♦️279の4『世界の歴史と世界市民』イギリスによるアイルランドの併合

2018-12-07 22:39:46 | Weblog

279の4『世界の歴史と世界市民』イギリスによるアイルランドの併合

 それは、1801年1月1日のことであった。この日を期してグレートブリテン王国がアイルランド島全土を併合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(UK: United Kingdom of Great Britain and Ireland)を成立させた。これにより、それまで機能してきたダブリンのアイルランド議会(Irish Parliament)は解散させられる。

 これにより、アイルランドのイギリス国教会系議員はロンドンのイギリス議会に議席をつらねる傍ら、併合に反対のカトリック系議員はといえば議席を失うのであった。
 それからしばらくしての1803年7月、この出来たばかりの英領アイルランドで、先の決定をくつがえそうとするカトリック系大衆らの武装蜂起が起こるも、イギリス軍に鎮圧される。指導者のロバートエメット( 1778–1803)は捉えられの身となる。そして、同年9月には、彼は大逆罪で有罪判決を受け、処刑されてしまう。

(続く)

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□28『岡山の今昔』江戸時代の三国(元禄一揆・高倉騒動)

2018-12-07 22:01:50 | Weblog

28『岡山の今昔』江戸時代の三国(元禄一揆・高倉騒動)

 1698年(元禄11年)の冬、津山藩で元禄一揆(げんろくいっき)が起きる。その頃、江戸では「元禄」という爛熟の世が出現していた同じ時代に、美作の地では百姓たちが結束して強訴しないでは収まらないだけの騒憂があった。ここでいう津山藩とは、江戸時代の最初に幕府により布置された森家のことではない。

 ここで百姓たちに相対峙していたのは、同家が改易となった翌年、新たに封じられた松平家のことである。その家柄は、始祖に二代将軍徳川秀忠の異母兄にして、北の庄の徳川秀康を戴く徳川将軍家親戚筋として「親藩」(しんぱん)に列せられていた。
 ついては、これより十数年前の1681年(元和元年)、越後(えちご)高田藩26万石が改易処分となる。「家国を鎮撫すること能わず。家士騒動に及ばしめし段、不行届の至り」(『廃絶録』)との理由で、所領を没収される。これを受け、藩主の松平光長は稟米(りんまい)1万石を与えられ伊予松山藩に預けられていた。その光長が1687年(貞享4年)に幕府から赦免されると、従兄弟の子に当たる陸奥白河藩松平直矩(まつだいらなおのり)の三男を養子に迎えたのが、この宣富(矩栄(のりよし)改め)にほかならない。
 この松平氏が美作の新領主となって封に就き、領主として初めて年貢を徴収しようとした際、領民が幕府天領時代の「五公五民」への年貢減免を求め、強訴を起こした。この事件は、江戸期の美作において最初の大がかりな惣百姓一揆である。その背景には、年貢の変更による増徴があった。森藩が断絶してから松平氏が入封する1698年(元禄11年)、旧暦正月14日までおよそ10か月の間に幕府の天領扱い、代官支配下での年貢収納は「五公五民」の扱いになっていた。それが松平氏の支配となるや、その年貢率が反古にされ、森藩自体と比べても厳しめの「六公四民」になったことがある。

 具体的には、美作の歴史を知る会編『みまさかの歴史絵物語(6)元禄一揆物語』1990年刊行に収録の「作州元禄百姓一揆関係史料」に、こう解説されている。
 「一六九八年(元禄一一年)旧暦八月、領内に出された年貢免状によると、年貢量は森藩時代と同じような重税の上、森藩の時認められていた災害時の「見直し」や、「奥引米制」という値引き等が、全く認められない厳しいものでした。」
 これに対し郡代は、諸藩は独自の税法を有する。だから、願いの筋を聞き届けることはできないと突っぱねた。代表は、これを村に持ち帰った後、大衆の力をもって要求を通すしかないと衆議一決してから、1698年(元禄11年)旧暦11月11日大挙して津山城下に侵入した。

   そして迎えた1698年12月13日(元禄11年11月12日)、百姓の代表格の東北条郡高倉村の四郎右衛門、佐右衛門、東南条郡高野本郷村の作右衛門らは、郡代を含む藩の関係者に二一名の大庄屋の連盟にて「御断申上候御事」なる嘆願書を差し出し、年貢を幕制時代に戻すよう主張する。

