350の2『自然と人間の歴史・世界篇』レーニンの「国家と革命」など
果たして、世界中の色々な歴史と向き合って何が得られるのであろうか。そして、通常の場合、歴史の教科書にてロシアのヴェ・イ・レーニン(1870~1924)が描かれるのは、特殊な状況においての政治、それも革命に生きた姿が大抵のものであって、かれの学問的な業績についてはほとんど触れられていないのではないか。
世に政争の書なりその類の演説が大半であるとはいえ、その彼にして、経済学や哲学そして政治学の分野に珠玉の著作や言及があるのを、見逃すべきであるまい。その代表的な一つは、「ロシアにおける資本主義の発展」であろうか。
二つ目に紹介するのは、「資本主義の最高段階としての帝国主義」ということにしたい。こちらは、ドイツのヒルファーディングの「金融資本論」におけるような株式会社の分析にはとどまらない。それよりもっと綜合的な、生産の集積・集中と金融のそれとの総合的な解説を目指しているのが、特徴的だ。
そして三つ目には、「国家と革命」ということで、それまでのアカデミズムにおいては見たこともないタイプの論考であった。彼はこの書において、資本主義後の社会主義で国家はどのようになるかを論じた。主として、先達としてのマルクスやエンゲルスの言説に依拠しながら、それに飽き足らない論点を追加している。20世紀初めの政治経済的要素を取り込んで、人類の歴史上おそらく初めて、国家の死滅への道を理論的に述べた。
むろん、これは彼の死後約百年後の21世紀・現代においても、一つの学問的な仮説であって、大方の理解なり、ましてや賛意を得ている訳ではあるまい。けれども、いや、だからこそ、マルクス主義に基づく国家論としては、まずもってこの彼の業績を挙げない訳にはゆかないだろう。
その特徴としては、やはり、資本主義の後にくるのは、社会主義社会というものなのであって、他のものではない。それは、資本主義の否定の上に成り立ってこそ、外装・内実ともに意味あるものとなる。なかんずく、それまでのブルジョア的な常備軍と官僚制度を中核とするできあいの国家機構を「こなごなに打ち砕かなければならない」という。
なお、この場合気を付けるべきは、次のような事柄であるという。
「第一に、マルクスは自分の結論を大陸に限定していること。このことは、当時のイギリスがまだ純粋の資本主義国家の典型としてとどまっており、軍閥もなければ官僚国家もそれほど大した存在ではなかった1871年の時点では、しごく当然のことだった。だからマルクスは、イギリスを除外したわけである。
だからマルクスは、イギリスでは、その当時、革命は、そして人民革命でさえも、「できあいの国家機構の破壊」という前提条件なしでも可能だと思われたし、じっさいまた可能でもあったのだ。」(レーニン著、江口朴郎責任編集「国家と革命」中央公論社の「世界の名著・52」、1966)
(続く)
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