♦️350の2『自然と人間の歴史・世界篇』レーニンの「国家と革命」など

2018-12-17 22:03:16 | Weblog

350の2『自然と人間の歴史・世界篇』レーニンの「国家と革命」など

 果たして、世界中の色々な歴史と向き合って何が得られるのであろうか。そして、通常の場合、歴史の教科書にてロシアのヴェ・イ・レーニン(1870~1924)が描かれるのは、特殊な状況においての政治、それも革命に生きた姿が大抵のものであって、かれの学問的な業績についてはほとんど触れられていないのではないか。

 世に政争の書なりその類の演説が大半であるとはいえ、その彼にして、経済学や哲学そして政治学の分野に珠玉の著作や言及があるのを、見逃すべきであるまい。その代表的な一つは、「ロシアにおける資本主義の発展」であろうか。

 二つ目に紹介するのは、「資本主義の最高段階としての帝国主義」ということにしたい。こちらは、ドイツのヒルファーディングの「金融資本論」におけるような株式会社の分析にはとどまらない。それよりもっと綜合的な、生産の集積・集中と金融のそれとの総合的な解説を目指しているのが、特徴的だ。

 そして三つ目には、「国家と革命」ということで、それまでのアカデミズムにおいては見たこともないタイプの論考であった。彼はこの書において、資本主義後の社会主義で国家はどのようになるかを論じた。主として、先達としてのマルクスやエンゲルスの言説に依拠しながら、それに飽き足らない論点を追加している。20世紀初めの政治経済的要素を取り込んで、人類の歴史上おそらく初めて、国家の死滅への道を理論的に述べた。

 むろん、これは彼の死後約百年後の21世紀・現代においても、一つの学問的な仮説であって、大方の理解なり、ましてや賛意を得ている訳ではあるまい。けれども、いや、だからこそ、マルクス主義に基づく国家論としては、まずもってこの彼の業績を挙げない訳にはゆかないだろう。

 その特徴としては、やはり、資本主義の後にくるのは、社会主義社会というものなのであって、他のものではない。それは、資本主義の否定の上に成り立ってこそ、外装・内実ともに意味あるものとなる。なかんずく、それまでのブルジョア的な常備軍と官僚制度を中核とするできあいの国家機構を「こなごなに打ち砕かなければならない」という。

 なお、この場合気を付けるべきは、次のような事柄であるという。

「第一に、マルクスは自分の結論を大陸に限定していること。このことは、当時のイギリスがまだ純粋の資本主義国家の典型としてとどまっており、軍閥もなければ官僚国家もそれほど大した存在ではなかった1871年の時点では、しごく当然のことだった。だからマルクスは、イギリスを除外したわけである。

だからマルクスは、イギリスでは、その当時、革命は、そして人民革命でさえも、「できあいの国家機構の破壊」という前提条件なしでも可能だと思われたし、じっさいまた可能でもあったのだ。」(レーニン著、江口朴郎責任編集「国家と革命」中央公論社の「世界の名著・52」、1966)

 

(続く)

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♦170の3『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453でのジャンヌ・ダルク)

2018-12-17 09:52:53 | Weblog

170の3『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453でのジャンヌ・ダルク) 

 もう一度、この間を振り返ろう。ブルゴーニュ派は、ここで策を巡らすにいたる。なんと、敵である筈のイギリスと結び、シャルル6世を担いでその娘とヘンリ5世と結婚させ、その間に生まれたヘンリ6世が1422年に英仏両国の王として即位するにいたる。これに対し、オルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の子のシャルル王太子をシャルル7世として即位させて対抗し、フランス王位はここに分裂の時を迎える。

 この祖国のフランスの「危機」の場でに、救世主であるかのように出てくるのがジャンヌ・ダルクその人である。フランスには国民的統合の気運が高まり、彼女自身は国民の愛国心の象徴になっていく。1428年、イギリス軍がオルレアン・アルマニャック派と合流して、シャルル7世の拠点オルレアンに対する総攻撃を始める。イギリスにとって、敵の敵は味方ということであったろうか。

 そのことで、フランスのシャルル7世は包囲されるという危機に陥った。これを「オルレアンの戦い」といい、この時、彼女は17歳であった。1429年3月に、彼女はシノン城に向かい、シャルル7世にあって自分が神託により戦うことを命じられたという。自分の使命を明かし、フランスの窮地を救うのだという。

 そして、いよいよその時が始まる。ジャンヌは敵軍に包囲されたオルレアンの糧食補給隊約15名の隊長に任命され、4月末には味方への食糧搬入に成功する。そのかいあってか、フランス軍が反撃に転じ、イギリス軍はいったん撤退する。

