♦️415の3『自然と人間の歴史・世界篇』テヘラン会談(1943.11.28~12.1)

2018-12-03 21:37:47 | Weblog

415の3『自然と人間の歴史・世界篇』テヘラン会談(1943.11.28~12.1)

 テヘラン会談(1943年11月28日~12月1日)は、カイロ会談の続きのようなものであった。アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相のほか、関係者が参加した。

 この会談での焦点は、連合国側の作戦の調整であった。一つ目は、ソ連の日本への参戦であり、スターリンは公式に承諾した。そして二つ目は、連合国側の作戦の調整であったが、ノルマンディー上陸作戦もこの会談で了承された。さらに、戦後の平和的枠組みについても話し合われたという。ただし、公式な話し合いの中身が明らかになっていない中、その全貌はわかりにくい。

 この会談では、スターリンが望んでいた、フランスの北岸からの上陸作戦が決定された。実際の作戦は1944年6月6日にずれ込むことになるのだが、この決定によってチャーチルが主張していたバルカン半島を経由してのベルリン進攻計画は消えた。

 概して、この時点でルーズベルトとスターリンとの間には、これといった意見の不一致は伝わっていない。

 

(続く)

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♦️415の2『自然と人間の歴史・世界篇』カイロ会談・カイロ宣言(1943.11.22~11.26)

2018-12-03 21:36:54 | Weblog

4152『自然と人間の歴史・世界篇』カイロ会談・カイロ宣言(1943.11.22~11.26)

 1943年11月22日から26日にかけては、カイロ会談が持たれた。これは、テヘランでの米英ソの3巨頭会談に先立ち、エジプトのカイロにおいて、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が協議した者であり、それに中国の蒋介石が加わった。そして12月1日には、次に紹介の「カイロ宣言」(Cairo ConferenceReleased December 1, 1943)が公開された。
 (英文)
 President Roosevelt, Generalissimo Chiang Kai-shek and Prime Minister Churchill, together with their respective military and diplomatic advisers, have completed a conference in North Africa.
The following general statement was issued:
"The several military missions have agreed upon future military operations against Japan. The Three Great Allies expressed their resolve to bring unrelenting pressure against their brutal enemies by sea, land, and air. This pressure is already rising.
"The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion.
It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China.
Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.
"With these objects in view the three Allies, in harmony with those of the United Nations at war with Japan, will continue to persevere in the serious and prolonged operations necessary to procure the unconditional surrender of Japan."
 (日本語訳(抜粋))
 「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ。
 各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。
 三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。
 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス。
 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ。
 日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ。
 前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス。
右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ。」(「日本外交年表並主要文書」下巻、外務省編(1966)の抜粋版から転載)
 これに述べられている日本の違法とされる領有地域なりのうちには、当時の国際通念からして日本が統治するなりしていた地域を含んでいる。具体的には、それらに該当する旧中国領の返還、朝鮮の独立そして南洋諸島の剥奪が含まれる。要は、それらすべてを含んだ意味あいにおいては、もはや日本にはそれらを語る国際的資格はない、というのが本宣言の趣旨であると考えられる。

(続く)

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♦️415の1『自然と人間の歴史・世界篇』モスクワ会談(1943.10.9~10.30)

2018-12-03 21:35:33 | Weblog

415の1『自然と人間の歴史・世界篇』モスクワ会談(1943.10.9~10.30)

モスクワ会談と呼ばれるものは、会談前の協議を入れて1943年10月9日~10月30日に開催の米英ソ三国の外相会談のことをいう。

 まずは、会談に先立つ10月5日、アメリカのルーズベルト大統領は、モスクワで開催される外相会談に先立ち、国務省スタッフとの協議で千島列島はソ連に引き渡されるべきだと発言したと伝わる。

 ところが、事前にもう一幕があったという。10月9日、モスクワでの会談に先立つ協議の場にイギリス首相のチャーチルとソ連首相のスターリンがいた。チャーチルが、その協議の内容を後日、こう述懐している。

 「この日の午後10時、クレムリンにおいて最初の重要な会談があった。参加者は私とスターリン、モロトフ、イーデン、ハリマン、そして通訳のバース少佐(英国側)とパブロフ(ソ連側)だけであった。

 私は頃合いを見て、バルカン諸国の問題について協議してしまおうと発言した。「貴国の軍隊はすでにルーマニアとブルガリアに入っているが、わが国にも利権があり、英国人も暮らしている。小さな問題に拘泥しないで処理したい。

まず提案したいのはルーマニアに対する貴国の影響力は90とし、かわりにギリシャに対する我が国の影響力を90としたい。またユーゴスラビアについては5分5分としたい」というのが私の示した合意案であった。この発言がロシア語に訳されている間に、私は紙の半分を使って次のように書きつけた・・・・・

