255◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大山康晴)

2019-05-27 23:11:00 | Weblog

255『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、大山康晴)

 大山康晴(おおやまやすはる、1923~1992)は、岡山県倉敷市の生まれ。5歳の頃には、将棋をさし始める。やがて、大坂へ出て、木見金治郎九段門下。
 1940年(昭和15年)には、プロ四段に昇格する。1952年(昭和27年)には、第11期名人戦で木村義雄十四世名人を破り、初の名人となる。以来、5連覇して十五世名人の永世称号資格を得る。

 1957年(昭和32年)には、兄弟子の升田幸三にその座を奪われたが、2年後に奪還するという具合、ここから13連覇を果たす。この間、1962年(昭和37年)には、初の五冠王(名人・十段・王将・王位・棋聖)にもなり、以来、長く将棋界に君臨する。大山にしてみれば、面目躍如といったところか。

 その生涯現役にも驚かされるが、いろんな格言を残したことでも知られる。「助からないと思っても助かっている」など、「攻め」よりは「受け」にまつわることでの名言が多い。それ以外にも、例えば、「不運が続くと思ったら、虚心になって変化を目指せ。不運を幸運に変える要諦は、これしかない」という。これなどは、「苦しい時ほど、視野を広くもって、その事象に当たれ」ということだろうか。

(続く)

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◻️256『岡山の今昔』岡山人(20世紀、三宅精一)  

2019-05-27 22:15:26 | Weblog

256『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、三宅精一)

 三宅精一(みやけせいいち、1926~1982)は、倉敷市の青果店の家の生まれ。やがて、地元の三菱重工業に勤める。

 そのうちに、召集令状が来て、軍隊に入る。1945年(昭和20年)12月には、復員する。1961年(昭和36年)頃からは、岡山市北区南方で旅館業を営む。そのかたわら、発明に興味があり、あれやこれやを試作する。

 そればかりではなく、動物好きが昂じて、セントバーナード犬の飼育を始める。そのことがきっかけで、ある日、盲導犬になる犬を探していた「岩橋英行」と出会う。岩橋は、社会福祉法人の日本らいとハウス理事長その人で、話が合う。

 その岩橋が、視力が弱まってきたことから、盲目や弱視の人が外出する時のことを考えるようになる。そんなある日、「足の裏で、歩道と車道の境目が判るようになれば、危険が減るのではないか?」との発想が脳裏に浮かんだという。

 苦心の末てあったのだろうか、点字ブロックを考案する。そして点字ブロックのデザイン・仕様を完成させる。

  そして迎えた1967年(昭和42年)、岡山市の盲学校近くの横断歩道口(中区尾島、国道2号線、現在の250号線)に、世界で初めて点字ブロックを設置する。岡山県や建設省と交渉してのことで、このための費用、点字ブロック230枚を三宅氏が負担する。

 しかし、すぐにはその有用性はなかなかに認知されない。三宅は、それからも私財を投じ、点字ブロック拡大のために活動を続ける中、しだいに、社会がこれを理解してくるのであった。人に優しい社会をひたむきに考え、行動することで、世の中を変えていく、大いなる人生だ。

(続く)

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