 次いでの1430年5月、コンピエーニュに入った時の任務だが、300~400名を指揮する騎士隊長に昇格しており、「そのうち百名は騎士で、68名が弓兵ないし弩手(どしゅ)で、2名がラッパである」(近山金次「西洋史概説1」慶応義塾大学通信教育教材、1972)という。

 その活躍たるや、すさまじいとされるまでになっていた。オルレアンを解放、シャルル7世もフランスで戴冠式を行った。ついでジャンヌ・ダルクが加わってのフランス軍は、パリ攻略に向かう。

 その後のジャンヌについては、五月末のコンピエーニュでブルゴーニュ派と戦ってその兵士に捕らえられ、イギリス軍に引き渡される。つまりは、売り渡された。そして、1431年1月9日~3月26日での宗教裁判にかけられて、「魔女」の判決を受け、火あぶりの刑に処せられる。

 その時の調書においては、彼女は助かろうとは思っていなかったようだ。その一部には、こう記されている。

 「お前は旗と剣とどちらが大事か」(前掲書、以下この部分は同じ)

 「剣より旗の方がどんなにか、40倍も大事です。・・・・・人殺しをしないために、敵に立ち向かうときは私は自分で旗をもちました。だから私は誰も殺したことがありません。」 

 「お前の最終目的は何か」

 「声が私に命じます。何でもすすんでやれ、殉教にもしりごみしてはいけない。やがて天国に行くのです」

 ここに同時にあるのは、「偽らざること岩の如し」の感を覚えさせる、英雄的にふるまう、堅固な女性キリスト教者の姿であったろう。

 その後も戦いは続くのだが、シャルル7世は1435年にはブルゴーニュ派とアラスの和約で講和し、それによってブルゴーニュ派とイギリスの同盟は破棄され百年戦争終結の前提となった。フランスは一致して反撃に転じ、1436年にはリシュモン元帥率いるフランス軍がパリに入城、1450年にはノルマンディを奪回し、1453年にはイギリス領のギエンヌ地方の中心地ボルドーを占領した。これによってカレーを除いてほぼフランス王国内のイギリス王領はカレーを残して消滅することで、百年戦争は終結の時を迎える。
 この時を境に、現在のイギリスとフランスとの国境線がほぼ定まり、それぞれの国民という概念がよりはっきりしてくるのであったろう。

(続く)


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♦️170の1『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453のうち1350まで)

2018-12-17 09:50:57 | Weblog

170の1『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453のうち1350まで)

 ヨーロッパ中世に名高い「百年戦争」とは何であったのか。先ずはじめに、1339年のイギリスによる宣戦布告から1353年のボルドー(現在はフランス領)陥落までの約100年間(その間断続はあるが)の、イギリスとフランスの戦いは、国と国との戦いということでは、必ずしも当てはまらない。フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦いというのが、しっくりする。
 そのきっかけは、フランス王シャルル4世が、跡継ぎのないまま世を去り、このままではカペー家は王位から退くことにならざるをえない。その際、ヴァロワ家のフィリップが次の王位にと立ったのに対し、カペー家出身の母をもつイギリス王エドワード3世が、この王位継承に異を唱える口実を得るにいたる。そして1337年、イギリス国王エドワード3世が、フランス王位の継承権を主張してヴァロワ朝のフィリップ6世に挑戦状を発し、両国の戦争となる。要は、フランス王国内でのプランタジネット家とヴァロワ家のフランス王位をめぐる争いに、封建諸侯の領地争いが重なった。そして、これにイギリス王室が絡んで戦いを挑んでいったものである。
 当時のイギリスだが、フランス国内に領地をもち、そのイギリス領地に関するかぎりフランス国王から与えられたものであり、その限りにおいてフランス国王に臣従しなければならない立場であった。そのことは、1066年のイギリス側のノルマンディ公ウィリアムの軍がこの地にやってきて、いわば征服によってノルマン朝が成立したのに始まる。その後も、イギリス王はフランス内の自分の所領の拡張をめざすのを止めなかった。一方、フランス王はイギリス王領を駆逐してフランス全土の支配を目指した。この両王の対立は11~12世紀を通じてくすぶっていた。
 この「百年戦争」の経過については、はじめはイギリス側が優勢に展開していた。1339年9月末、エドワード3世く派遣した軍は北フランスに侵入する。イギリスがそのヨーマンを中核とした長弓隊の活躍があり陸上でフランス軍を圧倒、制海権も獲得して有利に戦いを進めていく。1346年のクレシーの戦いではイギリスの歩兵部隊がフランスの騎士軍を破るにいたる。一説には、「仏軍は敵の打撃に屈するまえに自ら崩壊して封建軍の弱点を暴露した。英軍は三門の大砲を使い、その弓兵は白い矢を雪のように降らせた」(近山金次「西洋史概説1」慶応義塾大学通信教育教材、1972)という。また、同年9月から翌年8月までにはカレーの地を包囲し、攻撃する。カレーの市民は勇敢に抵抗したが、衆寡敵せず、1347年には、イギリス軍がカレーの占領を勝ち取るにいたる。身を犠牲にして町を救う英雄たちの話(20世紀の彫刻家ロダンの「カレーの市民」は、これをとり上げている)を後世に残して降伏した。そのカレーは、1558年までイギリスの支配下のものとなる。