 ルーマニア ロシア90%

   ギリシャ 英国90%(ただし米国の同意要)

   ユーゴスラビア 50―50%

   ハンガリー  50―50%

   ブルガリア ロシア75% 他国25%

 こう書きつけた紙片をテーブル越しにスターリンに押しやった。この時彼は通訳を通じてその内容を聞いていた。しばらく沈黙した後、スターリンは青鉛筆を使って大きなチェックマークを付け紙片を私に戻した。これで決まりだった。長い沈黙があったが、その間マークの付けられた紙片はテーブルの中央に置かれたままであった。

 私は沈黙を破って、「こんなふうにあっさりと数百万の人々の運命が決まるのは皮肉なものだ。この紙は焼いてしまいましょう」と言うと、スターリンは「いや、あなたがもっていてくれてかまわない」と答えたのである。」(渡辺惣樹「誰が第二次世界大戦を起こしたのかーフーバー大統領「裏切られた自由」草志社、2017」でのチャーチルの本「Triumph and Tragedy」からの引用、日本語訳は渡辺氏によると思われる)

 そして迎えた10月11日からの会談は、アメリカのハル国務長官がソ連外相のモロトフに対し、千島列島と南樺太をソ連領とするのに同意、その見返りに、ソ連が日本との戦争に参戦することを求めた。この要求に対して、モロトフは即答を避けたらしい。一説には、この会談最終日の10月30日となっての晩餐会の席上で、スターリンは、ハル米国務長官に、ドイツに勝利した後に日本との戦争に参加することを非公式に伝えたという。

(続く)

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♦️416『自然と人間の歴史・世界篇』ヤルタ協定

2018-12-03 10:24:00 | Weblog

416『自然と人間の歴史・世界篇』ヤルタ協定

 以下に紹介する「ヤルタ協定」は、1945年2月11日に行われた、ソヴィエト、アメリカ及びイギリスの3大国による「ヤルタ会談」で締結された。 当時は、秘密の協定扱いとなっていた。なお、アメリカ大統領は当時すでに病気であり、この会談の2か月後(1945年4月12日)に亡くなった。


 
(英文)
(1) We - the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.
(2) The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west, are poised to strike the final blows upon Japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the Allied Nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.
(3) The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan. The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.
(4) The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self-willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.
(5) Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
(6) There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
(7) Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.
(8) The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
(9) The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
(10) We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
(11) Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.
(12) The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.
(13) We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.
(日本語訳)
 「三大国即チ「ソヴィエト」聯邦,「アメリカ」合衆国及英国ノ指導者ハ「ドイツ」国ガ降伏シ且「ヨーロッパ」ニ於ケル戦争ガ終結シタル後二月又ハ三月ヲ経テ「ソヴィエト」聯邦ガ左ノ条件ニ依リ聯合国ニ与シテ日本国ニ対スル戦争ニ参加スベキコトヲ協定セリ。
一外蒙古(蒙古人民共和国)ノ現状ハ維持セラルベシ。
二千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルベシ。
(甲)樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」聯邦ニ返還セラルベシ。
(乙)大連商港ニ於ケル「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ之ヲ擁護シ該港ハ国際化セラルベク又「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ノ海軍基地トシテノ旅順口ノ租借権ハ回復セラルベシ。
(丙)東清鉄道及大連ニ出口ヲ供与スル南満州鉄道ハ中「ソ」合弁会社ノ設立ニ依リ共同ニ運営セラルベシ但シ「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ保障セラレ又中華民国ハ満洲ニ於ケル完全ナル主権ヲ保有スルモノトス。
三 千島列島ハ「ソヴィエト」聯邦ニ引渡サルベシ。
前記ノ外蒙古竝ニ港湾及鉄道ニ関スル協定ハ蒋介石総帥ノ同意ヲ要スルモノトス大統領ハ「スターリン」元帥ヨリノ通知ニ依リ右同意ヲ得ル為措置ヲ執ルモノトス。
三大国ノ首班ハ「ソヴィエト」聯邦ノ右要求ガ日本国ノ敗北シタル後ニ於テ確実ニ満足セシメラルベキコトヲ協定セリ。
「ソヴィエト」聯邦ハ中華民国ヲ日本国ノ覊絆ヨリ解放スル目的ヲ以テ自己ノ軍隊ニ依リ之ニ援助ヲ与フル為「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦中華民国間友好同盟条約ヲ中華民国国民政府ト締結スル用意アルコトヲ表明ス。」(外務省仮訳、日本外交主要文書・年表(1)、56
57ページ、条約集第24集第4巻より転載)

