♦️310の3『自然と人間の歴史・世界篇』ピータールーの虐殺(イギリス、1819)

2018-12-05 18:31:32 | Weblog

310の3『自然と人間の歴史・世界篇』ピータールーの虐殺(イギリス、1819) 

 イギリスの産業革命の本拠地と言えば、マンチェスターとリバプールであろうか。1845年時点のこの両市について、フリードリヒ・エンゲルスはつぎような状況があったのを報告している。

 「もとより貧困につきものの無知・非行・犯罪、それに性的放縦や売春などの道徳的頽廃などが一方に蔓延し、こうした社会的病気と肉体的病気との相互関係も無視できない。さらに正当な医療を受けられない貧民が安直に服用する有害な売薬によって身体を損なっている事実さえあらわれている。そしてとりわけ労働者の健康を悪化させる重要な条件として、飲酒癖がある。一八五〇年、マンチェスターには四〇万の住民にたいし、一六〇〇軒の酒場があったという。」

 「リバプールでは、一八四〇年には上流階級(紳士階級、自由職業者等)の平均寿命は三五才、商人と上層手工業者のそれは二二才、労働者、日雇労働者および僕婢階級一般はわずかに一五才にすぎなかった。」

 「上流階級の子供たちは、わずかにその二〇パーセント、田園地方の全階級の平均では全体の三二パーセント弱が死亡しているにすぎない。」

 「マンチェスターでは労働者の子供の五七パーセント以上が五才未満で死亡している」のである。生まれながらの虚弱な体質、劣悪な生活環境、家族の過重な工場労働、これが都市労働者のあいだに生まれた幼い命を容赦なく奪っていき、その結果が平均寿命一五才という恐るべき数字となってあらわれたのである。」

(引用は、1845年刊行のエンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」、新潮社版「マルクス・エンゲルス選集」第二巻、武田隆夫訳)

 ところで、こうした産業革命期の躍動する新興都市で、額に汗して働く人々は、いったいどのように暮らしていたのだろうか。その一端を伝えるものに、やや時代をさかのぼるが、1819年8月16日、マンチェスターでの痛ましい事件がある。

  この日、同市のセント・ピータース教会前の広場では、労働者の権利拡大の一環として選挙法の改正すること、穀物法の廃止などを求める推定6万人以上の老若男女が集まっていた。彼らの集会は、平穏に行われていた。それは、下層階級の一連の議会を通じた政治改革運動の一大頂点をなすものであったのだから。 

 そして、いよいよ主催者の「マンチェスター愛国者協会」の一人、急進派の活動家ヘンリー・ハートの登壇にさしかかったとき、それまで集会の様子を見守っていた官憲が弾圧へ動いた。当局は、志願騎士団と軽騎兵隊に断乎として参集者を追い払うように命じ、排除に取り掛かると、双方が入り乱れてもみ合う状況となり、その間に民衆側で11人がおそらくは剣に切られて、または銃で撃たれて死に、約400~600名(諸説あり)が負傷する惨事になったという。この事件を、先のフランスとのワーテルロー(英語で「ウォータールー」)の戦いをもじって、「ピータールーの惨事」もしくは「ピータールーの虐殺」と呼ぶ。

  

(続く)

 

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○237『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて2(1750~1849、日本地図など、シーボルト事件と高橋景保、最上徳内など)

2018-12-05 10:01:36 | Weblog

237『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(1750~1849、日本地図など、シーボルト事件と高橋景保、最上徳内など)

  おりしもこの時期に、シーボルト事件が起こる。これは、1828年(文政11年)、故国のオランドに帰ろうとシーボルトの乗る船が台風を受け座礁したのに始まる。積み荷の中に、幕府の天文方で書物奉行を兼ねる高橋作左右衛門こと高橋景保(たかはしかげやす、1785~1829)からもらった「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」などの禁制品のあるのが、発覚した。シーボルトには永久追放処分が下り、高橋景保は獄中で病死する。