   その文面(書き下し文)は、次のような抑制のきいた、思慮深いものであった。

「一、  御国のうち御領分存知の外御高免、その上こなし実違(みちがい)、百姓共迷惑仕り候。此御下札の通に仰せ付けさせられ候得ば、百姓共残らず乞食に罷りなる候。御蔵入並あそばせられ下され候様、御願いあげられくださるべく候。御蔵入並に仰せ付けられ候とても、前々困窮仕り候百姓にて御座候へば、村の内五人三人絶人(たえにん)に罷り成り候者も御座候、然れども(以下、略)。」(原文は、長光徳和編「備前・備中・美作百姓一揆資料」第1巻、(株)図書刊行会、1978)、「津山市史」第4巻などに収録されている。

   なお、ここに「御下札」とあるのは、松平になっての年貢免状、「御蔵入金並」は幕天領なみ、さらに「絶人」とあるのは、年貢を差し出せなかった百姓が田畑を没収されるなどの処分を受け、大庄屋の差は差配外に追放されることをいい、その者のことを「本絶人」と呼んでいた。

 それから、これに関連してのことだが、前記解説によると、「後には、田畑家財を村方に差し出し、村まといとなったものを内絶人といい、自ら売払って離村した者を売絶人」(長光徳和編「備前・備中・美作百姓一揆資料」第1巻、(株)図書刊行会、1978)をいうとのこと。

 これはてごわいとみた藩は、一旦(いったん)、農民たちの要求を受け入れる。これにより、百姓達の強訴はかわされて鎮静に向かい始める。その後の津山松平藩は、すでに足並みが乱れて始めていた庄屋の団結を破壊し、百姓たちから完全離反させようと画策を重ねる。

   そして、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで百姓に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。翌1699年4月26日(元禄12年3月27日)、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束に向かう。なお、高倉村大庄屋の三郎右衛門については、弟2人に加え、「世倅平右衛門」に対しても死罪が申し渡された、「むごい」というしかない冷酷極まる仕置きであった。想えばこの時期、すでに同藩には、民をいたわる人物はいなかったものとみえる。

  彼らは、「幕藩体制」という封建社会において、その与えられた人生を力強く生き抜いて死んでいった。そうした彼らの志の高さに比べ、正義のため立ち上がった百姓達に対抗するため、藩側が一貫してとったのは武士の名分をかなぐり捨てた騙しの戦法であった、と言われても仕方がない。

 この元禄一揆により、さしもの年貢率にも修正が加えられ、「翌元禄十三年よりは、森家時代の年貢より弐割下げにして定められる」(『三間作一覧記』)とある。その水準がいかほどであったかは、『鏡野の歴史・鏡野町山城村年貢免定』の事例が明らかにされている。

これによると、元禄九年(森)の毛付け高が三一八石に対し、年貢高は一八五石にして、年貢率は五八・二%。元禄十年(幕府)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一五八石にして、年貢率は四六・三%。元禄一一年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二五一石にして、年貢率は七三・二%。元禄一一年(松平、しゃ免引き)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二〇二石にして、年貢率は五九・二%。そして元禄12年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一七七石にして、年貢率は五一・五%であったと見積もられる。

(続く)

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♦️279の5『自然と人間の歴史・世界篇』トルストイの「戦争と平和」

2018-12-07 20:49:14 | Weblog

279の5『自然と人間の歴史・世界篇』トルストイの「戦争と平和」

   まずは、略歴から記そう。レフ・トルストイ(1828~1910)は、モスクワ郊外の、伯爵家の四男として生まれた。幼くして両親を失い、親せきを頼る。1844年、広大な伯爵家の領地を相続する。1851年、コーカサス戦争の砲兵旅団に志願兵として従軍する。1852年に執筆した「幼年時代」が雑誌に載り、好評を博する。作品からは、ロシアの大地のにおいがしだしていた。1853年のクリミア戦争では、将校として従軍する。退役後、ヨーロッパを旅行する。

 1861年、農奴解放令があった。その前の1859年頃からのことだが、彼の領地内で、独自に農奴の待遇改善をおこなったほか、領地内に学校をつくり農民の子弟に教育の機会を与える試みあり。1864年の34歳の時、18歳のソフィアと結婚する。

  1884年には、家族と対立して家出したという、そうだとすれば、それぞれが高めあいながら、人が活きていくことはかんたんで容易ではないらしい。理想に生きるトルストイにとっては譲れぬ一線をキープしたかったのではないか。1904年の日露戦争で、非暴力を訴える。国家たるもの、それは彼にとっては概して有益なものでなくなっていたのかもしれない。あまり1910年には、再び家出を行い、鉄道を移動中に体が冷えて容体が悪化、駅長庁舎にて死去。大いなる旅路の果てにしては、彼自身もう少し時間がほしかったのではないだろうか。 

