310の2『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの穀物法(1815~1846)と航海法(1651~1849)
イギリスの穀物法は、ナポレオンの大陸封鎖で食糧輸入が厳しくなったこと、凶作とも相まって、穀物価格が高騰することがあって制定された。とはいえ、これの施行にあっては、地主階級と新興の者を含む農業資本家と、都市を中心とする新興ブルジョア階級との対立があった。
おりしも、イギリスの勝利で終わった対ナポレオン戦争が1815年に終了すると、以前のように外国の安い穀物が輸入されれば、食糧価格は低落し、それまでの旺盛な投資の付けがまわってくるに違いなく、苦境を免れないと考えたことだろう。そこで政府に持ち掛け、穀物輸入を厳しく制限し、穀物価格を高めに維持しようともくろむ。そのことで、地主有利の状況をつくり、維持しようというのであった。
しかし、その運用状況の推移を見ると、かえって高い食糧費のために労働者の賃金が高くつくことになったと、産業革命以来の新興ブルジョアたちの非難の的になっていく。また、労働者の運動も、穀物法に反対の旗印を鮮明にしていくのであった。
そのうち、19世紀の半ばに差し掛かる頃には、資本主義の力というものが、この分野にもますます浸透してくる。勢い、世論は穀物法に厳しめに傾いていく。そして、ついに廃止にいたる。後年、フリードリヒ・エンゲルスは、こう論評している。
「穀物輸入の自由化」を要求する声はがぜん燃え広がり、反穀物法同盟はここぞとばかりにその即時実施を政府に迫った。こうしたなかでピール首相は45年10月、穀物法廃止を決断、廃止法案は翌46年6月には上院をも突破して、穀物法はここについに撤廃されるに至ったのであった。
そして、若干の経過措置の後、イギリスの穀物輸入は49年以降は名目的な関税が課せられるのみとなり、またこれと並行して1150品目の関税も廃止ないし引き下げられた。さらに穀物法とともに重商主義の二本柱であった航海法もまた49年に廃止された。こうして穀物法の撤廃を契機に、イギリスは自由貿易体制へと移行した。
かくして、マルサス・リカード論争以来の穀物法をめぐる産業ブルジョアジーと地主階級との熾烈な闘いは産業ブルジョアジーの勝利をもって終わった。そして、それは「ただ単に土地貴族に対する工業資本家の勝利であったばかりでなく、資本家のなかで、多かれ少なかれ地主勢力と利害の点で結びついていた部分、すなわち銀行家、証券仲買人、公債保有者に対する勝利でもあった」(エンゲルス『一八四五年と一八八五年のイギリス』、大月書店刊「マルクス・エンゲルス全集」第21巻)
(続く)
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