○○152『自然と人間の歴史・日本篇』江戸初期~中期の文化、貝原益軒)

2018-12-10 20:48:31 | Weblog

○152『自然と人間の歴史・日本篇』江戸初期~中期の文化、貝原益軒)

 貝原益軒(1630~1714)は、医者、儒学者にして本草学の大家、等々の色々な肩書をもつ。長じては、福岡藩の藩士を務めたりしていたが、出世コースはたどらなかった。だから、要職を務めることはなかったし、よくある政争の渦に巻き込まれることもなかったようなのだ。そして、そのことが彼の元来の人生哲学には、随分と似合っていたのではないか。何事も、各人に無理のない状態でなんとかうまくやれそうなら、それに越したことはあるまい。彼は、84歳の時世に出した「養生訓」にて、こういう。

 「もし久しく安坐し、また、食後に穏坐し、ひるいね、食気いまだ消化せざるに、早くふしねぶれば、滞りて病を生じ、久しきをつめば、元気発生せずして、よはくなる。常に元気をへらすことをおしみて、言語を少なくし、七情をよきほどにし、七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ思ひを少なくすべし。慾をおさえ、心を平にし、気を和(やわらか)にしてあらくせず、しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。

 憂ひ苦むべからず。これ皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也。また、風・寒・暑・湿の外邪をふせぎてやぶられず。この内外の数(あまた)の慎は、養生の大なる条目なり。これをよく慎しみ守るべし。」

 ところが、そこは生身の人間だ。だからこそ、実際に毎日を過ごしているうち、難題がふりかかることがあろう。中には、どうしていいかわからない、そんな逆境の時には、人は何を「灯台」となすべきか。そこが定まっていれば、不安にもたじろぐばかりではなくなろう。

 そんなことを現代人につらつら考えさせてくれる貝原なのだが、彼には儒学者としての誇りというか、少し気難しい部分も持ち合わせていたのではないか。そんな憶測を呼ぶのが、例えば、芥川によるこんな批評なのではないか。

 「わたしはやはり小学時代に貝原益軒の逸事を学んだ。益軒はかつて乗合船の中に一人の書生と一緒になった。書生は才力に誇っていたと見え、滔々と古今の学芸を論じた。が、益軒は一言も加えず、静かに傾聴するばかりだった。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩(じくじ)として先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのである。

 当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少くとも発見する為に努力したことは事実である。しかし今は不幸にも寸毫の教訓さえ発見出来ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与えるは、わずかに下のように考えるからである。

 一 無言に終始した益軒の侮蔑は如何に辛辣を極めていたか
 二 書生の恥じるのをよろこんだ同船の客の喝采は如何に俗悪を極めていたか
 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何にはつらつと鼓動していたか」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)

 もちろん、芥川がこう言ったからとて、貝原が「はい、あの時は行き届きませんでした、あの時の若者に申し訳ないことをした」とでも弁明するのかといったら、おそらくはそうしないだろう。儒学にも、かの孔子をはじめとする聖人の言行録についての解釈や何かに幅があるのではないだろうか。だとしたら、貝原は彼のやり方でその若者に接した。そんな彼自身もやはり、その時代の支配的な精神に大きく影響されていたと考えるのが、自然な解釈なのではないだろうか。

(続く)

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♦️130の5『自然と人間の歴史・世界篇』宋の都・開封の賑わい

2018-12-10 18:21:03 | Weblog

130の5『自然と人間の歴史・世界篇』宋の都・開封の賑わい

 

 世に有名な「清明上河図(せいめいじょうがず)」とは、いったいどんな絵なのであろうか、興味をそそられる。それは、宋の徽宗の在位(1100~1125)末期の、繁栄する首都・開封(かいほう)の景観を今日に伝える。全長が5メートルにも及ぶ画巻といって巻物の体をなす。作者は、諸説があって、定かではないという説もあるらしい。

 その特徴としては、何しろ700人とも800人とも推定されるという、大勢の当時の人々を精緻に活写していることであろうか。その中でも圧巻だとされるのが、べん河に渡された「虹橋(こうきょう)」の近辺であって、極めつけの賑わいを示す。その橋だが、開封の中心街ではなく、近郊の小都市にあったという。そこを中心においた、春たけなわの清明節(二四節気のひとつ、太陰暦の三月)での一コマを描いたとのことだ。当時の金を追われ江南の地に逃れた市井の人・孟元老(もうげんろう)の観察眼をもって、こう紹介されている。

