♦️676の1『自然と人間の歴史・世界篇』アポロ計画(月着陸までの経緯、研究開発)

2018-12-02 21:54:54 | Weblog

676の1『自然と人間の歴史・世界篇』アポロ計画(月着陸までの経緯、研究開発)

 アポロ計画というのは、ケネディ大統領の時代のアメリカで始まった。それは、1961年5月25日のことで、ケネディは、ソ連のユーリ・ガガーリンの宇宙初飛行の1ヶ月後に、ソ連に対する技術的優位を示すためにもという気概で、演説を行う。その一説には、こうあった。

We choose to go to the moon. We choose to go to the moon in this decade and do the other things, not because they are easy, but because they are hard, because that goal will serve to organize and measure the best of our energies and skills, because that challenge is one that we are willing to accept, one we are unwilling to postpone, and one which we intend to win, and the others, too.

 アメリカが国を挙げて目指したのは、ソ連に先んじて、ドイツ人ロケット開発者フォン・ブラウンの夢である「人間が月に行くこと」であったという。この構想については、フランスのSF作家 ジュール・ベルヌの小説「月世界旅行」に由来してのことだと聞く。

 この演説で、ケネディは、「1960年代中に人類の月面上陸及び安全な帰還する」ことを議会と国民に宣言するのであった。以後、膨大な予算と人員を投じての一大国家プロジェクトが取り組まれていく。

 この計画においては、ピラミッドの形をした構想の頂点に月への着陸と月面探査があり、それをなし遂げるために諸計画が立てられていた。

 それらの名は、マーキュリー計画、ジェミニ計画が主なものであって、アポロ計画と同時並行で進めていく。その際、マーキュリー計画というのは一人乗り宇宙船で地球を回る技術をいい、その次にジェミニ計画というのが乗っかっていくのにあった。

 特にジェミニというのは、双子座で二人乗り宇宙船を意味した。2人が同時に最大2週間宇宙飛行することが目指された。具体的には、宇宙空間でランデブーやドッキングする技術を開発していく。それらの基礎固めが成った後に、ようやく月に向けてアポロ計画としての3人乗り宇宙船の開発が完成に向かっていくというもの。

(続く)

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♦️156の2『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国(チンギス・ハン後)

2018-12-02 20:50:09 | Weblog

156の2『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国(チンギス・ハン後)

 1229年、クリルタイといって、モンゴルの部族長による大集会において、チンギス・ハンの息子のオゴタイが2代目のハン(ハーン、カン、カーンまたはハガン、カガンともいい、遊牧民族の長の意味。漢字では汗の字をあてる)となる。モンゴル帝国においては、ハンの選出や、遠征軍の派遣などの重要政策は、クリルタイで決定されていた。
 彼が2代目となってからは、征服地の施政と法の整備、駅伝制(ジャムチ)の採用、中央政府である中書省の設置など、国家体制をだんだんに強化していった。
 1234年、オゴデイ・ハンは金(きん、中国読みでジン)を滅ぼす。この金は、女真族(じょしんぞく)が1115年、遼(中国読みでリアオ、907~1125)から独立して建てた国であり、中国の東北部から華北にかけて支配していた。

   翌1235年、モンゴルは、オルホン河畔のカラコルムに都を建設した。1235年、チンギス・ハンの孫バトゥがロシアまでの遊牧民の世界を目指す。まずヴォルガ川流域のヴォルガ・ブルガールに向かう。その軍団は、過酷な遠征をものともしない勢いがあったのだろう。