 その代表作のひとつとされる「戦争と平和」は、1865年から1869年にかけて雑誌『ロシア報知』に掲載され、大きな反響を呼び起こした。それは、ロシアの人々にとっては、ナポレオンの遠征軍との戦いがある中での、主人公ピエールの妻エレンの死、親友アンドレイ公爵の死、それに捕虜仲間のカタラーエフの死など。さらに、戦場での死ばかりではなく、ロシア民衆を始め様々な多くの死が描かれている。

 概して、帝政末期のロシア貴族を中心とした物語であったのだから、ロシアがかかわる歴史の一齣としての意味をもって受けとられたのではないだろうか。その長い「エピローグ」には、こうある。
「ピエール
「不幸だの、苦労だのと言いますが」
「もしも今、この瞬間に、捕虜になる前のままでいたいか、それともはじめからあれを全部もう一度やりたいか?と言われたとしますね。是非とも、もう一度捕虜と馬の肉をお願いしたいですよ。慣れた道から放り出されたら、何もかもおしまいだと僕たちは思う。ところが、そういうときには新しい、いいものがはじまるだけなんです。生命があるあいだは、幸福もあります。先にはたくさんの、たくさんのものがあります。これはあなたに言っているんですよ」
ナターシャ
「ええ、そうですわ」
「あたくし何ひとつ望みませんわ、ただ何もかもはじめからもう一度、あの体験ができさえすれば」
「そう、それにもう何もありませんし」
ピエール
「まちがいです、まちがいです」
「僕が生きていて、生きたいと思っているからといって、僕が悪いわけじゃない。あなただってそうです」(レフ・トルストイ作、藤沼貴訳『戦争と平和』第6巻、岩沼文庫)

 また、戦争の性格を問い、こう独白している。

 「戦争とはそもそも何だ? 軍事上の成功に必要なのは何だ? 軍人社会の精神とはいかなるものか? 戦争の目的は殺人だ。戦争の道具は間謀、裏切りとその奨励、地方の荒廃、軍隊維持のために行われる強奪窃盗、軍略と名づけられている欺瞞と虚言だ。また軍人階級の精神とは自由の欠乏すなわち軍紀、懶惰、無知、残忍、放埓、飲酒などだ。にもかかわらず、軍人は最高の階級としてすべての人に尊敬されているのだからね。(中略)

 明日になったら、人びとは互いに殺戮しあうために集まって幾万という人間を皆殺しにしたり、不具にしたりする。そうしてその後で、よくたくさんの人間を殺したといって(しかもその数をいっそう誇張するのだ)、感謝の祈祷」云々、と続く。

(続く)


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♦️279の3『自然と人間の歴史・世界篇』米英戦争(1812~1815)

2018-12-07 18:17:50 | Weblog

279の3『自然と人間の歴史・世界篇』米英戦争(1812~1815)

 1812年から1815年にかけて、アメリカ合衆国とイギリスとが戦った。これを米英戦争と呼ぶ。この戦争は、1812年6月に、当時のアメリカ大統領ジェームズ・マディソンが先頭に立ち、議会で対イギリスの宣戦布告が可決されたことで始まった。

 アメリカ側の言い分としては、1806年からのナポレオン主導の「大陸封鎖令」への対抗措置として、イギリスがアメリカとフランスとの貿易を妨害しようと動いた。これに我慢がならないということで、通商の自由を銘打っての戦に発展する。アメリカには、ほかにカナダの領土獲得の野心があったため、カナダに分け入って戦うのであるが、海軍力に勝るイギリスに押さえ込まれてしまう。

 一方、イギリスにとっても、アメリカ新大陸でのナポレオンの影響力を削ぐのが大事で、アメリカと正面化から戦うのは得策ではないという空気があったようだ。また、白人の支配が北アメリカ大陸全体を覆いつつある現状に怒るインディアンたちは、イギリス軍に連帯してアメリカ軍と戦う。そして、多くのインディアンたちが殺されていった。結局、イギリスの優位が動かないまま、1814年には両国が講和にいたる。

 

(続く)

 

