♦️279の2の2『自然と人間の歴史・世界篇』ナポレオン戦争(1812~1815)

2018-12-06 21:55:01 | Weblog

279の2の2『自然と人間の歴史・世界篇』ナポレオン戦争(1812~1815)

 いわゆる「ナポレオン戦争」の後半には、ヨーロッパのナショナリズムの運動の高揚もあって、ナポレオンの大陸支配はなかなかに進まなくなっていく。

まずは、いわずもがなの「ロシア遠征」があった。これが分水嶺となって、ヨーロッパにおけるナポレオンの覇権が崩れていく。

 そのきっかけとしては、1812年6月からのロシアへの侵攻には、数十万と号す兵力が投入される。はじめは、ロシアの大地をロシアの兵を蹴散らしながら破竹の勢いで進んだ。やがて9月には、モスクワを占領するに至る。ロシア軍は、退却して抵抗する。

おまけに、大火によってモスクワの市街地のかなりが焼かれるのだが、そろそろ厳しい冬が迫っていた。ところが、ナポレオンが退却を決意したのは、もう「冬将軍」がかなり近づいてからであって、しかもそれがもたついた。

フランス軍の撤収の途中では、満を侍していたロシア軍の追撃や農民などのゲリラに悩まされる。そのうち冬場に入り、兵たちは食料の欠乏や凍傷などに苦しむ。ナポレオンの軍は戦うどころではなくなっていく。一説には、10万人以上の死者が出たというのだが、ナポレオンは命からがらパリに戻った。

ナポレオンのフランスのこの敗北は、他のヨーロッパ諸国に大いなる力を与え、旧特権階級までもが息づくようになっていく。イギリス、ロシア、プロイセン、スウェーデンによる第6回の対仏大同盟が結成されると、彼らはフランスに対する攻勢を強めていく。

1813年には、ライプツィヒにおける諸国民戦争ではナポレオン軍が敗れて、フランス国境が突破される。翌年、バリが陥落となり、ここにいたってナポレオンの指揮下にいる将軍たちも離反するにいたる。そして迎えた1814年4月、ナポレオンは皇帝からの退位を余儀なくされる。

 

(続く)

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♦️279の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』ナポレオン戦争(1799~1811)

2018-12-06 21:53:50 | Weblog

279の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』ナポレオン戦争(1799~1811)

 1806年、それまで中立を保っていたプロイセンが、イギリス、ロシアとともに4回目の対仏大同盟を形成する。ナポレオンの遠征軍は、プロイセン軍とロシア軍をそれぞれ破り、

1807年に両国と和議を結ぶ。その内容としては、プロイセンからエルベ川以西の地域とポーランドの一部がフランスに渡る。残った領土に駐留していたフランス軍が撤退するとき、賠償金を課せられたこともあった。また、ロシアは、フランスのイギリスに対する大陸封鎖の実をあげるべく協力を約束させられる。そのほかの封建諸侯も力で押さえつけられ、ねじ伏せられていくのであった。

 ナポレオンは、なんとか占領地で封建制を廃止する政策を進めていきたい。そのため、いわば「征服戦争」で来たのを転じて、「ナポレオン法典」の精神をこれらの諸国に植え付けようとする。

その際の彼の念頭にあったのは、そればかりではなかった。わけても、イギリスの大陸への影響力をそぐことにあった。なかんずく、大陸へのイギリスの工業製品の輸入を禁止するとともに、1806年に発布したベルリン勅令によりイギリス船の大陸への入港を制限し、続くミラノ勅令でこれを強めた。対するイギリスは、「逆封鎖」をもって、フランスおよびその同盟国に打撃を与える制作を進めた。イギリス製品を買って、農産物などを輸出していた大陸諸国の中には、ナポレオンの制作に対する不満が累積していく面があったといえよう。

 

(続く)

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