブロホトフの解説「政治闘争と諸民族のドラマ」)
 この国民投票結果を受けて、新連邦条約に基づき、連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と、連邦の再編が行われる予定であった。ところが、1991年8月、それらによりソ連崩壊に結びつくことを危惧した「保守派」のクーデター未遂事件(3日間で崩壊)によってその予定が崩壊してしまう。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️715『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連から15の共和国へ

2018-03-28 21:12:16 | Weblog

715『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連から15の共和国へ

 1991年8月の「保守派」のクーデター未遂事件(3日間で崩壊)に直面し、その後のソ連は大変革の時代へと移って行く。まずは、ソ連邦議会は、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の独立を承認する。これより先1990年3月、バルト3国であるリトアニアとエストニアが、同年5月にはラトビアがソ連邦からの独立を宣言していた。バルト3国が実際に独立したのは、1991年8月のことである。
 それでは、これらのバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を除く12ヶ国の動向はどうなっていったのか。結論からいうと、同年1991年12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシが「ベロベージ合意」にいたる。彼らは、ソ連邦から独立してCIS(Commonwealth of Independent States: 独立国家共同体)を創設するという。
 具体的には、こういうことであった。1991年12月7、8日、ロシア、ウクライナとともに独立国家共同体創設協定を締結する。この日、ベラルーシにある原生林、そこに所在のヴィスクリの政府別荘にて、この3国の首脳が秘密裏に会合する。この会議に集まったのは、ロシア共和国大統領のエリツィン、ウクライナ大統領クラフチューク、ベラルーシ共和国最高会議議長シュンシュケヴィチの3首脳とその側近であった。
 彼らは、ロシアによるウクライナとベラルーシへの石油・天然ガスの供給について相談するのを名目に、実は主題はそれではなくて、ソ連邦を解体に追い込む相談なのであった。
 この会議では、エリツィンによる筋書きどおりでということか、8日には歴史的な文書に調印がなされる。俗に「ベロヴェージ協定」と呼ばれるこの協定は、二つのことを決める。第一に国際法と地政学的現実としてのソ連邦の存在は消滅した。第二に、CIS(独立国家共同体)を構成すると。それまで12の共和国がソ連邦に残っていたのだが、この3か国を除く残りの9か国とソ連邦大統領のゴルバチョアは、彼らの密議の外に置かれる。 ソ連邦の憲法では違法であっても、「もはや従う必要はなくなった」と見くびったのであろうか。こうなると、ゴルバチョフらソ連首脳にとっては、自分たちのあづかり知らないところでソ連邦の解体が決まってしまう。ソ連という連邦国家の基礎部分が瓦解していく訳であるから、唖然としたのではないか。ソ連政府の存在基盤そのものが、これより崩壊へと向かうのであった。
 残る旧ソ連諸国9カ国も、1993年までには独立してCISに加入したことでCISは合わせて12か国となり、15の共和国から成り立っていたソビエト連邦はここに完全に解体する。これにかわってCISが拡大する。この加盟国は、最大の領土と人口をもつロシア以外に、EUに接する3カ国(ウクライナ、ベラルーシ,モルドバ)に加え、中央アジアの5カ国(カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギス)、それにコーカサス地方の3カ国(グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア)となる。
 そして迎えた1991年8月24日夜、ゴルバチョフ・ソ連大統領は、大統領声明を発表する。それには、こうある。
 「一、ソ連共産党中央政治局、書記局は、クーデターに反対する行動をとらなかった。中央委員会はクーデターを批判し反対する断固たる態度をとらず、憲法的合法性の蹂躙に反対するたたかいに党員を立ち上がらせなかった。陰謀家の間には党指導部のメンバーが含まれ、一連の党委員会やマスメディアは、国家犯罪人の行動を支持した。これによって幾百万の党員はどっちつかずの状態に立たされた。
一、だが、多くの党員は陰謀家との協力を拒否し、クーデターを非難して、それに反対するたたかいに加わった。だれもすべての党員を無差別に非難する道徳的権利はない。そして、大統領として私は、市民を根拠のない非難から守ることを自分の義務と考えている。
 一、このような状況においてソ連共産党中央委員会は解散という困難ではあるが誠意ある決定を採択しなけれじならない。
一、共和国共産党および地方党組織の将来は、自分自身で決定することになる。
一、私は、ソ連共産党中央委員会書記長の職務をこれ以上務めることを不可能と考え、関係する権限を返上する。
一、憲法的合法性を維持している民主主義的傾向の党員たちが、社会刷新の方針に沿って新しい基盤に立ち、党の結成に立ち上がることを確信する。その党は、すべての進歩的勢力とともに、働く人々のため、根本的な民主的改革に積極的に参加することができる党である。」
 1991年12月25日、ゴルバチョフ・ソ連邦大統領が中央テレビを通じ辞任の演説をおこなう。その一節には、こうある。
 「独立国家共同体の結成に伴う事態から、わたしは自らのソ連大統領職の活動を停止する。私はこの決定を原則的考えから下す。」
 「原因はすでに明らかであった。社会は指令・官僚制度の圧迫で窒息しそうだ。イデオロギーに奉仕し恐ろしい軍拡競争の重荷を背負う運命にあった社会、これは限界にあった。」
 これと同じ1991年12月25日、ソ連邦が崩壊し、ロシア連邦共和国が設立される。初代の大統領には、ポリス・エリツィンが就任する。ロシア連邦の21共和国の構成は次のとおり。その名は、アドゥイゲ、アルタイ、イングーシ、ウドムルト、カバルダバルカル、カラチャイチェルケス、カルムイク、カレリア、北オセチア、コミ、サハ、ダゲスタン、タタルスタン、チェチェン、チュバシ、トゥバ、ハカシア、バシコルトスタン、ブリヤート、マリエル、モルドビアである。これらのうちタタルスタンとは、ロシア連邦西部にある共和国であり、住民の約半分がタタール人(モンゴル系)だ。中国でいう「韃靼(きったん)」の呼称はここから来ている。のちモンゴル民族全体の呼称となる。タタール人の大部分はイスラム教徒なのだが、一部にはギリシア正教の信者もいるるとのこと。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️8『自然と人間の歴史・世界篇』太陽系惑星(水星など)

