◻️229『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片岡鉄平)

2019-05-06 20:23:17 | Weblog

229『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、片岡鉄平)

 片岡鉄平(かたおかてっぺい、1894~1944)は、なかなかに紆余曲折の作家だと言えようか。苫田郡鏡野町の生まれだ。津山中学に進んだというから、家は貧乏ではなかったらしい。その在学中、既に「文章世界」などの文芸誌に投稿していたというから、驚きだ。

 それからは、第六高等学校の受験に失敗して自殺を図ったりもあった。一旦こうと思ったら、突き進んでいくタイプなのかもしれない。今度は、上京して、慶應義塾大学仏文科予科に入学したものの、出席日数が足りなかったことから、中退したという。

 それで故郷に戻って、代用教員や山陽新報など色々と仕事を変えているうちにも、文学への情熱は冷めやらず、小説を手がけていく。そして迎えた1921年(大正10年)、雑誌「人間」に「舌」が掲載されると、一気呵成にと上京する。

 それからは、創作に励み連作を発表するとともに、横光利一や川端康成といった仲間とともに、「新感覚派」としての作家生活をしていく。その後、1928年(昭和3年)には、どういうきっかけであったのだろうか、プロレタリア作家の仲間入りをする。

 その頃の代表されるのが、「綾里村快挙録」に登場する「殿村賢治郎」であり、そのモデルとされる「野々村善二郎」については、こう語らせている。

 「彼は村の商人の子で、小学校時代から秀才だった。遠野の中学を経て、盛岡の高等農林を出るとすぐ、群馬県の農林学校の教諭になった。
 つい少し前に起こった群馬共産党事件は、彼をひどく刺激した。その頃の社会的状勢から考えると、そんな僅かな人間が、強勢な官憲を向うに廻して闘うということは、無鉄砲極まる暴挙であるように誤解されやすかった。何故彼らは不定の徒と罵られながら、生命を賭してまで権力と闘わずに居られなかったか?それは理想のための闘いだと、賢治郎はおぼろに解釈した。では、それほどまでに人を犠牲的ならしめ、熱情的ならしめるその理想は、何所から来るか?
 それが、若い賢治郎にとって興味ある問題となった。やがて彼は、目を瞠いて、周囲の現実を見るようになった。今までこれが現実だと教え込まれた現実とは、何とちがった世界に、彼は生きている事だったろう。」

 およそこれを読むに、かかる「殿村賢治郎」には、労働者インテリの役どころをあてがっているということであろうか。

 ところが、1932年(昭和7年)に、治安当局に逮捕、投獄されてしまう。第三次関西共産党事件によるものであり、取り調べには拷問という暴力がつきものであっただろう。「生命が惜しくなって転向したのだが。同時に、出獄したら世間から振り向かれもしないだろう」ということでもって「転向」を余儀なくされる。

 地獄を見て解放されてからは、大衆小説を書いていく。仏門に入って、「尼寺の記」を著したりしていたが、気持ちは、まだ晴れていなかったのかも知れない。

 顧みると、作家には、大きな可能性があったのだが、それを十分に花咲かせることなく、類い稀な記録文学の短編などにも、それらのことがうかがえよう。人間、この花のように生きよ、と天からいわれた気持ちがしても、現実にはなかなかに叶わぬものなのかもしれない。

 それからもう一つ、片岡の人生観を感じさせるような詞に、「海と大空の中の一点のわたしを孤独と思へ」とあり、津山市に北隣、鏡野町の公民館の前に、1951年(昭和26年)、友人の川端康成(新感覚派)の書で、これの詞碑が建てられている。


それからもう一つ、片岡の人生観を感じさせるような詞に、「海と大空の中の一点のわたしを孤独と思へ」とあり、津山市に北隣、鏡野町の公民館の前に、1951年(昭和26年)、友人の川端康成(新感覚派)の書で、これの詞碑が建てられている。

(続く)

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