187『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、岸田吟香)
岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)は、日本の新聞記者、実業家、教育家と、幅広の事業を手掛ける。美作国久米北条郡垪和(はが)村(現在の岡山県久米郡美咲町)の庄屋の生まれ。
14歳の時、津山に行き、漢学を習う。18歳の時には、円城寺(吉備中央町)に行き、「深山、大沢必龍蛇」の落書きを書いた、との逸話が伝わる。
それからは、江戸へ出て儒学をまなんだり、大坂では中国語を学んだりする。1864年(元治元年)からは、目薬「精錡水」(せいきすい)を販売する。
きっかけは、目を患って、アメリカの宣教師ヘップバーンに出会い、漢学を見込まれ、彼の和英辞典の編纂を手伝う。ついでに、目薬の処方箋を教えてもらい、研究し、その製造方法を手にしたようだ。やがて、薬業界の大立者となっていく。
また、このことが契機となり、新聞という文化のあることを知ったという。1865年(元治2年)には、日本ではじめての民間新聞「海外新聞」を発行する。1868年(慶応4年、明治元年)には、イギリス人バン・リードと共同で、「横浜新報・もしほ草」を発行し、主筆と編集を担う。1873年(明治6年)には、創刊したばかりの東京日日新聞社に入社する。主筆となり、陸軍が台湾事件で出兵したおりには、従軍記者になったりもしたという。
変わったところでは、 1872年(明治5年)には、卵かけご飯を食べた日本で初めての人物ともされ、以来、周囲によく卵かけご飯を勧めていたらしい。
(続く)
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