◻️238『岡山の今昔』岡山人(20世紀、赤松麟作)

2019-05-13 23:16:28 | Weblog

238『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、赤松麟作)

 赤松麟作(あかまつりんさく、1878~1953)は洋画家。岡山の生まれ。1899年(明治32年)には、東京美術学校を卒業する。在学中は、洋画家の黒田清輝に師事する。そして迎えた1901年(明治34年)には、「夜汽車」により白馬賞を受賞、画壇に早速と登場する。

 その黒田から学んだのは、外光派風の明るい色調にあるという。人物画や風景画によって、堅実で慈味深い作風をものにしていく。

 1904年(明治37年)から1917年(大正6年)にかけては、大阪朝日新聞社に挿し絵記者として働く。1908年(明治41年)には、大阪梅田において赤松洋画塾を開設する。また、関西女子美術学校においては、洋画部の代表となる。

 そんな赤松の「土佐堀川」は、麟作の前期の代表作であり、同時に大正中期の洋画の雰囲気を持つ。全体的に淡い色使いにて、当時の大阪土佐堀川の情景をよく伝える作品としても貴重だとされる。ちなみに、土佐堀川(とさぼりがわ)は、大阪市内を流れる旧淀川の分流の一つである。 旧淀川は、上流の大川(おおかわ) から中之島をはさんで北の堂島川と南の土佐堀川に分かれる。

 また、「裸婦」という作品には、豊満な中にも、物憂げな女性が視線を前方斜め下に投げかけている。

(続く)

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◻️236『岡山の今昔』岡山人(20世紀、鹿子木孟郎)

2019-05-13 22:06:33 | Weblog

236『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、鹿子木孟郎)

 鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう、1874~1941)は、旧池田藩士の三男に生まれる。生家は、岡山市東田町にある。8歳で伯父の鹿子木家の養子となる。

 高等小学校を卒業してからは、初め松原三五郎の天彩学舎に学び、のち上京して小山正太郎の不同舎に入る。

 その後は、滋賀、三重、埼玉で中学の図画教員をつとめていく。1900年(明治33年)には、渡米をはたす。ワシントンやボストンにて、仲間と水彩画展を開くと、好評を博したらしい。

 1901年(明治34年)には、ロンドン経由で渡仏し、歴史画家・ローランスに師事する。1904年(明治37年)に帰国すると、京都に居を構え、画塾を開く。明治美術会、太平洋画会、官展にと、次々出品していく。

 そんな師ローランスを描いた、第2回文展出品作「ローランス画伯の肖像」は名作との評価をもらう。ほかにも、1926年に明治神宮絵画館の「奉天入城図」、そして1940年(昭和15年)には、「南京入城図」を制作する。後者は、支那事変の際に遊就館に納めたのだという。

 やがては、関西美術院を設立する。1939年(昭和14年)になると、院長に就任する。京都高等工芸学校(のちの京都工繊大)でも指導にあたる。その後は、どちらかというと、大方教える側に回っていく。

 その作風だが、肖像画や風景画で力を発揮していく。代表作には、「ローランス画伯の肖像」「新夫人」「漁夫の家」など。

(続く)

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