念のため、この秘密協定は、次のような形で現代語訳でも紹介されているところだ。

「米英ソ三国首脳は、ドイツ降伏の2か月ないしは3カ月後にソビエトが対日戦争に連合国の側に立って参戦することで合意した。ソビエト参戦の条件は以下である。

1、外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持

2、1904年の日本の攻撃によって失われたロシアの利権の回復

A、南サハリンおよびその周辺の諸島のソビエトへの返還

B、大連港の国際港化、同港におけるソビエトの利権の恒久的保護、ソビエトの軍港として利用することを前提にした旅順港の再租借

C、東清鉄道および南満州鉄道から大連への路線は、ソビエト・中国共同の会社によって運営される。これに伴うソビエトの利権は保障される一方、満州の主権は中国に属するものとする。

3、千島列島はソビエトに割譲されるものとする。

右記の、外モンゴル、港湾と鉄道に関わる合意については、蒋介石総統の同意を条件とする。大統領は、スターリンの助言を受けながら、蒋介石の同意を取りつける努力をする。

 ソビエトの要求事項は、日本の敗戦後に確実に履行されることで合意した。一方ソビエトは、中国政府と友好条約および軍事同盟を結び、中国の日本からの解放の戦いに軍事力を提供する準備ができていることをここに表明する。

1945年2月11

(署名)J・スターリン、フランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・S

・チャーチル」(これの出所は、ハーバート・フーバー著、ジョージ・H・ナッシユ編「裏切られた自由」であるが、訳は辺惣樹氏による。引用は、渡辺惣樹「誰が第二次世界大戦を起こしたのかーフーバー大統領「裏切られた自由」を読み解く」草志社、2017から) 

 ここで圧巻なのは、ソヴィエトの日本への参戦のことが盛り込まれている点。その予定期日としては、実際にソ連が当時の進攻したのは8月8日のことであったのだが、ソ連への要請としては、「早ければ7月7日、遅くとも8月7日」に日本を攻撃してほしいというのが、本協定の含意であった。
 ところが、それより早くの1941年4月13日に日本は日ソ中立条約を締結していることであり、いわば「かや」の外にいた日本はといえば、この連合国サイドにおける「密約」を知る由もなかったのは言うまでもない。また、これの第8項と第11~13項において、戦後の日本への仕置きにつきかなり踏込んだことが書かれている。その中で、日本の人民が平和に暮らせる政治形態をさらりといってのけているのが、特徴的だ。
 なお、中国とソ連との関係については、この後の8月14日に友好同盟条約として締結される。

(続く)

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♦️385『自然と人間の歴史・世界篇』ムンク

2018-12-03 09:17:10 | Weblog

385『自然と人間の歴史・世界篇』ムンク

 

 エドバルド・ムンク(1863~1944)は、ノルウェーの人。由緒ある家の生まれであったようだ。ところが、5歳の時、母が結核で死ぬ。続いて14歳の時には、姉も結核で亡くなるという不幸に見舞われた。

 そんな孤独に陥ってもおかしくない彼にして、いつ頃から絵心が芽生えたのだろうか、17歳で絵の学校に入学した。それから26歳で初の個展を開き、パリに留学する。そのパリで研鑽を積み、プロの絵描きとなっていく。同年、父が死去した。これで、身の回りがずいぶん寂しくなったに違いない。

  1892年、29歳の時にベルリンで個展をひらく。ところが、その個展の評判は、かんばしいものではなかった。青年期の気負いがあったのかもしれない。「マドンナ」(1895)という作品には、エロチシズムに浸るかのような女性があって、その頃の何物にもとらわれたくないという彼自身の生きざまと重なっているのではないか。

  1902年、ノルウェーに帰国した時には46歳になっており、それからが油の乗った時期といえようか。それから80歳で没するまで精力的に動いた。

  1910年頃からだろうか、「叫び」を全部で5枚も描いたという。厚紙にテンペラ、油彩で作られていて、橋の上の人物が幻聴に晒されているかのよう。向こうには、群青のフィヨルドらしきものが控えているし、上空の空は赤く血のようだ。その人は、自分が叫んでいるのではなくて、周りから聞こえてくる声というか、音というか、それを聞きたくないと耳を塞いでいるのだという。彼自身の言葉を借りるなら、「果てしない自然の叫び」を聞いたのだという。「森の吸血鬼」(1916~1918)も、この時期の作品だ。これらを「退嬰芸術」という批評の向きもあったのかもしれない。

 その一方では、光をふんだんに取り入れた作品も発表している。「太陽」(1910~1913)は、クリスチャニア大学(現在のオスロ大学)の講堂に描かれた大作だ。画面上の方から強烈な光線が降り注いでいる。まさに、生命の賛歌というべきか。

 それから晩年にかけては、自画像をよくものにした。「自画像、時計とベッドの間」(1940~1943)からは、ぼっーとしているようでいながら、部屋に光が差し込んでいることから、健康的な気分になっていたのだろう。一生涯で2万点以上の作品をうみだしたのは、画家名利に尽きるとみるべきか、彼にとっては生きることと同じ意味であったのだろうか。

 (続く)

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