2018-03-28 10:06:57 | Weblog

8『自然と人間の歴史・世界篇』太陽系惑星(水星など)

 金星は、太陽系で太陽に近い方から2番目の惑星である。また、地球に最も近い公転軌道を持つ惑星である。地球から見ると、金星は明け方と夕方にのみ観測でき、太陽、月についで明るく見える。明け方に見えるのが「明けの明星」、夕方に見えるのが「宵の明星」と言い分けられるところだ。
 ここに天文単位(AU)というものさしがあって、より内側の水星が0.39、直ぐ外側の地球が1AU、そのまた外側の火星が1.52AUなのに対し、金星のそれは0.72AUとなっている。これらの配置加減は、「ケブラーの第3法則」に従う。また、この惑星は、「地球型惑星」とか「地球の姉妹惑星」と表現される。これは、太陽系内で大きさと平均密度が最も地球に似ているためだ。金星の半径は地球の0.95倍、質量は0.82倍だと推定されており、まさに地球と同じ岩石惑星なのだ。
 それなのに、金星には地球のような生物環境は存在していないと言われている。その要因としては、やはり温度と水、それに生物が呼吸に必要とする酸素などであろうか。
 金星には非常に厚い大気があり、そのほとんどが二酸化炭素であるとのこと。そのため某かの二酸化炭素による温室効果がはたらくであろう。また、金星の表面の温度は昼も夜も摂氏460度と、太陽により近い水星よりも高いというから驚きだ。
 大気中には硫酸の粒でできた雲が広がっているともいわれる。その厚さは、何キロメートルもあるらしい。その雲にさえぎられて太陽からの光が直接地表に届くことはない。雲から硫酸の雨が降っても、地表があまりにも高温なため、地表に達する前に蒸発してしまうと考えられている。おまけに、金星の大気の上層では、秒速100メートルもの風が吹いている。
 この生命起源の観点からは、現在までの、太陽系の条件をあてはめた計算により、軌道半径0.6~0.8AUの間に、地球型惑星の初期進化の明暗を分ける境界があるのではないかと推計されている。ただし、「(現在の知識に不確定要素があり、位置は細かくしぼれていない。惑星のサイズはあまり影響しない)」(「地球と金星の明暗を分けたものとは?」:雑誌「ニュートン」2013年8月号)との注釈が付けられている。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


♦️18の5『自然と人間の歴史・世界篇』石器時代

2018-03-28 09:03:15 | Weblog

18の5『自然と人間の歴史・世界篇』石器時代

 初期の人類社会の発展を語ろうとするとき、その各々のときに、ヒト及びその集団ないし社会でどのような石器使われたかを調べ、そのことで社会の構成をおしはかることが行われてきた。

 ここに ヒトというのは、現代にては生物学的分類がなされていて、それによると、「界」は動物界、「門」は脊索動物門ー脊索動物亜門、「綱」は哺乳類、「目」はサル目、「科」はヒト科、「属」はホモ属、それから「種」はサピエンスという流れであって、私たち現生人類は「ホモ・サピエンス」という。

 そこで彼らが使っていた石器というのは、道具であって、ただの石を使うなら現在のアフリカの森に生息するチンパンジーでも、くるみを割るなりして用いている。

 しかし、人類が日常生活において使うということでは、相当に異なっていたのではないだろうか。いうなれば、そこでは、それなりの工夫がなされていなければならない。例えば、こんな報告が成されている。
 「現代人の直接の祖先は約10万年前にアフリカ大陸に出現したとされる。だが、現代人がもっているような複雑な思考回路がいつごろにできたのか不明だった。
 南アフリカ、ケープタウン大学のブラウン博士らは、南アフリカの旧石器時代の遺跡(約7万1000年前)から出土した「細石器」を分析した。細石器は長さ5センチメートル未満の石器で、約4万年前にアフリカやユーラシアでよく使われていた。

 分析の結果、発見された細石器は、過熱処理という高度な技術で、もとになる岩からはがされていたことがわかった。博士らによると、現代のアフリカの民族での事例から類推して、当時の細石器は矢の先端に装着するやじりとして使われた可能性が高いという。」(「複雑な思考回路の証拠ー南アフリカで7万年前に、精巧な狩猟具がつくられていたようだ、natute、2012年11月22日号」:雑誌「ニュートン」2013年3月号)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