♦️310の2『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの穀物法(1815~1846)と航海法(1651~1849)

2018-12-04 20:26:20 | Weblog

310の2『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの穀物法(1815~1846)と航海法(1651~1849)

  イギリスの穀物法は、ナポレオンの大陸封鎖で食糧輸入が厳しくなったこと、凶作とも相まって、穀物価格が高騰することがあって制定された。とはいえ、これの施行にあっては、地主階級と新興の者を含む農業資本家と、都市を中心とする新興ブルジョア階級との対立があった。

 おりしも、イギリスの勝利で終わった対ナポレオン戦争が1815年に終了すると、以前のように外国の安い穀物が輸入されれば、食糧価格は低落し、それまでの旺盛な投資の付けがまわってくるに違いなく、苦境を免れないと考えたことだろう。そこで政府に持ち掛け、穀物輸入を厳しく制限し、穀物価格を高めに維持しようともくろむ。そのことで、地主有利の状況をつくり、維持しようというのであった。

 しかし、その運用状況の推移を見ると、かえって高い食糧費のために労働者の賃金が高くつくことになったと、産業革命以来の新興ブルジョアたちの非難の的になっていく。また、労働者の運動も、穀物法に反対の旗印を鮮明にしていくのであった。

  そのうち、19世紀の半ばに差し掛かる頃には、資本主義の力というものが、この分野にもますます浸透してくる。勢い、世論は穀物法に厳しめに傾いていく。そして、ついに廃止にいたる。後年、フリードリヒ・エンゲルスは、こう論評している。 

 「穀物輸入の自由化」を要求する声はがぜん燃え広がり、反穀物法同盟はここぞとばかりにその即時実施を政府に迫った。こうしたなかでピール首相は45年10月、穀物法廃止を決断、廃止法案は翌46年6月には上院をも突破して、穀物法はここについに撤廃されるに至ったのであった。
 そして、若干の経過措置の後、イギリスの穀物輸入は49年以降は名目的な関税が課せられるのみとなり、またこれと並行して1150品目の関税も廃止ないし引き下げられた。さらに穀物法とともに重商主義の二本柱であった航海法もまた49年に廃止された。こうして穀物法の撤廃を契機に、イギリスは自由貿易体制へと移行した。

 かくして、マルサス・リカード論争以来の穀物法をめぐる産業ブルジョアジーと地主階級との熾烈な闘いは産業ブルジョアジーの勝利をもって終わった。そして、それは「ただ単に土地貴族に対する工業資本家の勝利であったばかりでなく、資本家のなかで、多かれ少なかれ地主勢力と利害の点で結びついていた部分、すなわち銀行家、証券仲買人、公債保有者に対する勝利でもあった」(エンゲルス『一八四五年と一八八五年のイギリス』、大月書店刊「マルクス・エンゲルス全集」第21巻)

 

(続く)

 

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♦️279の1『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(「ブリュメール18日」(1799)など)

2018-12-04 19:04:58 | Weblog

2791『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(「ブリュメール18日」(1799)など)

 1799年11月9日(フランス革命暦における月日であることから、「ブリュメール18日」と言い習わす)の軍事クーデターで統領(執政)政府が成立する。その後、ナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒し、彼は執政政府の第一執政となって権力を奮う。その後しばらくは、日の出の勢いであった。
 1804年、ナポレオン法典がつくられる。同年5月には、ナポレオンが皇帝となり、ナポレオン1世と名乗る。ナポレオンは、1805年に結ばれた第三次対仏大同盟への対抗策として、イギリスへの上陸を画策するも、トラファルガー沖でフランス・スペイン連合艦隊がネルソン率いるイギリス艦隊に敗れ、夢ついえた。

