130の1『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(建国など)
中国での北宋(ほくそう、中国読みはペイソン、960~1127)の建国は、戦いによるものではなかった。いわゆる「五大十六国」時代に属する後周(こうしゅう、中国読みでホウヂョウ、951~960)では、気鋭の君主・世宗が若くして病没した。あとを継いだのは、幼少の皇帝であったから、国の先行きが危ぶまれたという。
そんな中、殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤(ちょうきょういん)が、その皇帝から禅譲(ぜんじょう)を受けて建国した。部下から絶大な信頼を得ていたことがあって、北からの遊牧民勢力による脅威などに抗するには、この人物しかいないということであったらしい。
その彼は太祖(976~997)となって、着々と国造りを進めていった。温厚かつ寛容な性格があって、国内はまとまっていく。965年、後蜀を併合する。971年には、
南漢を併合する。975年、金陵(南京)を攻略し、江南を領有する。そんな太祖が志半ばで急死した後、弟の趙匡義(ちょうこくぎ、後の太宗・趙光義)が跡を継いで、979年にようやく中国の統一を果たした。
かれの時代、地方軍閥の解体を進め、中央集権を進め、また、文治政治を進め強固なものとしていく。中でも、民政の安定と科挙制度の充実を図るのを急務としていたが、なかなかできなかったようである。
1004年には、北方の遼(りょう、モンゴル系の契丹(きったん)が建国)が南下したが、真宗は遼に対して毎年財貨を贈ることで和睦した。具体的には、国境の現状維持と不戦、それに宋が遼を弟とすること、さらに宋から遼(りょう、中国読みでリャオ、907~1125)に対し毎年絹200万匹、銀10万両を送ることなどが約束された。これを「?淵の盟」(せんえんのめい)という。
1044年、西の西夏(せいか、中国読みでシーシア、1032~1227、チベット系系のタングート族が建国)が宋に対し、これも財貨を贈ることで和睦(わぼく)した。これを「慶暦の和約」(けいれきのわやく)と呼ぶ。以後、国政を整えるために、中央集権を目指すようになっていく。建国当初から、大商人・大地主の囲い込みや脱税そして役人の汚職が目立ってきていた。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