◻️187『岡山の今昔』岡山人(19世紀、岸田吟香)

2019-05-26 22:36:10 | Weblog

187『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、岸田吟香)

 岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)は、日本の新聞記者、実業家、教育家と、幅広の事業を手掛ける。美作国久米北条郡垪和(はが)村(現在の岡山県久米郡美咲町)の庄屋の生まれ。

 14歳の時、津山に行き、漢学を習う。18歳の時には、円城寺(吉備中央町)に行き、「深山、大沢必龍蛇」の落書きを書いた、との逸話が伝わる。

 それからは、江戸へ出て儒学をまなんだり、大坂では中国語を学んだりする。1864年(元治元年)からは、目薬「精錡水」(せいきすい)を販売する。

 きっかけは、目を患って、アメリカの宣教師ヘップバーンに出会い、漢学を見込まれ、彼の和英辞典の編纂を手伝う。ついでに、目薬の処方箋を教えてもらい、研究し、その製造方法を手にしたようだ。やがて、薬業界の大立者となっていく。

 また、このことが契機となり、新聞という文化のあることを知ったという。1865年(元治2年)には、日本ではじめての民間新聞「海外新聞」を発行する。1868年(慶応4年、明治元年)には、イギリス人バン・リードと共同で、「横浜新報・もしほ草」を発行し、主筆と編集を担う。1873年(明治6年)には、創刊したばかりの東京日日新聞社に入社する。主筆となり、陸軍が台湾事件で出兵したおりには、従軍記者になったりもしたという。

 変わったところでは、 1872年(明治5年)には、卵かけご飯を食べた日本で初めての人物ともされ、以来、周囲によく卵かけご飯を勧めていたらしい。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


◻️257『岡山の今昔』岡山人(20世紀、内田吐夢)  

2019-05-26 21:12:33 | Weblog

257『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、内田吐夢)

 内田吐夢(うちだとむ、1898~1970)は、岡山市北区天瀬戸の生まれ。岡山中学校(現在の岡山朝日高校)へすすむ。

 だが、2年でやめ、ピアノ調律師を志して横浜に行く。「年期奉公」として、ピアノ製作所で働く。1920年(大正9年)には、横浜の大正活動写真株式会社(大活)に出入りする。そこにいた谷崎潤一郎の薦めで、俳優として雇われる。

 1926年(昭和元年)になると、日活京都大将軍撮影所に入る。ほどなく、監督を目指すようになる。翌年には、日活で監督になり、1930年(昭和4年)には「生ける人形」を、1932年(昭和6年)には「仇討選手」を手掛ける。

 本格的な作品としては、1927年(昭和2年)の喜劇「競争三日間」ではないかという。1929年(昭和4年)には、片岡鉄平の小説「生ける人形」、長塚節の「土」を映画化する。

 日中戦争中は、軍部に協力するよういわれ、関東軍を描く「陸戦の華」の脚本を頼まれるものの、はかどらないまま敗戦を迎える。時代に翻弄されながらの何年かであったのだろう。

 そして迎えた帰国後、「血槍富士」でカムバックする。これは、槍持ちという脇役的な位置づけにある権八が主人公であるということ。その上、物語の進み方も変わっていて、主人公が自分で考え、判断を行う中で、封建社会に立ち向かう。

 それからは、「宮本武蔵」「大菩薩峠」などの大衆映画を手掛けていく。続いての「飢餓海峡」は、水上勉の原作だが、時代の変わり目を「荒廃」という観点から浮き彫りにした。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