 1237年にはキプチャク族、1240年にはキエフ・ルーシ諸侯国を征服した。1241年、モンゴル軍はポーランド王国攻め、ワールシュタットの戦いに勝つ。バトゥの率いる部隊はハンガリー王国に侵攻する。翌1242年、オゴデイ・カアンが死去したため、バトゥは遠征を中止し、モンゴル征西軍は帰還を余儀なくされた。1246年、グユクが第3代カアンに即位するが、1248年にそのグユクが病気で死去する。
 1250年、ジョチ家のバトゥはトルイ家とともにクリルタイを招集し、チャガタイ家・オゴデイ家が反対する中、トルイの子モンケをハン位に推戴(すいだい)した。モンケ・カアン、は反対派であるチャガタイ家とオゴデイ家を弾圧し、その領地と軍隊を没収した。1253年、モンケ・ハンは弟のクビライに雲南征服を命じ、大理国(937年にチベット系のペー族出身の段思平が建国)を滅ぼした。

  1256年、モンケは、弟のフレグに西アジアのペルシア遠征を命じる。1255年には、それまでの功労者のバトゥが死去する。フレグが1257年にイラン高原に向かい、1257年にはイランの行政権を獲得し、イルハン朝((フレグ・ウルス)が成立する。

  そして迎えた1258年には、バグダッド(現在のイラクの首都)を占領してアッバース朝(750年に建国し、アラビアを支配していた。ムハンマド・イブンの叔父の家系であるアッバース家がカリフであった)を滅ぼした。同じ年、モンケ・ハンは自ら南宋(中国語でナンソン、1127~1279)遠征に乗り出す。1259年、朝鮮半島の高麗(コマ)を服属させる。しかし、この年の合州包囲中に疫病にかかり、陣中で病死した。

  ここにいたり、全体としてのモンゴルは、古代ローの帝国と並んで、史上最大規模の勢力となっていた。

(続く)

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♦️156の1『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国の成立(チンギス・ハン)

2018-12-02 20:41:44 | Weblog

156の1『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国の成立(チンギス・ハン)

 テムジン(1162または1154もしくは1155~1227)は、1167年には父イェスゲイ・バートルがタタールに殺されると、父の後を継ぐ。父の盟友であるトオリル・ハンに援助を求め、承諾される。苦難をものともしない覇気があったのであろう。独り立ちしてからの青年テムジンは、1189年には手塩にかけてきた兵たちと共にモンゴル草原に頭角を現し、21にのぼる士族の長やその兄弟たちが「青い湖」のほとりに集まっての部族連合の会議でその長となる。

1197年には、新たにワン・ハーンと組んでメルキトを破る。続く1199年には、ワン・ハーンと組んでナイマンを破る。さらに1200年には、ワン・ハーンと組んでタイチウトを破る。そのテムジンが、1201年には単独の勢力でジャムカを、1202年にはタタールをそれぞれ破る。さらに1203年には、ともに戦ってきていたワン・ハーンと戦い、これを破る。

1206年、テムジンがモンゴル高原西北部を統一した。自らをチンギス・ハンと称す、これが、第二次の即位ということになっている。1208年までには、中世モンゴル語でイェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)を建国する。ここに「ウルス」とは、「領民」の意味だという。1209年には、モンゴル軍が西夏を降し、ウイグル国を従える。

 1214年、チンギス・ハンの率いるモンゴル軍が南へ侵攻、金の国都を囲む。モンゴルは金と和議を結んで、金は中都(現在の北京)から開封に遷都する。1218年には、その中都を陥落させる。この年、西夏を再び討ち、西夏の王は西涼に逃げる。

同じ1218年、カラ・キタイ(西遼)を征服し、1219年からは中央アジア遠征を開始して、1222年までにイスラム王朝であるホラズム・シャー朝を壊滅させた。1220年には、ブハラ・サマルカンドなどを陥落させる。その際、は向かう者には容赦なく、皆殺しをためらわなかったとされる。1221年、バーミヤンを攻めとる。また、ジャラール・ウッディーンをインダス川に破る。1225年に、モンゴルに凱旋する。1227年、シルクロードにあって建国(1032年)し、独特の文字を持っていた西夏(せいか)を滅ぼす。この年、後半生を戦いに明け暮れていた、何よりも全モンゴルの屋台骨を支えていたチンギス・ハンが死去する。

 

(続く)

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