9『岡山(備前、備中、美作)の今昔』造山古墳の謎
造山古墳は、築造時期が5世紀前半に推定されている。古墳時代(3世紀末~7世紀初め)に全国で築造されている前方後円墳、およそ5,200基の一つだ。
この造山古墳は、全長350メートル、高さの31メートル、平面積約7.8ヘクタールの巨大な墳丘規模を形作っている。そして、約9.6ヘクタールの広大な墓域の中に築造されているとのこと。
そもそも、古墳時代(3世紀末~7世紀初め)に全国で築造されている前方後円墳5,200基の内で、第4位の規模なのは、なぜか。
一説には、雄略大王の治世、この古墳を造立した頃の吉備は、ヤマトを支える最大規模の首長であったと考える。つまり、勢力はヤマトと拮抗していたとはいえ、ヤマトにくみしていたとも。また、別の一説は、この古墳が、築造時には最大規模であったと考える。
それというのも、第1位の大山古墳(伝、仁徳天皇陵=全長486メートル)と第2位の誉田御廟山古墳(伝、応神天皇陵=全長425メートル)の建造はこれより後の時期だと考えられる。また、ほぼ同時期と見られる第3位の石津ヶ丘古墳(伝、履中天皇陵=全長365メートル)を、ほぼ同規模だと見なせば、従来の全国最大規模の渋谷向山古墳(伝、景行天皇陵=全長300メートル)の規模を大きく上回るからだ。
これらのうち通説では、前者の方が無難として採用されているかのようだが、決め手は述べられていない。そんなことから、想像を逞しくしてか、最大規模観の達成、少なくとも築造時に限れば全国最大規模と判断される。加えるに、巨大な前方後円墳の吉備での突如の出現をもって、単独ではないにしても。当時の倭国の政治体制の中心にこの地があったのではないか、ともいう。
どちらが正しいのかは、今後の発掘などを待たねばなるまいが、吉備説の弱点としては、造山古墳のかなりが、盗掘もしくは破壊のため、かかる検証がなかなかに困難であることによるのであろう。
参考までに、現時点での発掘調査では、こんな報道がされている。
「岡山市教委が発掘調査を進める全国第4位の規模の前方後円墳、造山古墳(同市北区新庄下)で7日までに、後円部の墳丘を覆う大量の葺石が出土した。墳丘の斜面全体に葺かれていた築造当初の状況を保っているとみられる。築造時に地盤を整えたと推測される造成土なども見つかり、市教委文化財課は「墳丘の本来の姿や築造過程の解明につながる」としている。」(平松隆記者)」(山陽新聞、2018年11月8日付け)
同記事によると、「2016年度(前方部)、17年度(後円部)のちでも葺石は見つかっているが、後世の破壊により墳端付近とみられる一部しか残っていなかった」とあり、それに比べ今回は、「葺石は後円部西側の試堀溝で確認。墳丘の斜面上に花こう岩の角礫(かくれき、一辺最大40センチ程度)が幅2メートル、奥行き1.2メートルにわたって隙間なく敷き詰められていた」とのこと。
かような地道な調査の積み重ねのうちに、関係者の努力により、いつかこの巨大古墳の全容が明らかになっていくのを、心待ちにしている。
(続く)
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