◻️211の27『岡山の今昔』岡山人(19世紀、福西志計子)

2019-05-02 22:00:04 | Weblog

211の27『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、福西志計子)

 福西志計子(ふくにししげこ、本名しげ、1847~1898)は、高梁順正女学校創立者として広くしられる。

 備中松山藩の藩士である福西伊織の娘として、城下の伊賀町に生まれた。7歳で父と死別したため、母の手で育てられる。その隣家に住んでいたのだろうか、藩儒の山田方谷(やまだほうこく)の家塾、牛麓舎で勉学に励む。

 1875年(明治8年)には、岡山裁縫伝習所に学び、翌年高梁小学校付属裁縫所の教師として採用される。1879年(明治12年)には金森通倫、中川横太郎らが、翌年には新島襄が、相次いでキリスト教伝道に高梁を訪れた。そのことでキリスト教に感銘を受けたらしい。

 さっそくキリスト教婦人会の創立に尽力する。しかし、キリスト教に対する反感から世人の迫害を受け裁縫教師の職を失う。

 そこで志計子は、自ら私立裁縫所を開くことを決意し、1881年(明治14年)には、木村静らとはからって私立裁縫所を設立する。その翌年には、キリスト教の洗礼を受ける。1885年(明治15年)になると、高梁順正女学校と改名する。

 それとともに、裁縫に文学科を加えた教育内容に変更する。1887年(明治20年)には、東京に行き、洋服仕立て、西洋洗濯、それに毛糸の編み上げなどの技術を学ぶ。そして、これらを同学のカリキュラムに加えていく。

 同じ高梁を出発して活動していた留岡幸助、山室軍平らへも援助を忘れない、社会的な幅をもった活動を行う。その51年の生涯は、他者への奉仕に綾どられたものというに等しく、また、同学は1921年(大正10年) に県営に移され、さらに1949年(昭和24年)に県立高梁高等学校となり現在にいたる。

(続く)

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◻️228『岡山の今昔』岡山人(20世紀、上代淑)

2019-05-02 20:50:45 | Weblog

228『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、上代淑)

 上代淑(かじろよし、1871~1959)は、岡山における女性教育の草分けの一人だ。1889年(明治22年)、大阪のキリスト教関係の梅花女学校を卒業し、山陽学園の前身である山陽英和女学校に着任する。同学は、大西絹が1886年(明治19年)に新設したのだという。英語教師としての、19歳での初々しい出発であったらしい。

 その後22歳にして留学を志す。アメリカの女子教育の母と呼ばれるメリー・ライオン創立のマウントホリヨーク大学に学ぶ。ライオンとは、アメリカの女子教育の母と呼ばれる人物だという。

 日本に帰国してからは、元の学園に戻って教壇に立つ。そこで、何かしらを伝えようと。さぞかし、張りきっていたのであろう。その精神的支えとしては、敬虔なクリスチャンであることがあったとか。それはすなわち、『愛と奉仕』の精神であったに相違ない。1908年(明治41年)には、37歳の若さで校長となる。

 1924年(大正13年)に、キリスト教精神によると本来等しくあるはずなのに、人間等級つきの勲章をもらったのは、どちらかというと毀誉褒貶に列する、月並みの人であったとみなすべきだろうか。その翌年には、マウントホリヨーク大学から教育功労者として、ファイベターカバー賞を受ける。

 その有り様は、一服の絵に描いたような人生航路にして、彼女の墓碑には「神と人とに愛されて其生涯を女子教育の為に捧ぐ」とあるという。さながら、かの「一粒の麦もし死なずば」にも連なる言葉であるかのように。

(続く)

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