◻️233『岡山の今昔』岡山人(20世紀、高木東六)

2019-05-08 22:01:33 | Weblog

233『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、高木東六)

 作曲家の高木東六(たかぎとうろく、1904~2006)の出身については、本人の弁があり、こういう。

 「米子市長に言わせると、「あなたは五歳まで米子市にいたのだから、からだにはもはや米子の空気がよく染み渡っているはずだ。従って高木東六は立派に「米子出身!」ということになるらしい。

 しかし、ぼくは五、六歳の幼児期、岡山の父の実家へも預けられたことがあるので、どちらも半分くらいずつのなつかしい思い出を持っている。」(高木東六「わが愛する岡山」、研秀出版の「ワイドカラー旅」のうち「山陽、山陰」、1975)

 父は、神父を務めていたという。なので、幼いころから聖歌を歌ったりで、知らずと音楽に親しんでいたようだ。やがて、東京音楽学校(現・東京芸大)に学ぶ。ところが、ドイツ音楽にはなじまず、フランス音楽に惹かれて中退する。フランスに渡り、パリで音楽を学ぶ。

 帰国してからは、依頼されて作ったのか、内務省や軍部なりに命じられてであろうか、「空の神兵」を作曲する。もっともかれは、日本ハリストス正教会に所属するロシア正教徒であり、聖名はギリシャ語による語源で「不死の者」の意味のアファナシイというとのことであり、その事との関係で良心に反することのようにも感じられるのだが。

 戦後になると、さぞかし自由を感じたのだろうか、歌謡曲「水色のワルツ」は、同時代の作品とは一線を画した明るいメロディーで、二葉あき子の歌によって多くの人の心を和ませた。

 その主なる作曲のジャンルとしては、交響曲、オペラ、シャンソンなど幅広かった。とはいえ、5つの音階しかない日本の演歌や民謡には批判的だったようだ。その気さくで明るげな立ち居振舞いから、テレビ番組「あなたのメロディー」(NHK)や「家族そろって歌合戦」(TBS系)の審査員としてもお茶の間に親しまれる

 そんな高木の岡山話から、したしげなところを、しばらく紹介しよう。

(続く)

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◻️211の29『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、矢野恒太)

2019-05-08 19:57:55 | Weblog

211の29『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、矢野恒太)

 矢野恒太(1866~1951)は、備前国上道郡角山村(現岡山市東区)に生まれる。1889(明治22)年には、第三高等中学校医学部(現在の岡山大学)を卒業し、日本生命保険に医員として入社する。1892(明治25)年には、退社。1894(明治27)年安田善次郎の要請により共済生命保険を設計、支配役就任する。1897(明治30)年には、共済生命保険総支配役となる。1898(明治31)年に、これまた退職。

 今度は農商務省に請われて入り、保険業法の起草に携わる。1899(明治32)年には、日本アクチュアリー会創立に尽力し、幹事(のち会長)就任。1900(明治33)年、同省において初代保険課長となり、1901(明治34)年の退官まで、つつがなく務めたという。

 そして迎えた1902(明治35)年には、日本初の相互会社としての第一生命保険を創業させる。これに至ったのには、かれが共済生命の設立のおり、ドイツへ留学して相互保険の研究をしたのが役立ったという。

 そんな「やり手」の矢野が保険業とは別に手がけたのは、「論語」の紹介と、統計集の発刊であった。なにしろ几帳面な性格にして、やることに真実味がこもっていたらしく、いずれも大当たりしたらしい。

 こうしたかれの幅広の取り組みの背景には、何があるのだろうか。そんな懸念を打ち消すかのように、「およそ人間の地位や名誉、財産ほどくだらないものはない。わしは無一文で生まれてきたのだから、無一文で死ぬのが理想だ」と言ってのけたらしい。これが本心からのものであるなら、この狭い日本はおろか、かの孔子をもしのぐ程の、稀代の大人物であるに相違あるまい。

(続く)

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◻️211の28『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、笠井信一)

2019-05-08 19:28:40 | Weblog

211の28『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、笠井信一)

 笠井信一(かさいしんいち、1864~1924)は、駿河国富士郡(現在の静岡県富士市)で生まれた。1892年には、内務属により官吏となる。その後は、山形県参事官、岩手県警務部長、台湾総督府、熊本県、岐阜県書記官と、そつなく務める。42歳で岩手県知事に抜擢されたおりには、財政再建に力を尽くしたという。岡山県知事には、1914年(大正3年)6月に着任する。1919年(大正8年)に栄転するまでの5年間を、岡山県第10代官選知事として行政任務を遂行していく。

 そして迎えた1917年(大正6年)には、岡山県令『済世顧問設置規定』を公布する。これに至ったのには、その前の1916年、地方長官会議で、大正天皇に「県下の貧民の状況はどうか」とたずねられたおり、答えられなかったという。

 岡山に帰っては、さっそく郡部では課税戸数、賦課等級の最下級すなわち1年平均6銭を負担する者、岡山市内では家賃月1円30銭以下の借家に居住する者を対象に、関連部署に生活状況に係る調査を命じる。すると、2万90戸、人口10万3700人、県内人口の10%は「極貧」であることがわかる。

 しかも、調査結果を市部郡部別で見ると、県平均は8・1%だが、浅口郡は12・4%、阿哲郡は1・2%と地域格差が認められたという。笠井は、「一片の訓令や漠然とした勧奨で恵の露に県民全体が潤うていた」と思っていたのを大いに恥じた、やに伝わる。
 そのことの重大さを認識してからというもの、日夜研究を重ね、ドイツのエルバーフェルト市でのコンセプトから着想し、かかる運びに至ったのだという。

(続く)

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