 「東水門の外、七里のところにある橋を虹橋という。その橋には、橋桁がなく、すべて巨大な木材をつかってアーチ型に渡してあり、あかいペンキで飾りたてているところは、ちょうど橋にかかった虹のようである。」(孟元老「東京夢華録」、邦訳は岡晴夫責任編集、陳舜臣監修「中国歴史紀行第四巻」学習研究社、1998より引用) 

  なお、金に追われて南に逃れた南宋の首都・杭州(こうしゅう、現在の浙江省)も、ここに紹介した開封に比べてよりいっそうの繁栄ぶりであったとも伝えられていて、開封の人口が当時「70~80万から100万」(同)と推定されていたのに対し、後者の13世紀になってからの人口は、一説には「100~150万」(同)とも推定されているところだ。

 

(続く)

 

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♦️130の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(神宗・王安石の改革)

2018-12-10 10:04:43 | Weblog

130の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(神宗・王安石の改革)

 六代目の皇帝の神宗(在位は1067~1085)は、野心家であるとともに、ち密な頭脳の持ち主であったらしい。これらを鎮める策をとることで、王権を強め、もって国を安定させたいと思った。鋭気のある王安石(1021~1086)を登用して国政改革にあたらせた。
 王は神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して事に当たる。一連の政治は「王安石の新法」などと呼ばれ、方策は多岐に渡る。
 その1は、「青苗法(せいびょうほう)」といって、春の植え付け時期に政府が資金を農民に貸し出し、秋の収穫期に利子を付けて返還させる貸付制度である。これの趣旨は、富農地主からの高利の借金に苦しむ自営農民に対し、政府が何某かの援助をしようと考えたのであろう。

 その2は、「均輸法(きんゆほう)」であろう。こちらは、政府が必要物資を調達するのに、農民の生産する物資を都に運ぶ際、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ることを約させた。これだと、御用商人などによる中間利得を排し、その流通を合理化することができるだろうと。

 その3は、「募役法(ぼえきほう)」とは、農民に労役免除の免役銭を納めさせ、それをもとに労役(差役)に従事するものを募集した。それまでの国家は、人民に対し苦しい負担を無償で課す、つまり、様々な労働奉仕を強いていたのを改める。今日でいうところの、ある種の「失業対策事業」にもなったのではないか。併せて従来、免役特権を持っていたや寺院などからも相応の金銭を徴収する道を開き、その財源をもって人民救済の事業を行う。

 4つ目としての「市易法(しえきほう)」は、政府が中小商人に資金を貸し付け、物を買わせ、値が上がったときに売り出させて、中小商人を保護するとともに物価の安定と流通の円滑化を促そうとした。これによって、暴利をむさぼる大商人などの市場独占を抑えようとした。

 その5としては、「方田均税法(ほうでんきんぜいほう)」ということで、正確な土地台帳をつくって課税の公正化を進めていく。貴族や大商人ら大土地所有者たちが行っていた大領の隠し田を摘発し、その脱税分を国庫に納めさせることを狙った。

ほかにもあって、その6としての「保甲法(ほこうほう)」は、その時々での傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。日頃はかれらを治安維持にあたらせ、農閑期には軍事教練を行う。7番目に「保馬法(ほばほう)」というのもあって、保丁に対し、政府が馬を貸し与え、平時には農耕馬として飼育させ、戦時には軍馬として調達する仕組みであった。
 これらを、大まかに、農民や坑戸・畦戸などの保護と、大商人・大地主と霧それにかかわる貴族らの抑制を目的とした施策の二つにまとめられる。一言でなぞらえるなら、「富国強兵」というところであろうか。したがって、人民にとっては、負担が軽くなる分と、それが重く厳しくなる分との両方があったであろう。

 何よりも、富裕階層(士大夫)とその出身である官僚(旧法派)からの、激しい妨害を受ける。察するに、彼らには、このままでは既得権益を根こそぎとられる、との危機感も手伝ったことであろう。

 概して、人びとはかれの志の高いことを評価せず、「天変畏(おそ)るるに足らず、祖宗法(のっ)とるに足らず、人言恤(うれ)うるに足らず」と非難したという。王安石とそのグループが粉骨砕身するも、改革の成果はなかなか上がらない。そのうちに、頼みの神宗が改革の志半ばで若死にする、また商人たちが貧民救済の政策の逆手をとって自らの利益を増やすなども台頭してくる。あれやこれやの行き詰まりのうちに、さしもの改革の勢いは弱まっていくのであった。

(続く)

 

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