○152『自然と人間の歴史・日本篇』江戸初期~中期の文化、貝原益軒)
貝原益軒(1630~1714)は、医者、儒学者にして本草学の大家、等々の色々な肩書をもつ。長じては、福岡藩の藩士を務めたりしていたが、出世コースはたどらなかった。だから、要職を務めることはなかったし、よくある政争の渦に巻き込まれることもなかったようなのだ。そして、そのことが彼の元来の人生哲学には、随分と似合っていたのではないか。何事も、各人に無理のない状態でなんとかうまくやれそうなら、それに越したことはあるまい。彼は、84歳の時世に出した「養生訓」にて、こういう。
「もし久しく安坐し、また、食後に穏坐し、ひるいね、食気いまだ消化せざるに、早くふしねぶれば、滞りて病を生じ、久しきをつめば、元気発生せずして、よはくなる。常に元気をへらすことをおしみて、言語を少なくし、七情をよきほどにし、七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ思ひを少なくすべし。慾をおさえ、心を平にし、気を和(やわらか)にしてあらくせず、しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。
憂ひ苦むべからず。これ皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也。また、風・寒・暑・湿の外邪をふせぎてやぶられず。この内外の数(あまた)の慎は、養生の大なる条目なり。これをよく慎しみ守るべし。」
ところが、そこは生身の人間だ。だからこそ、実際に毎日を過ごしているうち、難題がふりかかることがあろう。中には、どうしていいかわからない、そんな逆境の時には、人は何を「灯台」となすべきか。そこが定まっていれば、不安にもたじろぐばかりではなくなろう。
そんなことを現代人につらつら考えさせてくれる貝原なのだが、彼には儒学者としての誇りというか、少し気難しい部分も持ち合わせていたのではないか。そんな憶測を呼ぶのが、例えば、芥川によるこんな批評なのではないか。
「わたしはやはり小学時代に貝原益軒の逸事を学んだ。益軒はかつて乗合船の中に一人の書生と一緒になった。書生は才力に誇っていたと見え、滔々と古今の学芸を論じた。が、益軒は一言も加えず、静かに傾聴するばかりだった。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩(じくじ)として先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのである。
当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少くとも発見する為に努力したことは事実である。しかし今は不幸にも寸毫の教訓さえ発見出来ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与えるは、わずかに下のように考えるからである。
一 無言に終始した益軒の侮蔑は如何に辛辣を極めていたか
二 書生の恥じるのをよろこんだ同船の客の喝采は如何に俗悪を極めていたか
三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何にはつらつと鼓動していたか」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)
もちろん、芥川がこう言ったからとて、貝原が「はい、あの時は行き届きませんでした、あの時の若者に申し訳ないことをした」とでも弁明するのかといったら、おそらくはそうしないだろう。儒学にも、かの孔子をはじめとする聖人の言行録についての解釈や何かに幅があるのではないだろうか。だとしたら、貝原は彼のやり方でその若者に接した。そんな彼自身もやはり、その時代の支配的な精神に大きく影響されていたと考えるのが、自然な解釈なのではないだろうか。
(続く)
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