310の3『自然と人間の歴史・世界篇』ピータールーの虐殺(イギリス、1819)
イギリスの産業革命の本拠地と言えば、マンチェスターとリバプールであろうか。1845年時点のこの両市について、フリードリヒ・エンゲルスはつぎような状況があったのを報告している。
「もとより貧困につきものの無知・非行・犯罪、それに性的放縦や売春などの道徳的頽廃などが一方に蔓延し、こうした社会的病気と肉体的病気との相互関係も無視できない。さらに正当な医療を受けられない貧民が安直に服用する有害な売薬によって身体を損なっている事実さえあらわれている。そしてとりわけ労働者の健康を悪化させる重要な条件として、飲酒癖がある。一八五〇年、マンチェスターには四〇万の住民にたいし、一六〇〇軒の酒場があったという。」
「リバプールでは、一八四〇年には上流階級(紳士階級、自由職業者等)の平均寿命は三五才、商人と上層手工業者のそれは二二才、労働者、日雇労働者および僕婢階級一般はわずかに一五才にすぎなかった。」
「上流階級の子供たちは、わずかにその二〇パーセント、田園地方の全階級の平均では全体の三二パーセント弱が死亡しているにすぎない。」
「マンチェスターでは労働者の子供の五七パーセント以上が五才未満で死亡している」のである。生まれながらの虚弱な体質、劣悪な生活環境、家族の過重な工場労働、これが都市労働者のあいだに生まれた幼い命を容赦なく奪っていき、その結果が平均寿命一五才という恐るべき数字となってあらわれたのである。」
(引用は、1845年刊行のエンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」、新潮社版「マルクス・エンゲルス選集」第二巻、武田隆夫訳)
ところで、こうした産業革命期の躍動する新興都市で、額に汗して働く人々は、いったいどのように暮らしていたのだろうか。その一端を伝えるものに、やや時代をさかのぼるが、1819年8月16日、マンチェスターでの痛ましい事件がある。
この日、同市のセント・ピータース教会前の広場では、労働者の権利拡大の一環として選挙法の改正すること、穀物法の廃止などを求める推定6万人以上の老若男女が集まっていた。彼らの集会は、平穏に行われていた。それは、下層階級の一連の議会を通じた政治改革運動の一大頂点をなすものであったのだから。
そして、いよいよ主催者の「マンチェスター愛国者協会」の一人、急進派の活動家ヘンリー・ハートの登壇にさしかかったとき、それまで集会の様子を見守っていた官憲が弾圧へ動いた。当局は、志願騎士団と軽騎兵隊に断乎として参集者を追い払うように命じ、排除に取り掛かると、双方が入り乱れてもみ合う状況となり、その間に民衆側で11人がおそらくは剣に切られて、または銃で撃たれて死に、約400~600名(諸説あり)が負傷する惨事になったという。この事件を、先のフランスとのワーテルロー(英語で「ウォータールー」)の戦いをもじって、「ピータールーの惨事」もしくは「ピータールーの虐殺」と呼ぶ。
(続く)
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