◻️241『岡山の今昔』岡山人(20世紀、岡崎嘉平太)

2019-05-21 20:23:41 | Weblog

241『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、岡崎嘉平太)

 岡崎嘉平太(おかざきかへいた、1897~1989)は、吉備郡大和村(現在の加賀郡吉備中央町)の生まれ。家は、裕福であったのかも知れない。

 県立の岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)までを、岡山で過ごす。そのご、東京の第一高等学校へとすすむ。

 1922年(大正12年)に東京大学を卒業し、日本銀行に入る。 エリートの道であろう。1939年(昭和24年)には、上海の華興商業銀行理事となる。こちらは、日中共同出資の会社であったという。それから、大東亜省参事官を務める。こちらでは、上海の大使館にいたという。その頃の言葉であろうか、次のようなものと伝わる。

 「我々は隣国とだんだん、だんだん交わりを深くして隣国との間に争いを起こさない。アメリカも大切な一人であり、我々が自由陣営から離れることは絶対、民族にとって不利でありますけれども、ただそれだけで、自由陣営に属しない者の悪口を言いけとばして済むかというと、そういうわけにはまいりません。まず相手を知る。とにかく我々は体を持って行って見る。向こうの人と直接会ってみる。直接向こうの実情を見た上で、我々の否応を判断しなきゃいけない。」

 1945年(昭和20年)には、日本敗戦となり、その処理で国民党政府の湯恩伯将軍と交渉する役割を担う。戦争責任には、問われなかったようだ。

 日本へ引揚げ帰国の後には、池貝鉄工、丸善石油の再建に参加する。続いて、全日空の副社長、1961年(昭和36年)には社長となる。

 1962年(昭和37年)には、高碕達之助経済訪中団に同行する。以来、日中友好に取り組んでいく。しだいに、日中民間総合貿易の中心人物となっていく。

 1967年(昭和42年)には、全日空社長を退く。その後も全日空に隠然たる影響力をもっていたという。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


◻️240『岡山の歴史』岡山人(20世紀、木村毅)

2019-05-21 13:01:41 | Weblog

240『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、木村毅)

 木村毅(きむらき、1894~1979)は、勝田郡勝田村(現在の勝央町勝間田)の生まれ。少年時代から、文学に傾倒する。田山花袋(たやまかたい)の「文章世界」への投稿など。

 地元の高等小学校を卒業後は、大阪に出て、キリスト教会にて英語をまなぶ。1911年(明治44年)には、早稲田大学予科英文科に入学する。6年がかりで卒業後は、出版社に勤務しながら文筆活動を続ける。

 1924年(大正12年)には、小説「兎と妓生と」を大阪毎日新聞夕刊に連載する。文学評論においても、1925年(大正14年)刊行の「小説研究十六講」は、のちに菊池寛や松本清張も熟読したという。松本清張は、恒文社版『小説研究十六講』に「葉脈探求の人―木村毅氏と私―」(1980)という一文を寄せている。その一節には、こうある。

  「小説研究十六講」を買ったのは昭和二、三年ごろだったと思う。私の持っているのは十三版で大正十四年十二月発行である。初版がその年の一月だから、一年間に十三版を重ねた当時のベストセラーだ。私は高等小学校を出てすぐにある会社の給仕になっていたが、時間を見つけてはこれに読み耽った。たとえば銀行にお使いに行きそこで待たされている間もこれを開いた。自転車で使いに走りまわるのに、五百ページの本は少々重くて厄介だったが、これを読むのがそのときのただ一つの愉しみだった。

 それまで私は小説をよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて立証し、創作の方法や文章論を尽したこの本に、私は眼を洗われた心地となり、それからは、小説の読みかたが一変した。いうなれば分析的になった。」

 それからは、社会主義思想の啓蒙活動で全国を遊説したりも加わる。安部磯雄の日本フェビアン教会の創設、賀川豊彦の農民学校に協力、それに日本労農党にも参加する、という慌ただしさであった。

 また、吉野作造らを中心に結成された明治文化研究会に参加する。「明治文化全集」の刊行に尽力したり。とにかく、精力的であったらしい。

 1928年(昭和3年)から2年間ヨーロッパに滞在したのち帰国し、「ラグーザお玉」を発表する。その後も、「日米文学交流史の研究」など。文学、歴史、政治などの分野を跨がって活動したことでは、近代でそうは前例がなかろう。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆の


