241『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、岡崎嘉平太)
岡崎嘉平太(おかざきかへいた、1897~1989)は、吉備郡大和村(現在の加賀郡吉備中央町)の生まれ。家は、裕福であったのかも知れない。
県立の岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)までを、岡山で過ごす。そのご、東京の第一高等学校へとすすむ。
1922年(大正12年)に東京大学を卒業し、日本銀行に入る。 エリートの道であろう。1939年(昭和24年)には、上海の華興商業銀行理事となる。こちらは、日中共同出資の会社であったという。それから、大東亜省参事官を務める。こちらでは、上海の大使館にいたという。その頃の言葉であろうか、次のようなものと伝わる。
「我々は隣国とだんだん、だんだん交わりを深くして隣国との間に争いを起こさない。アメリカも大切な一人であり、我々が自由陣営から離れることは絶対、民族にとって不利でありますけれども、ただそれだけで、自由陣営に属しない者の悪口を言いけとばして済むかというと、そういうわけにはまいりません。まず相手を知る。とにかく我々は体を持って行って見る。向こうの人と直接会ってみる。直接向こうの実情を見た上で、我々の否応を判断しなきゃいけない。」
1945年(昭和20年)には、日本敗戦となり、その処理で国民党政府の湯恩伯将軍と交渉する役割を担う。戦争責任には、問われなかったようだ。
日本へ引揚げ帰国の後には、池貝鉄工、丸善石油の再建に参加する。続いて、全日空の副社長、1961年(昭和36年)には社長となる。
1962年(昭和37年)には、高碕達之助経済訪中団に同行する。以来、日中友好に取り組んでいく。しだいに、日中民間総合貿易の中心人物となっていく。
1967年(昭和42年)には、全日空社長を退く。その後も全日空に隠然たる影響力をもっていたという。
(続く)
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