◻️239『岡山の今昔』岡山人(20世紀、松岡寿)

2019-05-19 21:46:12 | Weblog

239『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、松岡寿)

 松岡寿(まつおかひさし、1862~1944)は、岡山藩領の内山屋敷で生まれる。父は、日本での洋学の先覚者の一人。1872年(明治5年)には、父とともに上京して、思想家の西周の家に下宿する。1873年(明治6年)には、川上冬崖の聴香読画館に学ぶ。父と西夫妻の勧めがあったという。

 1876年(明治9年)に開校の工部美術学校に入る。 1878年(明治11年)には、十一字会を組織する。1880年(明治13年)には、イタリアに留学をはたす。向こうでは、ローマ美術学校に学ぶ。

 1888年(明治21年)には、帰国する。初期にはバルビゾン派風の自然主義的な画法を学んでいたのが、留学後はイタリア官学風の堅実な手法に移る。 1889年(明治22年)になると、浅井忠らと明治美術会を結成する。続いての1892年明治美術学校を設立する。

 さらに東京帝国大学工学部講師、東京美術学校教授、東京高等工芸学校教授、同校長、文展審査員を歴任する。主な作品としては、「ローマ、コンスタンティヌス凱旋門」 (1882、東京芸術大学)、「ピエトロ、ミカの服装の男」 (岡山県立美術館)など。

(続く)

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『◻️206『岡山の今昔』岡山人(19世紀、阪谷朗盧)

2019-05-19 21:04:42 | Weblog

206『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、阪谷朗盧)

 阪谷朗盧(さかたにろうろ、1822~1881)は、幕府代官の手代であった父の家に生まれる。その家は、備中川上郡九名(くめい、現在の井原市美星町)にある。その父について大和・大坂に移り、大坂ではかの兵法家にして、儒教の一派、陽明学者にして実践哲学の大塩平八郎に学ぶ。さらに1838年(天保9年)には、江戸に出て、昌谷精渓(さかやせいけい、同郷)、古賀庵に漢文なとを学ぶ。

 1848年(かえい元年)に母の病気の知らせを受けての帰郷後は、伯父の山鳴大年の援助を受け、桜渓塾を開いて近隣の子弟を教える。儒学を丁寧に教えることで、評判をものにしていく。
 その後、領主である一橋家の代官友山勝次によって開校された郷校「興譲館」の初代館長として招かれる。既に、高名であったらしい。その興譲館は、1853年に開校したもので、弘道館(水戸)、明倫館(萩)と並んで、幕末の「天下三館」と謳われた。なかなかの人気であったらしい。なお、この学舎は、学校法人興譲館高等学校として現在に続く。

 明治になってからの1870年(明治3年)には、広島藩主に従って東京にでる。維新政府の役人に取り立てられ、要職をこなしていく。その間には、福沢諭吉らの立ち上げた明六社に参加し、雑誌に論文を寄せる。1879年(明治14年)に退官してからは、自宅で春崖塾を開き、教育にあたる。

 それから、阪谷が1868(明治元)年に館長職を退いた興譲館だが、その組織は私立学校から社団法人となり、さらに1926(大正15)年には財団法人となり、この地域に根を張っていく。

 かかる財団設立当時、その運営規則「寄付行為」に記される館の目的については、こうある。いわく、「永久私立学校として学問の自由を尊重、社会各般の真理を研鑽し、知徳体兼備の人材を養成、人類の安寧幸福を増進する」となっている。そして今では、阪谷が館長を務めた当初の校門は後に岡山県の史蹟に指定されているとのこと。

 その人生をつうじ、漢文だけでなく、多方面の学問に精魂を傾けるとともに、その人柄は優しいものであったと伝わる。

(続く)

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◻️186『岡山の今昔』岡山人(18世紀、鍬形蕙斎)

2019-05-19 19:52:39 | Weblog

186『岡山の今昔』岡山人(18世紀、鍬形蕙斎)

 鍬形蕙斎(くわがたけいさい、1764~1824)は、江戸時代後期の絵師。だれがその顔を描いたのだろうか、同時代の葛飾北斎のものとは異なり、穏やかな表情をしている。

 通称は三二郎という。初め北尾重政に学んで北尾政美と号す。黄表紙の挿絵画家として世に出る。江戸の鳥瞰図「江戸一目図屏風」(県指定文化財、津山郷土博物館蔵)、「扶桑国略図」(神戸市立博物館蔵)を描いて有名になる。あれやこれやの、多くの絵本も制作していく。

 1794年(寛政6年) には、津山侯の御用絵師となる。当時の絵師の社会的地位の低さからみて、破格の出世というべきか。狩野惟信に学んで鍬形蕙斎、また紹真と名のるようになってからは、版画制作よりは、肉筆画を描いていく。

 主要作品としては、「近世職人尽絵巻」 (きんせいしょくにんづくしえことば、東京国立博物館) が有名だ。そして、この絵巻の制作を命じたのか、かの松平定信なのでは、というから驚きだ。これは、時は1801年(享和元年)から1803年(同3年)頃、当時の市中の人びとの暮らしが克明に写しとられていて、たとえば、「居酒屋」(中巻)や「紺敷」(下巻)には、人びとが生き生きとしている。時代は違うものの、中世を映しての「一遍聖絵」とも通じるのではないだろうか。後者のような景色のデフォルメをふくめてのものではなく、その場面をそのまま写しとったかのよう。

 そんなかれが、藩主の参勤交代からの国元帰りで、津山に赴く。津山では、城の御殿のふすまに絵を描いたりしたというが、そればかりではない。津山城下の全体図を描いており、現代に伝わる。「津山景観図屏風」といい、津山郷土博物館に、六曲一双の写しとして展示され、津山市指定重要文化財だという。これが当時の様子を伝えることで、かれは暫しの間、なかば「客人」でありながら、「岡山人」とみてよい日々を送ったのではないだろうか。

(続く)

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◻️205『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、原撫松)

2019-05-19 19:06:37 | Weblog

205『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、原撫松)

 原撫松(はらぶしょう、1866~1912)は、現在の岡山市北区出石町の生まれ。岡山藩士で後に銀行業に携わった原金兵衛が父である。岡山師範附属小学校に通うのだが、すでに画家を目指していたというから、驚きだ。

 1881年(明治14年)には、京都府画学校の西宗学科で、西洋絵画を小山三造らにまなぶ。在学中に父が死ぬ。苦学して、首席で卒業したという。

 1886年(明治19年)には、岡山に戻る。依頼された肖像画を描いて、生活していたという。1896年(明治29年)、帝国鉱山局長の伊藤弥次郎の勧めがあって、上京する。画号の「撫松」を、かれから受けたらしい。その伊藤の紹介で仕事の依頼が増え、伊藤博文や西園寺公望、北里柴三郎ら有名人の肖像画も作っていく。

 1904年(明治37年)には、イギリスに留学する。それからは、レンブラントらの作品に学ぶ。観察に、模写にと励み、本格的な油彩技法を習得していく。主な作品としては、「坂田快太郎博士の像」(岡山大医学部所蔵)、「老人像」(岡山県立美術館)などの肖像画をよくした。変わったところでは、「裸婦」があり、後ろ姿にみいってしまう、古今東西の傑作の一つではないか。

(続く)

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