 1806年11月、その彼が、イギリスとの貿易を禁止する「大陸封鎖令」を発し、周辺国に圧力をかける。その余勢をかりて1812年にはロシアの遠征を敢行するも、モスクワ占領中の「冬将軍」に苦しみ、やがて敗退する。
 1813年の3月20日から6月29日にかけて、そのナポレオンの「百日天下」がある。しかし、1814年になってからナポレオン1世は退位し、エルバ島に流される。1814年5月には、ルイ・ナポレオンがルイ18世として即位し王制を復活させる。す彼は、ルイ16世の弟で、ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)と同時に国外へ逃亡していた。それが、ナポレオン1世の没落を幸いに帰国して王位についたという意味で、「第二帝政」とか「ブルボン復古王朝」と呼ばれ、1830年の七月革命の民衆蜂起まで続く。
 それでも、ナポレオン1世はエルバ島を脱出し、勢力を盛り返す。そして迎えた1815年6月、彼の率いるフランス軍はワーテルロー(当時はオランダ、現在はベルギーにある)の戦いで敗北を喫す。ここに、当時のヨーロッパ列強の第六次対仏大同盟がナポレオン1世を破って第一帝政が名実ともに終わる。
 これに至る一連のフランスの「ドタバタ」な動きにつき、マルクスはこう述べる。
 「ヘーゲルがどこかで述べている、すべての世界史的な事件や人物は二度あらわれるものだということを。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、かれはそう付け加えるのを忘れている。
 ダントンに代ってコーシディエールが、ロベスピエールに代ってルイ・ブランが、1793年から1795年の山岳党に代って1848年から1851年の山岳党が、伯父のナポレオンに代って甥のナポレオンが現われた。そして二度目の「ブリュメール18日」が行なわれた時、まさにこの茶番劇が演じられた。
 人間は自分の歴史を作るが、自由に作るのではなく、目の前にある与えられた条件、過去とつながりのある条件のもとで作る。その条件は自分では選べない。いま生きている人間の頭には、過去の死せる世代の伝統が悪夢のように重くのしかかっている。
 だから、自己と社会を変革しようとする時や、これまで存在しなかったものを作り出そうとする時など、まさに革命の危機の只中においてさえ、人は過去の亡霊を呼び寄せ、彼らの名前とスローガンと衣装を借用し、歴史の権威ある服装に着替え、借り物のせりふを使い、新しい世界史の場面を演じようとする。」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
 ナポレオン1世の退場によって息を吹き返した形のルイ18世の治世であったが、人民には冷たかった。厳しい制限による差別選挙に基づく立憲君主制を敷くのであった。1824年のルイ18世の死後、過激王党派の中心人物であったアルトワ伯がシャルル10世して即位し、尚更強権政治に動いていく。
 そのシャルル10世だが、亡命貴族を優遇し、反動政治を推し進め、1825年には「10億フラン年金法」を制定し、革命中に土地・財産を没収された亡命貴族に多額の補償金を支出する。1827年11月には議会を解散して総選挙を行う。その結果、自由主義派(反政府派)が勝利をおさめる。これに不満なシャルル10世が、過激王党派の指導者ポリニャックを首相に任命したことから、国王と議会の対立が深まっていく。
 1830年5月には、シャルル10世は再び議会を解散したが、7月の選挙では自由主義派(反政府派)がさらに増加するのであった。

(続く)

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♦️408『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア戦線、日米開戦、1941.12.7日本のハワイ真珠湾攻撃~)

2018-12-04 09:05:29 | Weblog

408『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア戦線、日米開戦、1941.12.7日本のハワイ真珠湾攻撃~)

 

 1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃で、日米の開戦となった。奇襲攻撃であったため、アメリカ軍基地は大きな損害を被った。4千人以上の将兵が海に沈んだという。

 これを受けてアメリカ大統領ルーズベルトは、翌日議会などに向け、対日宣戦布告を求める演説を行う。そこには、アメリカの正当性がこう主張されていた。

 「Indeed, one hour after Japanese air squadrons had commenced bombing in the American island of Oahu, the Japanese ambassador to the United States and his colleague delivered to our Secretary of State a formal reply to a recent American message. 

更に言えば日本の空軍部隊がアメリカ領土のオアフ島に爆撃を開始した一時間後、日本の駐米大使がその同僚を伴ってアメリカの最近の提案に対する公式返答を我が国の国務長官に手渡したのです。

And while this reply stated that it seemed useless to continue the existing diplomatic negotiations, it contained no threat or hint of war or of armed attack. 

 そして、その返答はこれ以上の外交交渉の継続を無意味なものと思わせるように思わせる内容が述べられてはいましたが、軍事攻撃による戦争への警告も示唆も含まれてはいませんでした。」

   果たして、アメリカはかかる攻撃のあることを事前に知っていたのだろうか。これについては、現在に至るまでアメリカで諸見解があり、決着はついていないようだ。例えば、こうある。

 「日本の文書が何を意味するかを知りながら、ルーズベルトは戦争が起こることを部下に告げたり、部下をたたき起こして次に日本から届くメッセージの暗号解読文の内容を調べさせたりすることをためらった。そして、翌朝10時の会議まで保留にしたのである。」(ヘンリー・クラウゼン著、ブルース・リー著、鈴木主税訳「真珠湾、最期の真実」飛鳥新社、1992)

 

 (続く)


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