 2019年、長崎で、シーボルト事件に係わる新史料がみつかったという。そのことを伝える記事の一つには、こうある。

 「新史料は、江戸の呉服商三井越後屋の長崎代理店を営む中野用助が11月29日付で本店に送った事件報告書を写した3枚のつづり。それによると、地図の受け渡しが「江戸表で露見」(江戸で発覚)、との連絡が11月9日夜に長崎奉行所にあり、役人が速やかに出島でシーボルトを取り調べ、禁制品を発見したとある。
 国防を脅かす事件だったが、オランダがもたらす反物を長崎で仕入れる三井越後屋の関心は貿易の継続の可不可。シーボルト個人の問題との見方をキャッチした中野は報告書で「紅毛方(こうもうかた)ニハ抱(かかわ)り不申(もうさず)」と記載。紅毛はオランダ人、方は物事を示しており、貿易への影響はないとの見通しを伝えたと解釈できる。」(西日本新聞、2019年1月20日日付け)。

 これにもあるように、シーボルトはかかる地図を入手し、オランダへ帰国する1828年(文政11年)に、禁じられている国外への持ち出しを図る。その企てが発覚し、国外追放処分になる。

 この事件には後日談がある。まずシーボルトには、事件から27年後の1856年(安政3)、「日蘭修好通商条約」が締結されるに及んで国禁も解除され、再び日本の地を踏むことができた。
 もう一つは、景保を巡る数奇な人間関係にある。というのも、彼は伊能忠敬の恩師である高橋至時(たかはしよしとき)の息子であり、忠敬の死後同図の作成を引き継いで、1821年(文政4年)に完成させた。

 しかも、その景保を密告した人物が、伊能忠敬と親交があり、忠敬の弟子(前役職の松前奉行支配調役下役格の時代、忠敬の方役職は小普請組天文方に配属)ともいえる、幕府普請役(ふしんやく)の間宮林蔵(まみやりんぞう)なのであった。

 なお、「シーボルトはもちろん事件の告発者である林蔵を快く思わなかったが、その大著『日本』において、林蔵の間宮海峡発見のことを紹介し、称賛する雅量は失わなかった」(北島正元『日本の歴史・幕藩制の苦悶』)ともいわれる。

 それから、話しを戻してもう一つ、高橋景保を中心とした幕府天文方の功績については、別の次第もあって、例えば、中村士氏の監修による著作において、こう紹介されている。
  「父から天文暦学、地理学の天才教育を受けた秀才であった。オランダ語にも通じ、蘭学の知識を活かして活躍した景保は書物奉行も兼任する。豪放な政治家肌タイプの性格で、天文方の組織を大きく発展させていく。

 その功績には大きく二つのことが挙げられる。まずひとつは、「地図の製作」である。先の章で、父の弟子である伊能忠敬の全国測量を、幕府天文方として監督するとともに援助をおこない、忠敬亡き後、さらに3年の歳月をかけ、1821年(文政4)年に『大日本沿海輿地全図』を完成させた。

 しかし、実はそれに先駆けて日本初の近代的測量技術による世界図『万国全図』の製作が景保によって行われていたのである。ロシア船が蝦夷地に来航することに危機感を強めた幕府は1807年に景保に地図の作成を命じた。間重富や翌年に長崎より江戸に招致した通詞・馬場佐十郎の協力を得て、1810年にひとまず手書き図が上程された。(中略)

 もうひとつの景保の天文方としての業績としては、1811(文化8年)年、洋書の翻訳や西洋事情を調査する部門「蛮書和解御用」(ばんしよわげごよう)を幕府に創設させたことが挙げられる。」(詳細には、中村士・監修「江戸の天文学―渋川春海と江戸時代の科学者たち」角川学芸出版、2012を参照されたい)

 ところで、シーボルトと親交を結んだ中に、幕末期の「蝦夷(えぞ)」や「樺太(からふと)」への探検家に、最上徳内(もがみとくない)がいる。彼は1754年(年)に出羽国(後の羽前国)村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)の農家に生まれる。1781年(天明元年)に江戸へ出る。数学者にして経世家の本多利明が経営する音羽塾に入門したのである。この塾にて天文、測量、航海術などを学ぶ。その彼が、当時のオランダ商館長の参府について江戸にいたシーボルトと知り合ったのは、1826年(文政9年)のことであった。その日のシーボルトの日記にこうある。
 「4月16日(旧3月10日)、本当にこの16日は特別に白い石でもって記入する日なのである。
 最上徳内(もがみとくない)という日本人が、二日間にわたってわれわれの仲間を訪れた時に、彼は数学とそれに関係ある他の学問に精通していることを示した。中国、日本およびヨーロッパの数学の種々な問題を詳しく論じた後で、彼は絶対に秘密を厳守するという約束で、蝦夷(えぞ)の海と樺太(からふと)島の略図が描いてある二枚の画布をわれわれに貸してくれた。しばらくの間利用できるというのである。実に貴重な宝ではあるまいか。」(シーボルト著・斎藤信訳「江戸参府紀行」)
 これから推すに、最上徳内という人は、なにかなかの理論と実践の両方を兼ね備えた人手であったらしい。いろんな遍歴の後、後に幕府の普請役になって食をつなぎながら、はなばなしい地図作りや鳴り物入りの冒険ではなかったのかも知れないが、蝦地や千島の探検など、数々の功績があったことで知られる。1836年(天保7年)に江戸下町の片隅で、82歳の人生を極貧の中に閉じたのだと伝えられる。 