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♦️248『自然と人間の歴史・世界篇』チャーチスト運動

2018-12-07 09:58:38 | Weblog

248『自然と人間の歴史・世界篇』チャーチスト運動

 チャーチスト運動というのは、1830年代から40年代にかけてのイギリスにおいて、成年男子に限った普通選挙権・無記名投票・議員財産資格の廃止・議員の有給制(歳費性)・毎年選挙・平等選挙区制などを掲げ、労働者階級らが中心となって進めた運動をいう。
 顧みれば、1720年には「主従法」がつくられ、それには団結禁止条項が設けられていた。1795年には、50人以上の集会の禁止令が出される。1799年には、労働者の団結そのもの、労働組合を禁じるものとしての「結社禁止法」(Combination Act)が制定された。1801年には、人身保護法も戦争中は停止されることとされる。
 それにもかかわらず、イギリスでは労働者・人民の民主主義運動が組織されていく。1811年から1816年ごろにかけて、労働者による工業用機械の打壊し(ラダイト)運動が行われた。この運動は、ノッティンガムの編み物工たちによって始められ、のちヨークシャーの羊毛工業労働者、ランカシャーの綿工業労働者などに波及していく。
 こうした労働者運動の展開に対し、政府は厳しい姿勢をとりつづける中にも、ある程度の妥協を余儀なくされていく。労働者の掲げる多面的な要求のうち、1819年に工場法の制定(女性と児童労働の制限)が実現される。そして1824年には、労働者弾圧法の名をほしいままにした結社禁止法が、ようやく廃止される。
 1830年代になると、労働者の闘いは組織的になりつつあった。当面の経済的要求のみならず、資本主義社会という世の中を、その仕組みを変えようとする運動の広がりが増していく。前述の6項目を掲げるにいたる。
 労働者たちはまず、選挙権を獲得して自分たちの意見を政治に反映したいと考えていた。しかし、1832年の第1回選挙法改正では労働者に参政権が与えられなかった。1833年には、工場法に監督官制度が盛り込まれた。
 1838年2月には、全ロンドン労働者協会の主催による大会が開催された。同年5月には、
ウィリアム・ラヴェットを委員長とする同の委員会が人民憲章を起草した。エンゲルスは、こう紹介している。

「その「六か条」は次のとおりである。

 「一、健全な常識をもち、前科のない全成年男子にたいする普通選挙権

二、毎年の議会改選

三、貧乏人も選出可能とするための議会歳費

四、ブルジョアジ―による買収脅迫を回避するための秘密投票による選挙

五、ひとしく、公平な代表権を確保するための平等な選挙区

六、土地所有で300ポンド・スターリングの収入がある者へのーもともと欺瞞的なー被選挙権の限定を廃止し、どの選挙人にも被選挙権をあたえること」(フリードリヒ・エンゲルス著、一條和生・杉山忠平訳「イギリスにおける労働者階級の状態―19世紀のロンドンとマンチェスター」岩波文庫、下巻、1990)

 対する政府は、こうした運動の高揚に危機感を覚えたのであろうか、かかる運動を血眼になって取り締まる。1839年には約1000人の民衆が武装してニューポート市内を行進して入獄者の釈放を要求したという。これに対し、軍隊と警察とが発砲し、10名のチャーティストが死亡する。政府により武力反乱と見なされたこの事件以後、イギリスではチャーティストの大量逮捕・裁判が続くのであった。
 顧みるに、この運動には、およそ次の3つの流れがあった。第一のグループは、ロンドンの労働者のグループがつくった「ロンドン労働者協会」であって、ウィリアム・ラヴェットを指導者とする。熟練労働者が中心である。

 二つ目は、1837年に復活した「バーミンガム政治同盟」で、銀行家ながら急進的政治家でもあったトーマス・アトウッドを指導者とする。中産階級の利益を代表する。

 そして三つ目は、北部工業地帯の労働者グループで、下層階級の利益を代弁する。その指導者のオコンナーは要求実現のためには武力革命をも視野に入れることをも唱えていた。
 その後のチャーチスト運動だが、1848年からは内部対立や弾圧によって、しだいに衰えていく。1850年代には消滅に向かうのであった。
 この運動の総括については、この間に色々と書かれ、現在も議論が尽きないでいる。その一つには、こうある。
 「1839、42、48年の3回にわたって、チャーチストたちは厖大(ぼうだい)な請願書を議会に提出し、示威運動を展開したが、組織が不完全であったうえに、指導者間の分裂、運動を指導する共通の思想の欠如などのために、なんら目的を達することが出来なかった。しかし労働者階級に自力による闘争の可能性を教え、有産階級を反省させた点に彼等の運動の意義があった。なお「人民憲章」の諸要求は、議会の毎年改選を除いて、すべて19世紀後半から1918年までの間に実現された。」(米田治、東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説
」慶應義塾大学通信教育教材、1988)

(続く)

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