 1347~1350年にかけては、西ヨーロッパをペストが席巻する。1348年には、広範囲の地方に飢饉も起こって、実に多くの人々が死んでいった。1347年には、フランスとドイツの同盟が成立し、ドイツ騎士団がフランス王の軍隊に来援さんかするにいたる。そして1349年には、南フランスのモンペリエやドフィネ地方がフランス王に買い上げられる。

(続く)

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♦️170の2『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453のうち1351~1453まで)

2018-12-17 09:49:35 | Weblog

170の2『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453のうち1351~1453まで) 

  1356年のポワティエの戦いでもエドワード黒太子の活躍でイギリス軍が勝利する。まさに、破竹の勢いであったのだが、こうなるとフランス側も、そのまま負ける訳にはいかないことになっていく。

 それに加え、1358年のフランスではジャックリーの乱、1381年のイギリスではワット・タイラーの乱という農民の反封建闘争があったりで、両国とも内憂外患の時代でもあったから、戦争は長期化を余儀なくなされていく。
 戦争の中期には、一時フランスが盛り返すのだが、決め手に欠けていた。1400年代に入ると、フランス側の内憂は深刻さを加えていく。それに乗じる形で、再びイギリス軍の攻勢が強まった。このフランス側の不統一は、1407年、ブルゴーニュ派(東部・北部が基盤)とオルレアン・アルマニャック派(西部・南部が基盤)がぶつかり合っての内乱となっていく。これに乗じる形で、イギリスのランカスター家のヘンリ5世がノルマンディに侵入し、アザンクールの戦いで大勝した。

 ブルゴーニュ派は、ここで策を巡らすにいたる。なんと、敵である筈のイギリスと結び、シャルル6世を担いでその娘とヘンリ5世と結婚させ、その間に生まれたヘンリ6世が1422年に英仏両国の王として即位するにいたる。これに対し、オルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の子のシャルル王太子をシャルル7世として即位させて対抗し、フランス王位はここに分裂の時を迎える。
 この祖国のフランスの「危機」の場でに、救世主であるかのように出てくるのがジャンヌ・ダルクである。フランスには国民的統合の気運が高まり、彼女自身は国民の愛国心の象徴になっていく。1428年、イギリス軍がオルレアン・アルマニャック派と合流して、シャルル7世の拠点オルレアンに対する総攻撃を始める。イギリスにとって、敵の敵は味方ということであったろうか。

 そのことで、フランスのシャルル7世は包囲されるという危機に陥った。フランスの危機を救ったのはジャンヌ=ダルクであった。1429年、ジャンヌに鼓舞されたフランス軍が反撃に転じ、オルレアンを解放、シャルル7世もフランスで戴冠式を行った。ついでジャンヌ・ダルクが加わってのフランス軍は、パリ攻略に向かう。彼女については、はブルゴーニュ派の兵士に捕らえられ、イギリス軍に引き渡される。そして宗教裁判にかけられて、1430年、火あぶりの刑に処せられる。
 その後も戦いは続くのだが、シャルル7世は1435年にはブルゴーニュ派とアラスの和約で講和し、それによってブルゴーニュ派とイギリスの同盟は破棄され百年戦争終結の前提となった。フランスは一致して反撃に転じ、1436年にはリシュモン元帥率いるフランス軍がパリに入城、1450年にはノルマンディを奪回し、1453年にはイギリス領のギエンヌ地方の中心地ボルドーを占領した。これによってカレーを除いてほぼフランス王国内のイギリス王領はカレーを残して消滅することで、百年戦争は終結の時を迎える。
 この時を境に、現在のイギリスとフランスとの国境線がほぼ定まり、それぞれの国民という概念がよりはっきりしてくるのであったろう。

(続く)


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