(続く)

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○236の3『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて2(1750~1849、日本地図など、伊能忠敬と高橋至時)など

2018-12-05 10:00:31 | Weblog

236の3『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて2(1750~1849、日本地図など、伊能忠敬と高橋至時)など


 伊能忠敬(いのうただたか、1745~1818)は、現在の千葉県の九十九里町に生まれる。裕福な家ではなかったらしく、17歳の時に佐原(さわら)の、酒造を営む伊能家の婿養子となる。それからは商売の道に分け入り、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設け、また米穀取引の仲買をしていた。

その約10年後には、当初傾いていた経営を立て直したのだという。その心構えといい、商才といい、当初から秀でていたのであろう。
 それからだが、ただに商売に邁進していったのではなくて、36歳で名主となり、1783年、38歳の時の天明の大飢饉では、私財の一部をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力したのだという。
 その忠敬だが、いつからか暦学に興味をもって、勉強していたらしい。それが高じてか、1795年、50歳になったのを機会に家業を譲り、江戸へと出て行く。当時の天文学の第一人者、高橋至時(たかはしよしとき、1764~1804)の門をたたく。

当時の浅草には、星を観測して暦(こよみ)を作る幕府の天文方暦局があった。至時は、そこで改暦作業などに携わっていたとのこと。この師に相まみえて、以後彼の天文学は日々の実践で鍛えられていくことになる。
 そんな中の1797年、至時と同僚の間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させるも、地球の正確な大きさが分からず、つくりたての暦の精度に不満足だったという。地球は丸い、そこで子午線1度の長さをこの国で測ることができれば、それを360倍することで地球の一周、さらに直径がわかるというのだが、それをどのようにして測るのかが問われていた。すでに学識が一流の域に達していた忠敬は、この話を至時から聞き、できるだけ離れた2つの地点で北極星の高さを観測し、それで得られる二つの見上げる角度を比較することで緯度の差を割り出し、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せるという提案をなし、自分はこれをやってみたいと申し出る、至時は忠敬の案に賛同するにいたる。
 至時がまだ若くして病で倒れた後には、忠敬はこの仕事に邁進していく。幕府の天文方に取り立てられてからは、なお一層励み、この組織の中心となって働く。

参考までに、この仕事に用いられたのは、量程車(至時考案のもので、引いて歩いて使う、歯車の回転数で巨利を割り出せる・国宝)、半円方位盤(中央に据えられた磁石と半円の目盛りで方位を読む、国宝)、象限儀(中)(北極星などの高度を観測し、緯度の測定に用いる・国宝)、わんか羅鍼(らしん)(杖先(じょうさき)方位盤、磁石面を水平に保ち、方位や角度を測る、国宝)、測食定分儀(日食、月食の進み具合を目盛りで読む、国宝)といった測量器具であった。
 1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)まで、足かけ17年をかけて、仲間とともに全国を歩き回って測量し、後に完成の『大日本沿海輿地全図』の大方を取りまとめ、日本の国土の正確な姿を初めて明らかにする。

そんな忠敬の墓標には、「測量の命が下る毎に、すなわち喜び顔色にあわらし、不日にして発す」云々と刻まれる。また、晩年の彼が娘に宛てた手紙においては「古今これ無き、日本国中に測量御用仰せ付けられ(中略)これぞ天命といわんか(中略)」とあり、本懐を遂げたというのは、誠にこのことをいうのであろうか。
 時はさらに経過しての1842年(文政13年)になって、異国船打払令(無二念打払令)が改訂された。それまでの異国船打払令(無二念打払令)を緩和して、文化期の「撫恤令」の水準に戻し、薪水の供給をすることになった。これには、アヘン戦争などで、清国が西洋列強の餌食にされたことが背景にある。

(続く)

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