◻️208『岡山の今昔』岡山人(20世紀、阿藤伯海)

2019-05-21 11:11:33 | Weblog

208『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、阿藤伯海)

 阿藤伯海(あとうはっかい、1894~1965)は、浅口郡六条院村(現在の浅口市)の生まれ。教育者にして、漢詩人。

 父は、村長を務め、祖父は家塾をやっていたという。矢掛中学校から第一高等学校、東京帝国大学を経て、京都帝国大学大学院に進んだというから、トントン拍子ということか。狩野直喜に経学を学ぶ。これは、古代からの中国の学問(哲学か)であるらしい。

 その後は、法政大学、第一高等学校で教鞭を執る。1944年(昭和19年)には、職を辞し郷里に帰る。以後、漢詩の詩作を中心に暮らす。

 1949年(昭和24年)には、岡山大学の創設にも参加する。1956年(昭和31)年から翌年まで、岡山県教育委員会委員を務める。しかし、会議に出て、失望し、辞職したという。学問一途の人には、世俗的なことは、馴染めなかったのだろう。

 珍しいところでは、農地改革では、田んぼをほとんど全て無料で手放し、家産を傾けても頓着しなかったと伝わる。また、所帯をもつことなく、「孤高の人」とも言われる。写真をみると、静かなたたずまいだ。

 没後に、教え子らによって漢詩集「大簡詩草」が刊行される。句碑もあり、吉備まきびを偲んだものである。中国人ならわかるのだろうか、ネット記事にて拝見したものの、筆者のごとき中国語の超初心者には、歯が立たないようだ。

 それはともあれ、数々の教え子たちからは「先生」の人柄を綴られ、地元では「はっかい先生」と慕われているらしく、教育者冥利に浸れるのではないだろうか。漢文の方は、せめて現代漢字に訳してもらえると、大いにありがたいのだが、いかがであろうか(例えば、「万葉集」の原文は漢文だか、解説者による「ヤマト言葉」による書き下し文が付けられて流布されており、当時の人々の息づかいが伝わってくる)。  

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


◻️207『岡山の歴史』岡山人(19世紀、西毅一)

2019-05-21 08:52:01 | Weblog

207『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、西毅一)

 西毅一(にしきいち、1843~1904)は、岡山藩の家老池田氏の家臣、霧山の家に生まれる。1858年(安政5年)には、父に従って大阪に行く。そこで学んだのち帰郷し、森田節斎の門人、西後村(にしこうそん)の、書生となる。
 余程気に入られたのだろうか、後村没後は、後村の養嗣(し)子となって西姓を名乗る。1869年(明治2年)には、上京し、同年には上海に渡る、そして帰国し、学んだ英語で、外交応接方になるというから、その俊敏さに驚く。

 1871年(明治4年)に台湾事件が起きると、被害にあった琉球人は日本の領分とみなしたのか、台湾の領有を譲らない清国に兵隊を向けるよう行動する。日本としては、この事件を種に台湾に出兵し、琉球の帰属に政治的野心のあることを世界に示した。かの当時の政府の中枢、慎重派の大久保利通も、これには加担していたというから、西ばかりをとやかくいえまい。

 1875年(明治8年)には、岡山県参事に、その翌年には東京上等裁判所判事となるが、さらに翌年辞任してしまう。せっかく手に入れた職であったろうに、次から次へと考えが発展していたのだろうか。
 1879年(明治12年)になると、清国に渡り文学研究に励む。ところが、病気になり帰国する。同年、自由民権運動が高揚すると、これに身を投じる。国会開設運動にいそしむ。県下における運動の中心的存在になり、政府に国会開設の建白書をだす。板垣退助らとも連絡していたのだろうか。

 そればかりではない。1880年(明治12年)には、旧岡山藩士族の生活困窮を救うべく、微力社を設立する。1881年(明治13年)には、閑谷学校の再興を図り、保こう会を設立する。
 1890年(明治23年)の第1回及び第2回衆議院議員選挙に当選するが、政府側に属したらしい。威張るところはなく、議員生活は質素なものであったらしい。その後は、閑谷学校の経営に心血を注ぐ。これが、天命とわかったよう。学校は、1903年(明治36年)に、私立閑谷中学校となる。ところが、その翌年に自殺してしまったのは、惜しい。休むことなく働いてきた人生を振り返っていたのなら、未来を担う若者たちに何を伝えようと考えていたのだろうか。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